技を学ばず、身体感覚を学ぶ

私の稽古は「変」です。
しかし、それは、常識に比べて。今の常識の学び方がいいと思っている人はそのままでいいでしょう。しかし、人間が本来持っている可能性は皆さんが考えている何倍も凄いものである。それを私は確信しています。

この稽古法を教えてくれたのは、甲野善紀先生です。
まぁ、そこはまた別の機会に書きますが、今日は技と身体感覚について、書いてみたいと思います。
もし、私の稽古に参加する機会があったのなら、ぜひ、この点を狙って参加してみてください。間違いなく、稽古後、自宅に戻って、毎日を過ごすという当たり前の行動の中にもたくさんの気づきを得られるようになります。

大切「だと思っている事」は残る

当たり前すぎる事は残される事もない。
その当時を生きた人たちの中で大切だ、と思うものが残されるものです。

技芸に限らず、医療、宗教、工業、あらゆる分野で「教え」は残されます。
武術でいえば、立ち方、構え方、突き方、体の捌き方など、歴史があればあるほど、「大切」のものは増えていきます。

書道でいえば筆の持ち方、置き方、進ませ方、はね方、一生を通して学べるものには無数の教えがあります。

治療の仕方、商売の仕方、歌い方、絵の描き方、一生の送り方としての処世術だって、先人は後に残る人たちの事を考え、「忘れてはいけない大切な事」を残してくれました。

ただ、まさか、こんなにも日本の生活が変わるとは誰も想像できなかったのではないか、と思います。大切なものは残りましたが、当たり前すぎたものは残されませんでした。

時代は変わり、身体も変わる

技は残りました。教えも残りました。しかし、身体は残らず、変わってしまったのです。

江戸時代は長い、と言われています。まぁ、確かに長いです(笑)。
しかし、それ以上に日本の歴史は長いです。ずっと、同じ民族によってこの国は歩んできました。

ただ、明治維新に太平洋戦争、インターネット革命に、ウイルス騒ぎ。
この近年起こったいくつかの出来事によって、ずっと土台になっていた日本人の身体は変わってしまったのです。

着物は洋服になり、住まいも現代的、何より、電化製品が普及し、労働、生活の形は変わりました。
資本主義、民主主義も広がり、価値観も変わります。
もちろん、以前のままの価値観を大切に生きている人たちもいますが、やはり少数派。流れは、日本という枠を壊し、正解は一つへ、と向かっています。

そして、この流れはもう止まりません。
もう一度鎖国を、と言ってももう、それは無理。この時代の流れの中で生きていく、それが今、私たちに求められている事です。

未知の時代に生きている

技は残った、残された、と言いました。
しかし、その技を大切だ、と感じた「先人の身体」は今の私たちの身体とはまるで違うものだ、と知らなくてはなりません。

生活スタイル、社会情勢、何から何まで違うのです。

大切にされた教えや技は、現代人が想像も出来ないほどのレベルで磨かれた身体感覚があってこそのものだったはず。
技の手順は残っても、それをやりきる身体はなくなってしまったのです。ただ、そうはいっても、技は捨てられません。酷ければ、手順や教え、コツなどが現代流にアレンジをして残されていきます。
いっそのこと、「新しい技」として残せばいいのに、シャイな日本人にはそれが出来ません。

また、当時の人たちの寿命も問題です。当時、60歳は「老人」だったはず。しかし、今は違います。もっともっと、長くなりました。
技を残す、と決めた時、その技を学び、使う人も60歳程度までの身体を想定していたはず。

しかし、現代は60歳は当たり前、70、80、90と長寿の人たちにあふれる時代になりました。
当時では考えられなかった年齢の人たちが今、たくさんいるのです。その年齢の人が、大切だと残された技や教えを使う事は出来るだろうか、ちょっと考えてみたらわかるはずです。寝たきりになって役に立つ技はなかなか残されません。

昔にだって百歳に近い人もいたはず。そう思う人もいるかもしれません。
しかし、その人たちは、飯も満足に食えない中で、不便な時代を生き抜いた人たちです。内臓レベルで省エネで活動が出来た人たちだと考えます。
今の高齢者はよく食べる人が多いそう。食べる気力もなければ生きていくのも難しいのかもしれません。
良く食えば、当然、身体は育ちます。色々なものが身体にたまっているはず。体の中にためながら歳を重ねなくてはいけない、それが現代人です。

