泳ぐのに、安全でも適切でもありません

数日間余裕があったので、東京へいってきた。数か月に一度は東京へ行くようにしているのだが、その目的は概ね美術館巡りである。ひとりでぷらぷらと出歩き、美術館や合間に映画を見る。今回も国立西洋美術館のロンドン・ナショナルギャラリー展、国立近代美術館のピーター・ドイグ展、東京都現代美術館のオラファー・エリアソン展(および同時にやっていた企画展2つと常設展)、東京都写真美術館の日本の新進作家Vol.17およびエキソニム展、三菱一号館美術館の画家が見た子ども展などを回ってきた。基本的には展覧会を見に行ったときにはその図録を、映画に関してはパンフを買うのを常としているため、その際に買った図録を実家から郵送してもらえたら、またぱらぱらと捲りながら何か気に留めたことでも書けたら、と思う。

東京へ出かける際のひとつの喜びのようなものが、電車で移動する時間を読書に充てられるということである。個人的に電車での読書が最もはかどるのだが、当然そのために電車に乗車するということはないため、自づと電車で読書ができる機会というのは、東京へ繰り出したときに限られてしまう。日々用事を済ますのは東京だが、寝泊まりするのは実家のある茨城のため、この間は毎日なにかと3時間近くは読書に時間を充てられたわけで、結果数冊読了することができた。昭和史や倫理学、文法についての新書と江國香織の小説。ぱっと帯についた「谷崎潤一郎賞受賞作」という惹句に、こないだ文庫落ちしていた同じく谷崎賞をとった江國香織の作品を買っていたことを思い出し、あれ江國香織は2作も谷崎賞とっているのかへえ、と思い手に取った。いざ読もうと手にしてみると「山本周五郎賞受賞作」の空見だった。2つの賞がどうちがうのかはよくわからない。

江國香織『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』(2005.集英社文庫)は女性を主人公に据えた10篇の短編で成り立っている。気だるい朝や幸福なセックスや腹を満たす食事で彩られている。読み進めるなかで、なんとなく掴みづらい浮いた印象を覚えた。それは舞台が日本でなかったり、どことなく主人公の女性の自意識そのもののなかで物語が完結してしまっているように感じたからかもしれない。その、現実から浮かび上がってしまい生々しさを失っているという印象に答えが得られたのは、9つめの短編まで読み進めてからだった。「十日間の死」の主人公である私は日本で生まれフランスで育ち、その後日本の短大に進学するも馴染めず逃亡し、またフランスへ帰国。けれどそこでもまた馴染めず、しまいには本命と勝手に勘違いしていた男にフラれ、父親のクレジット片手にピリオドのある逃亡を試みる。その好きになった男との共通点はともに「帰りたい場所がないこと」だった。

 私たちは、死に瀕した近親者を見守ってる人間には、どうしたって見えなかっただろう。三人ともサングラスをかけ、白ワインを啜りながら、五分に一度は笑い声をたて。実際、浮き浮きしていた。陽気といってもよかった。祖母がとりあえず一命をとりとめたということ。じきに死ぬということの両方が、私たちを奇妙に高揚させていた。医者はああ言ったけれど、ばばちゃんはにこにこしていたし、全然苦しそうじゃなかった。ばばちゃんは私たちのうちの誰よりも健啖家だったし、着物の衿をちょっと抜いて粋に着て、夕方になると毎日かかさずビールをのんだ。戦争も地震もくぐり抜けてきたし、医者にかかったことがないのが自慢だった。医者にはわからなくても仕方がないが、あのばばちゃんが大人しく死ぬはずがない。私たち三人ともそう思っていた。それはほとんど確信だった。そして、その確信さと少しも矛盾しない不思議な冷静さで、彼女が死ぬことを知っていた。―――「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」
 『ねじ』も勲さんも美樹もあの男も、架空のことみたいに遠かった。あたしの過去も記憶も智也とのたのしかった日々も、もうこの世のどこにもないものだった。そこにあるのはただ公園と、朝と、「りんご追分」だけだった。清潔な空気と、それをふるわせるトランペットの音だけだった。あたしの心臓は架空のもののために泣いていた。架空なものたちろ、現実の智也と、現実のあたしのために。―――「りんご追分」
 私はつっ立ってそれを見ている。自分たち三人が、いま一緒に動物園にいるということが不思議に思える。物事の順番や、原因や道理は遠すぎてさっぱりわからないと思える。―――「動物園」

10の短編を通して描かれるのは、すぐ横にあるはずの現実そのものと(祖母の死、オレンジの汁、トランペットの音、レイプ未遂、生まれた子どもetc)けれどその生々しい現実と向き合うことを妨げる―それはまさしく現実の側から要請されたものかもしれないが――意識の遠さである。

「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」という言葉は、人生に対するある種の比喩として用いられる。つまり、生きることは安全でも適切でもない、と。彼女たちはそれでも泳ぎに、沖に出るわけだが、彼女らには帰る術がないのだ。本短編集の最後に配置された作品の終盤に、そのことを言い当てる一文が挿入されている。

 私の好きな男が妻と別れないのは、そこに帰るのが彼の習慣だからだろう。私はそんなふうに考えてみる。人にはみな習慣があるのだ。―――「愛しいひとが、もうすぐここにやってくる」

沖へ出て、泳ぐことを選んだ彼女たちに沖からの帰還の習慣は与えられていない。ただ茫洋と波間に浮かび漂うばかりだ。時折ぽっかりとりんご追分を鳴らすトランペットの音色に、その浮かんでいた水面がささくれ立っていたことを教えられまでだ。

と、滔々と適当なことを書き連ねていたが、この短編集のなかで気にいっているのは、祖母の死を間近にした私と母と妹の3人を描く表題作の「泳ぐのに、安全も適切でもありません」と没落お嬢様の余生とその周辺にある物品の汚れを感じさせてくれる「サマーブランケット」、ママ友でボーリングに興じるという設定の「うしなう」の三作である。読んでいて気づいたのだが、江國香織は家や店の外のことを「おもて」と呼んでいる。その呼称に染み付いた時代性とともに、上記にあげた三作にはどこか地に足のついた暮らしの匂いがする。洒落た生活や、異国情緒もよいのだが、いまの僕にはそうしたものよりも輪郭のある暮らしが心に残った。

小説を読むのはなんだか久々で、読んでみると面白くまたほかの小説に手をだしている。また、読み終わった新書についても折を見てノート(※物理的な)にでも要点をまとめておこうかな、と考えている。

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