アルプススタンドのはしの方

 朝バスを待っていた。音楽を聴いていた。
僕はあまりじっとバスを待っているのが嫌でぶらぶらうろついてしまうし、音楽を聴きながらだとうろうろしながらリズムに乗ってしまうので、列には並ばず、それとなく最後尾にいた。バスが到着するとそれでも、僕より後から来た人は申し訳なさからか、僕に順番を譲ろうとするので、それは僕がじっとしないことと引き換えにしたことと、先に乗車する権利はお断りする。すると、その女性が、なんとなく列からはぶれた若い女性に順番を譲っていた。それは違うだろ、と思った。

そうしてバスに揺られて街に向かい、朝から映画を3本みた。城定秀夫『アルプススタンドのはしの方』、アレハンドラ・マルケス・アベヤ『グッド・ワイフ』、キム・ボラ『はちどり』

城定秀夫『アルプススタンドのはしの方』(2020年・日本)
城定さんの名前は最近になって知って、それこそ直近の公開作に『性の劇薬』というBL映画があって、みようかどうしようかしているうちに公開が終わってしまったけれど、そもそもこの2作品が同じ監督だと知ったのは『アルプス~』を見終えてパンフをぱらぱらとみていた時だった。
タイトルから伝わるように、映画の舞台は甲子園の試合のアルプスタンド、それは全学をあげての応援で、けれどそこに素直にノれる子らと、そうでない子らがいる。例えばそのあぶれる子らをカーストで括っても、陰キャというキャラで括ってもどちらでもいいのだが、本作ではそうでなく、ただただ「アルプススタンドのはじの方」という場所でまとめ上げた。そうした設定に対し、観ていて、一幕ものの舞台のようだな、と感じたのだが、まさしく本作は高校演劇の映画化作品であった。であるからこそ、自然な登場人物の移動に感動してしまうのだ。
たとえば冒頭、野球の知識のない女の子ふたり組がしゃべっていて、そこから少し離れたところに男の子が座る。この2組の間にまだ接点はないし、会話もない。そのとき、試合は5回裏を迎える。ぞろぞろと席を立つ周りの観客たちに、女の子ふたりは疑問を覚えつつも、それをファールボール(それはふたりの間ではぶつかったら死ぬものとして捉えられている)からの避難と結論付けて、席を立ちあがる。と、そこに、そのとぼけた会話を聞いていた男の子が声をかけ、話込むうちに気がつくと3人は横並びに座っている。アルプススタンドのはしの方で学校行事をなんとかやり過ごそうとする子らを動かすのは、中々むつかしいと思うのだが、こうしたことをさりげなく、それもそれぞれの登場人物の関係性までも含めて、やっている。
悪人がいない、という文句は決して誉め言葉にならないとは思うのだが、ある程度生きてきてしまうと、一般的な人間関係において相手を悪人と認識するケースはなくなってきてしまう。例えば、この映画に出てくる熱血系の教師は、みんなで一致団結することを強制するし、応援という心が結果を変えるという精神論を振りかざす。僕も含めて、アルプススタンドのはしの方側の人間は苦手なタイプではあるが、いまこうして見てみると、彼にはそれ以外の方法がないのだな、と思うし、仮にそれで、万が一にも、そのやり方ではしっこ連中のごくごく一部が心を開いたら、と考えると、やってみること自体は責められないな、とも。もちろん個々にふさわしい接し方はあって、それを探り実践していくのが教師の職務なのかもしれないが、現状そんなことまで求めるほどの余力が彼らの生活にはないよな、とも。そうした意味で、この映画には悪人がいない。それぞれの、そこに至った経緯がある。
階層やキャラクターで括らずに、ただその場に居合わせたものとして、そこに至るまでの流れもばらばらな中でドラマが立ちあがるのだ。
それにしてもだ、ずっと触れずに来た最大の感動のポイントの謎とは、すごくシンプルに野球の応援というのはなぜこんなに感動するのか、ということだ。スポーツ全般に関心のない僕にはまったくわからないのだが、それでも、終盤の熱量には感動した。いかん、いかん、と思いながら。

