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ピント

20201117

妻の、実家の家族LINEでの一コマについて、話を聴く。

妻父「〇〇君(妻の兄の子)は次は小学生か!小学一年生は勉強が一気に進むから気をつけろよ!二人とも(妻の兄と奥様)教員だからって油断してちゃダメだぞ」

妻兄「いや不安でしかないよ」

この会話の中で、気をつけることと不安なこととは、一体なんだろうなあとボーっと巡らせてみる。

勉強で置いていかれるみたいな、誰かと比べた頭のよしあしだろうか。

先日、友人が、「皆頭よくてすごいなあ」みたいなことを言っていた。

自分より他の誰かが、優れて見えるときがある。たしかにある。そしてその優れてることをうらやましく思ったりする。頭のよさしかり。

そんなときにできるだけ、ああこの人は自分とは違うピントを持ってここまで生きてきはったんやなあと思うように、僕はしてる。

頭がいい人なんていない、もしくは、誰だって頭がいい。頭がいいとか優れてるなんてのは、ピントが何にあっているか、何に関心をむけつづけてきたかが姿形をもっていることなんだと思う。

隣の誰かは、自分とは違う生い立ちや経験を持ってる。それぞれの複雑さをもって、それぞれの関心が生まれる。

その関心の運動、軌跡が、結果的に突出したものにみえたりする。

と、そんな具合に思えれば万事解決するのだけど、なかなかうまくいかないんですよねえ、これが。嫉妬。

ただこのところ、なんとなく思うのは、嫉妬とか執着って、振り回されずに、距離をおいて気がつければ、悪くないやんって思ったりもするのですよ。

嫉妬や執着は苦しい。撒き散らされるまわりも苦しいけど、何より本人が一番苦しい。

そうやって身を切る想いをしてまで、気になっちゃう本気の関心がそこに眠ってる。

その関心に気づくチャンスが嫉妬であり執着だろうと。

嫉妬だろうと執着だろうと、どんなにまわりに認められなくても、自分の関心を無視せず大切にしていればいい。

楽しいことでも、不満でも、自分にとっての焦点はそこにしかない。

その焦点のままに関心を愛でつづけてれば、その関心はいつのまにか武器になっていたりするのかもしれません。

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