身体感覚とは何か

◆身体感覚とは何か


突然に思われるかもしれませんが、「身体感覚」について書いてみたいと思います。
今さら!という気もしないではないのですが、そもそも、ここを自覚していないと、一人稽古は出来ません。
なぜかと言えば、一人稽古はひたすら、自分に向き合い、今、何を感じ、何を思い、何を考えているかを追求するものだからです。
一人稽古の全てが身体感覚を探る事、そう言ってもいいかもしれません。

身体という言葉も、感覚という言葉も、頻繁に使う言葉ではありませんが、一応、一般的な言葉です。
何となく、わかってしまうからこそ、なんとなくでしか力を発揮していない可能性があります。
これは本当にもったいない事、身体感覚を探り活かす事を生きる事に取り入れたならどれだけ幸せになってしまうか、それを伝えるために、今回noteに取り組みました。

今、ここでまず、身体感覚とは何か、という事について、結論を書いておこうと思います。

「身体感覚は小さな行動である。」

ふと、ひらめいたのがこの言葉でした。
身体感覚に従い生きる、というのは私の中では当たり前になっています。
当たり前すぎるのと、身体感覚という言葉が便利すぎ、ついそこを説明する事なく来てしまいました。

身体感覚とは何か、そこをまず再定義する事で一人稽古がしやすくなればいいなぁ、と思っています。
今回はテーマが大きいです。長くなるかもしれません。よろしくお付き合いください。


◆身体感覚とは小さな行動である


身体感覚とは小さな行動。
これを言葉にしたいと思います。
身体感覚という言葉は私のツイートやノートにもよく出てきます。誰が作った言葉なのか、一般的な言葉なのか、それはよくわかりません。
これだけボディーワークが盛んな時代です。それぞれの組織、流派の間で定義をされているかと思います。
今回、私は「身体感覚とは小さな行動」と定義をしました。
私がこれまで言っていた事が一言に表されたような気がします。そして、なぜ理解をされなかったのかも(笑)。

手を上げる時に身体感覚を意識する。
こんな言葉を使いますが、身体感覚って何ですか?とはあまり聞かれません。
きっと、丁寧にやる、身体の声を聴く、というような認識なんでしょう。出来るか出来ないかは別にして、その考え方自体は普通であり、疑問にならないのだと思います。ちゃんと受け取ってくださいます。

この手を上げる時、肘だけに頼ってあげるのではなく、腕の骨が回って、腕がらせんを描いていくように上げてください、と言われたなら、動きは変わります。
肘に頼ると、多くの場合、曲げ伸ばしの動きが主役になりがちです。そして、それは太い二の腕を働かせ、力こぶを利かしてしまいます。そして現れるのは力づくの動きです。
対して、らせんをイメージして上げていくと、体幹と腕、骨と骨の動きのタイミングが揃っていき、手先、指先に力が流れ始めます。結果的に、想像していた以上に力が集まっていきます。

このように、動きを伴うものであれば実験は簡単です。
自分にはこんな力があったのか、と驚いてもらえるのですが、あまりにも簡単すぎ、ありがたみがついてこないので、ついつい、忘れがちになったりするデメリットもあります(笑)。

身体感覚とは小さな行動と定義しました。
このらせんに手を上げている時には、前腕骨がねじれて動きを作り、上腕とのつながりを作り、肩甲骨を滑らせ、体幹を土台として、そこから力を引き出しています。
見かけ上はただ手が上に上がっただけですが、内部では小さな動きがいくつも重なり、手を上げる、という結果を作り出しているのです。
しかし、これを「行動」とは自覚していないのです。
「動き」とは思っていても、行動を変えた、とは考えにくいのだと思います。
しかし、これは行動を変えたのです。行動を変えたから、現実が変わったのです。

ここで小さな行動に対して大きな行動を考えてみたいと思います。
何かを「願う」と考えてみてください。
そして、それは漠然としたものではなく、いついつまでに、どれだけの成果を求めてるのか、具体的な望みを考えてみてください。
これは夢を叶える方法として良く知られているコツです。
夢のままでは漠然としていますが、それを手に入れる日付を決め、求める成果もちゃんと決める。夢から予定にする事で、無意識に計画が立てられ、結果的に夢を手に入れやすくなる、というものです。

幸せになりたい、という漠然なものでは無意識は困ります。何をすればいいのか、わからなくなるからです。わからなくなれば、気持ちはおとなしくなりがち、結果的に行動力はなくなり、じっとする。それでは世界は変わりません。

