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追求と追究

20201209

このところ、家具を探し回っていた。
新店舗で使う家具をいろいろと物色する。

そうやってそこそこの期間、家具屋の大量の情報を浴びつづけて、妻なんかはだいぶまいっていた。

「要領よくマルチタスクができないから疲れちゃった」みたいに言っていた。

その点僕は、マルチタスク、情報の整理整頓がそこそこに得意だとは思っているのだけど、それでも疲れた。

この疲れって何だろうかと巡らせてみる。

迷うってことな気がするけど、じゃあ迷うってどういうことか。

それでふっと思ったのは、選ぶ/選ばれるの関係に留まってしまうことが、迷うこと、そして、迷うことの疲れにつながるのかなってことだ。

選ぼう、よりよい結果になるよう選ぼうとすると、自分の手の届く限りを網羅したくなる。

求める分子は変わらないのに、求める分母ばかりを増やそうとする。

その瞬間瞬間で、分母のリミットがあることはわかるのだけど、下手に想像できる分、まだまだこんなもんじゃないと思ってしまう。そして疲れる。

家具を選ぶ話からはそれるけど、多分これは選ばれるってことでも変わらなくて、分母ばかり増やそうとしてしまう。

あんな人になりたい、あの人に認められたい、こんなステキな人になりたい。

足りないものを探しては、それを追い求める。
ただかなしいかな、分母を増やすことは一瞬でできても、分子を、実際のところを充実させることは時間がかかる。実践がともなう。

その結果、その落差に嫌気がさす。

もしくはすぐに分子と分母が一致すること、答えがわかってることだけに飛びつくようになる。

自分の中に分子と分母を設定してはそれに振り回されるのが、迷うであり、選ぶ/選ばれるの関係の中にいることなのかなと思う。

妻は疲れた〜って後に、こんなことも言っていた。

「買い物って娯楽といわれるけど、私には重かった。
誰かが作ったものを選ぶ時、ベストを探してしまう。
自分でなにかを作るときは、ベストは常に更新されていくから、そのときイマイチでも次は変えればいいやと切り替えられる。
いっそ椅子も机も陶器で作ろうか!
いや無理だとナゾの自問自答をした」

妻は陶芸が好きで、身の回りのものをいろいろつくってる。

つくるのは疲れないのに、選ぶ/選ばれるの関係だと疲れる。

誰かのつくったものでのベストは追求してて、自分でつくるベストは追究してる。

選ぶ/選ばれるの関係から、つくることは救ってくれる。

つくることは、分子と分母の関係から解き放ってくれる。

あるいは、分子と分母を、大丈夫と毛布でくるんでくれる。

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