イスラム教とキリスト教

キリスト教とイスラム教について、その入信の仕方について比較してみる。

以下の文章は先日のトランプ大統領の演説を聞いたときの違和感を整理するために

あくまで個人的に

おさえておきたかったことをまとめたものです。

キリスト教に入信するには「洗礼」という儀式を経る必要がある。これは「入信したい」という気持ちが最も重要だけれどもかといってそれだけでは充分ではなく、キリスト教とはなんたるものかを、言わば「勉強」してしかるべき立場の人にそれを認められて初めて入信となる。
その儀式を経るまでに、多かれ少なかれキリスト教の根幹を成す

清貧、従順、貞潔

という誓願を受け入れることになる。
こういった儀式を通して芽生える信者の意識として象徴的なのが共同体としての意識だと言える。そのような意識は現在でも各教会に所属している信者たちの中に(個人の意識に差はあるにせよ)根差していると言っていい。
このような制度を言い換えれば、キリスト教の入信は儀式を経た「登録制」であるとも言うことが出来る。そして教会の管理者は所属している信者の管理者のような役割も果たしているとも言える(会社の社長によって管理の仕方も様々であるのと同じで、管理者の性格によって各教会の雰囲気も様々)。更に、信者には自分の犯した罪を包み隠さず神父に告白する「告解」が義務付けられており、担当神父は教会に所属する信者の機密情報を一手に引き受けることになる。これは所属する信者たちの精神面における管理とでも言うべき事柄であり、信者たちの共同意識を強固にすることにかなり大きな影響を及ぼしていると言える。
歴史的に見ればこの教会のシステムは人民管理の重要な情報源として機能していた時代も長くあり、国家権力者(対外活動を担う管理者)と人民管理者としての教会が結託していたということは世界史で習った通り。

一方でイスラム教への入信過程がキリスト教のそれと決定的に異なるところは、イスラム教の入信は自分が唯一神アラーへ信仰告白をすればその時点でムスリムになるということ。キリスト教のようないわゆる「勉強」の過程がない。こう言うことも出来る。

キリスト教は「ちゃんと勉強してから入信」
イスラム教は「まず入信してから勉強」

このような過程で入信が認められるイスラム教は当然、キリスト教のような「教会」を同類項とした共同体意識は芽生えにくい。ここに、キリスト教国家とイスラム教国家の決定的な違いがある。

そもそも「国家」というような枠組み=領土の問題とそこに住む人民の把握・管理という発想は極めてキリスト教的な国家形成の発想であり、ムスリムの側からすれば本来であれば非常に不自然な発想であると言うことが出来る。

ここに、現在のキリスト教・イスラム教の抗争における大きな落とし穴がある。

現在、政治・経済の関係で便宜上、イスラム教徒が多く住むエリアにも様々な国家が定められているけれど、それはあくまで政治・経済の都合上なのであって、ムスリムとしての信仰心からすればそのような定められた領域というのはあってないようなもので、兼ねてから言われているようにイスラム系のテロ組織が中東はおろか世界中に潜伏していて全容が把握できないということが本当なのであれば、それは極めてムスリムの心情にかなっていると言える。

先日のトランプ大統領の演説は、上記のような立脚点から見た場合、非常に「キリスト教国家的な」見解だなあという印象を持たざるを得なかった。
繰り返すがムスリムの基本的な信条は、個人が唯一神アラーと契約を結んでいるのである。表立ったリーダーを殺した所で、ある程度のインパクトはあるかもしれないけれど、そのインパクトは、そのように唯一神アラーに信仰告白したムスリムたちの反感として跳ね返らざるを得ない。

キリスト教とイスラム教は神に対する契約の仕方、言わば信仰の仕方が違うのだから、キリスト教国家がキリスト教国家のやり方で制圧しようとしても問題の解決には「全く」ならない。

テロ組織が行う様々な残虐行為を許容できる訳ではないけれど、その根元を産み出している宗教の問題を考える基本的な立脚点として、

あくまで、個人的に

おさえておきたい。

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