2本目に見たのはアレハンドラ・マルケス・アベヤ『グッド・ワイフ』(2019年・メキシコ)で、メキシコ経済についてはまったく知らないが、1970年代に石油投資ブームがあり、それがはじけて財政破綻が起こった1982年ごろが舞台のようだ。ラストシーンの犬の鳴き真似が印象的、富めるものとそうでないもののマインド。また、なぜかずっとフリオ・イグレシアスに夢見ていて、こうした形で国民的な支持をひとりの芸能人が得られていたのはやっぱりメキシコでも80年代あたりまでなんだろうか、などと思った。と、3本目までの間の20分くらいで昼食をとっているときに安部辞任の速報が流れてきた、長かったな、と思った。

3本目はキム・ボラ『はちどり』(2019年・韓国)
1994年の、夏の、中学2年生の、韓国の女の子の話。生きることの、その言葉と内実との途方のなさや、生きることの反義語が死ぬことであるならば、十分に生きていない自分は本来死んでいなければならなくて、でもそんなことはなくて生きていて、それでもそこには途方のなさがあって、という子供のころの感覚を思い出した。そして、そうした曖昧さが、何かをきっかけにして、くっきりとしていく様も、僕らが経験したものだ。
主人公であるキム・ウニの14歳の夏という限られた時間のなかに、韓国社会が重ねられ、折りたたまれている。その痛みをしっていてなお惰性のようにはびこる家父長制、この時代ののちにさらに加速していく学歴競争社会、病室で流れる金日成の死、そしてそのことに素直に喜べばいいのかわからないのはテレビを囲う女性らが朝鮮がまだひとつの時代に生を受けたからだろう。僕はまったく韓国の事情は知らないが、キム・ウニという少女が、その時代を過ごしたという感触だけは、まだ感じている。
また、これはまったくの個人的なポイントなのだが、僕は劇中内で流れる音楽が好きで(例えばカラオケで歌う歌や、車から流れる音楽など)、それもその音楽がシーンとアンバランスであればなお嬉しい。終盤、キム・ウニがラジオかから流れてきた如何にも俗なおじさんの愛を歌った曲のなかで、その小さな肉体のエネルギーを確かめるように跳躍するシーンはよかった。僕たちがなんらかの感情を抱いたときに、それに見合った音楽や言葉や風景が手元にあるわけでは決してなくて、そのなにかわからないものの激流のなかで僕たちは、気がついたら大きくなっていっただけなのだから。
美しい映画だった。またいずれ観たいなと思った。

行き帰りの道中のバスのなかでは、畑中三応子『<メイド・イン・ジャパン>の食文化』(2020年、春秋社)を読んだ。なんとなく戦後の食文化史には関心があって、今年では久保明教『「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか?』(2020年、コトニ社)とかも読んだ。『「家庭料理」~』に倣えば、戦前においては「我が家の味」などはなく、そこにあるのはその地域の共同体の味である。それが、戦後の経済成長を通して地方の若者の都市進出に伴って、「我が家の味」は作られることになる。

夫婦がお互いの味の好みをすりあわせながら、新しい家族の味を築きあげていく。「我が家の味」には、標準化を前提にした個性だけでなかう、地縁から切り離された若い夫婦が料理を通じて新た共同性を作り出していく拠点となることが期待された。そこにおいて、幼少期の秀子が家庭や年中行事で食した「村の味」の記憶は、核家族という共同体をつなげる「我が家の味」に重ね合わされる。(「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか?』)

その家庭料理を可能にしたのは、しかし、スーパーで簡単に手に入るお手軽な食材によるものだった。豆腐やこんにゃくまで手作りなどしていられない。そしてまた『<メイド・イン・ジャパン>~』では、まさしくその職の簡便化に歩調を合わせるように、食の公害が進んだ歴史も描かれている。80年代の空前のグルメブームの立役者になったフレンチレストランへの憧憬は、栗原はるみの家で作れるおしゃれな家庭料理につながっているだろう。

いつもただその場限りで本を読んでいて、こうして文章化する必要性に追われて2冊を手元に突き合わせてページを捲っているのだが、なかなか良いものだな、と今更感じている。飽き性であるが故、その場限りで本を手にして癖は治らないだろうが。

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