相談
20201214
相談って無意味なのになんで皆するんだろう、とわりと長い期間思っていた。
無意味ってのは、結局ある決断をするのは自分一人なのにどうしてそんな迂回をするんだろう、ってことだった。
この一年ほど、自分はどんなことを一緒にいてくれる人たちにおすそ分けしたいだろうかとよく考える。
おすそ分けの一つは、自分で自分を救うキッカケがいいなあと、想ってる。
あなたのことをあなた以外に救わせてはいけない、と言い切りたいくらいな気もする。
そんなことを思いながら、相談って無意味なことに意味があるんだなあと、今更ながら腑に落ちた感じがあった。
決めるのは自分。
それはきっと間違いないんだと思う。誰だってそう。
だから相談している人も、内容のどうこうを、問うてない。
AかBか、どっちがいいかって相談してるつもりでも、本当のところはたぶん違う。
AだろうがBだろうが、決められないことそれ自体、決められない自分自身のあり方を問うてる。そんな気がする。
自分で決めるキッカケになることが、相談の目的だと思いたい。
AかBかを選んでしまう相談相手は、相談ではなく、教えを授けるに近いのかなと思う。
教えは、その場で展開していくってことで、短期的にはありがたいのかもしれないけど、結局中長期的な自立は蝕む。教えにすがる身体をつくる。
相談の無意味さを受け容れず、相談自体もしくは相談された自分自身の有益性を発揮しようとすると、教えになっていく。
相談の無意味さを受け容れると、相談された者は待つしかなくなる。
何をか。
相手がみずからの決断を下すことを。
そのためには、いつか決断を下せるだろうと、目の前の相手の未来を信頼する必要がある。
それと同時に、自分自身の有益性を発揮しなければなんて強迫観念から離れる必要もある。
ただただ相手が相手自身を受け容れてそこにあること、それを受け容れるためだけに自分自身のあり方をチューニングする。
その結果として、悩んだり迷ったりしてる自分も受け容れて、勝手に歩を進めていく。別にそこに留まっても構わない。ただあり方は変わってる。
自分で自分のことを認めていくキッカケをつくること。
それが相談なんだと思う。
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