いつのまにか現代はインターネットの世界が広がり、肉体的世界よりも、心的世界が広い時代になりました。こんな世界と時代の生き方を昔の人が知っていたとは思えません。
経験したことがない人たちが残した教えに頼るよりも、自分の生き方は自分で探るしかない時代になっているのです。それが私が一人稽古を勧める大きな理由です。

現代は技ばかりを学ばせる

「身体感覚」を大切だ、という教えは広がっていません。
つい何十年前までは当たり前に磨いていたもの。誰もが、身体の働きを引き出し生きていたはずです。当然、それを「大切」だとは思われず、残っていません。

対して技芸、芸術などの歴史は積み重なり続けています。歴史を持つものには魅力があります。
先人から伝えられている技を学ぼうとやる気も出るでしょう。
ただ、時間は有限なんです。技を学ぶか、身体を探るか。これを同時に学ぶのは難しいのかもしれません。

ちょっと考えてみてください。
野球をやりたい子どもがいるとします。野球クラブはどこにでもあります。選ぶ事ができます。
その時、まずは身体感覚を、と10年、20年、ただ立つだけを学ばせる野球教室をどう思いますか?
いうまでもなく、そんな野球教室ではまず、成り立ちません。金をもらって野球をやらせない、下手したら裁判沙汰です(笑)。

野球なら高校野球、大学野球、プロ野球と年齢の制限が強いところ。大切な10年をボールもバットも持たずになんてあり得ない、私もそう思います。

しかし、書道や絵画、音楽など、一生をかけて技を磨けるものならどうでしょう。筆を持つまで、紙を前にして座る前に10年、20年を費やす書道教室はどうでしょう。

これもまた、成り立たないはずです。そこに価値観を求められていないからです。しかし、長い目、それこそ、一生という流れを見た時には間違いなく身体感覚が大切になります。
とはいえ、「やりたい事」を求めてその道に入ったのなら、「具体的な技」を学びたいのは当然です。技を我慢するよりは、まず求め続ける、その上で壁に出会った時、身体感覚の稽古の助けを借りたらいいんじゃないか、と思います。

身体感覚は壁を超えるためのもの

身体感覚を探る事で、それまでの自分の限界を超える事が出来ます。
どんな技術も長くそれを使っていれば「頭打ち」になります。その頭打ちの状態を何とかしたい、そう思って練習を重ねる人は多いです。
しかし、それはもう、技でどうにかなるものではありません。

身体感覚のレベルで何かが変わる。
その経験をぜひしてもらいたいのです。
それまで困っていた事がウソのように解決してしまう。そんな経験ができるのです。

先に10年、20年、技を学ばず身体を探れるか、と書きました。
実は私はそれをやっています。
甲野先生に出会い、それまで持っていた技はすべて捨てました。ひたすらどう立つか、どう手を動かすか、日常生活の中で使われる身体を探ってきました。

そしてそれは解剖学的に正しい使い方をする、という問題でもありません。どんな気持ちになって、何を考えてこの身体を扱うか、それをずっと探っています。

技は求めなかったので、相変わらず何もできません。
ただ、立つ事、歩く事、手を上げる事、土台となる身体の使い方のレベルは上がったようです。
技や知識はなくても、ストレスに対して「何とかなる」、と楽観的になりました。その結果、たまたま持っていた武道の技も動きは良くなりましたが、それは技の練習の結果ではなく、身体そのものに自信を持てたからにほかありません。

もし、あなたがすでに持っている技術、知識があるなら、それを底上げさせてくれるもの、それが身体感覚です。
身体感覚の稽古は技の稽古とはまるで違うもの。頑張って、努力して、身に着けるものではありません。むしろ、ただ過ごす中で少しでも身体の事を考える事の方が大切です。

日常生活の中をとにかく稽古に変える。
私が伝えたいのはそんな方法、生き方です。
ややこしく書きましたが、やる事は簡単です。ただ手を上げ下げ、振ってみるだけだったりします。まずは一度、お試しを。

【稽古予定】参加受付中
【不定期稽古】
5/29 つくば稽古
6/4 甲野善紀先生 浜松稽古

【定期稽古】
5/22 名古屋
5/23 浜松ヒーリング
5/25 名古屋
5/28 浜松

詳しくはウェブサイトでご確認ください。
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