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空隙のダンス

20211122

このところ左官をやっている。

来年の春引っ越し予定の家の内装を、妻と僕とでいじっている。漆喰やら珪藻土やらを、コテを使って塗りつける。

これが楽しい。もう二度とやったるかくらいに思っていたけど、やると楽しい。

何年か前に半年間ほど塗りつづけていたことがあった。前職で旅館をつくっていて、モルタルと漆喰を塗っていた。

はじめたては楽しかった。けれど、しばらくたつと疲労と飽きがきて、最後の方はもう当分左官はいいやと思ってしまっていた。

左官の作業は見た目よりはるかに重労働で疲れる。

お世話になっていた大工さんから話を聴くに、左官屋さんは短期決戦。材料の重みが腕にのしかかる。大工さんがテコの原理なんかを駆使しながら、効率よく仕事を進めるところに比べて、左官屋さんは力の逃げ場が少ない。だから同じ現場にいても、体力の使い方や体つきが違ってくるのだそうな。

職人が疲れる作業を、素人が毎日長々と作業するもんだから、非効率極まりない。そのうちに、うわあもうやらねえとなっていった。

そんなわけで、新居の改修で左官をやるのはできるだけ控えたいと思っていた。やるにしても、少ない面積に効果的に使おうと思っていた。手当たり次第の左官は控えようと。

改修作業もぼちぼちと進み、質感のバリエーションを増やしたいなあと思いはじめた。そろそろ左官やるかと、重い腰をあげた。

数年ぶりでどんなものかと心配していたけれど、案外身体は動きを覚えている。締め切りなんかの不要なプレッシャーもないからか、軽快に取り組める。

楽しそうにやっている様子を、妻が撮影してくれる。

その動画の、自分の動きをみて驚く。僕はこんなにゆったり動いていたのかと。コテを持つ腕を中心としながら、背中や股関節が連動している様がみてとれる。動いているんだけど、時間が止まっているような感覚を、自分の動きにみる。

左官と、筆と墨とを使う書は、似てるのかもと急に思う。

水をはらんだメディウムであること、短期決戦で仕上がりが決まること。

そして、動きの質。書を書いているときの自分の身体は、左官の時のような姿をしているんじゃないかと妄想する。

コテと壁/筆と紙。モノとモノがぶつかる、その触覚に意識の大部分が向いている。接触しつつ接触させない、そんな動きの隙間に、漆喰や墨が、流れこむ。そしてその空いた間の変化の具合がそのまま仕上がりとなる。

左官も書も、“空隙のダンス”とでも言いたくなる、身体とモノ/身体と水との、やり取りの魅力があるのかもしれない(と言うとかっこつけすぎか)。

こう書いていて、僕のひいおじいちゃんは左官屋さんだったらしいってことを思い出した。また帰省でもした時に話を聴いてみたいものです。

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