これが何月何日までに、何百万円の売り上げを上げる。そんな願いを持つとします。
こう決めてしまえば、頭の中に何をすればいいのか浮かんでくるはずです。
取引先があれば営業をかければいいし、売れる商品を作る事を考えてもいい。売り上げを上げる事が得意な人に頼るという方法もあるはず。色々と「具体的な方法」が思い浮かぶはず。
そして、一つずつ行っていけば、そこに成功と失敗が出てきます。
失敗にくよくよせず、次々にやれる事をやっていけば結果的に夢はかなっていくものです。

絶望して何もやる気が起きない。
こんな時にも偶然や幸運ってあります。何もしていなくても手に入る事はあるかもしれません。世の中は不思議ですから。
でも、腹が減ったら、あちこちに山ほどあるコンビニに入り、おにぎりとお茶を買い、レジで会計をしたらいいんです。
この時必要なのは食い物をただ願うのではなく、腹が減っているからご飯が食べたい、という願いを自覚し、その場から立ち上がり、歩きだして、コンビニを探し、入店し、おにぎりを手に取り、レジで会計を済ます。この「行動」が必要です。

わかりにくい喩えだったと思いますが、願いだけして行動しないのは良くない、それを伝えています(笑)。大切なのは「行動する事」なのです。

腹が減った、飯が食いたい、それを願って、人目のつかないところでじっとしていれば、きっと餓死です。もちろん、誰かが見つけ、助けてくれる確率はゼロではありません。飛行機だって飛んでいる時代、上から食い物が落ちてくることもあるかもしれません。
しかし、そんな天文学的確率を待つよりは、歩きだし、コンビニを探し、買う。これならほぼ、百パーセントで願いが叶います。
行動がどれだけ大事かがわかりますよね。これが「大きな行動」です。

いまさら行動の大切さなんて言われなくてもわかっている、そんな声が聞こえてきそうです。でも、もうちょっと聞いてください。行動の大切さを知っていても、それは「外の世界」に働きかけるものばかり。「内なる世界」に働かせるもの、それが小さな行動です。

大きな行動はわかるんです。大きいですから。
しかし、「小さな行動」はほとんど世界を変えません。しかし、確実に自分は変わっているのです。
人は心身一如の働きを持ちます。
今はちょっと心が主役になりすぎ。しかし、本来は対等。心を変えるだけではなく、身体を動かす事でも心は変わるんだ、と気づいてください。

元気がない人がいるとします。
やる気がなく、新しい行動を起こそうとも思えない。
夢を叶えるためには行動が必要。これも法則です。にもかかわらず、行動が起こせない。動けなければ待つしかなく、それは天文学的な確率に身をゆだねる事に。ちょっとそれではまずいです。
この時、小さな行動ならどうでしょう。大きな行動がとれなければ小さな行動から始めたらいい。

実は案外、これも教えとして残されています。
部屋を掃除しろ。これはきっと、小さな行動の部類です。
他者との関係の中での行動は相手の都合だってあります。衝突もしてしまうかもしれません。
しかし、掃除なら自分だけの問題。掃除が大変なら顔を洗う、というのや歯を磨く、それだっていい。鏡を見て、お前はやれる!やれる奴!と自己暗示をするのだっていいでしょう。
しかし、これすら、難しい時ってあるんです。

ならばもっともっと、小さな行動を探せばいい。それが身体感覚を探る稽古でした。
肩は回るものです。誰が何といおうと回るもの。これは「仕組み」の問題です。
また、肘は曲げ伸ばしが得意、肩にはそれが出来ません。構造が違うからです。
肩はグルグルと回ります。
グルグルと回してみればどうなるか、気分が上がるんです。動けば元気になる、それが人間です。
もしかしたらこれも、グルグルと回した事で、血の巡りが良くなり、脳や指先に血が行き渡る事から生まれる「仕組み」かもしれません。
細かい事はいいんです。肩をグルグルと回せば気持ちが変わる。それがわかれば大きな行動を起こす前に、小さな行動で、身体に元気を与えればいい、それがわかります。

そして、肩すら回したくない時もあります(笑)。
わかります。もしかしたら長年の肩こり、四十肩、五十肩、肩の事を考えただけで憂鬱になる事だってあるでしょう。
そんな時は「他の部位」に任せればいいんです。
身体はたくさんの種類の違う部位で出来ています。苦手なところを我慢して使うならば、得意を探して、そこを動かして気分を上げたらいいんです。

これが「行動」です。運動ではなく、行動。立派な行動なんです。
行動した、とわかると心が変わるのかもしれません。行動をしたけど何の変化がない。世の中はそうは出来ていません。
何かをすれば、何かが変わる。常にバランスをとって変化をしている。それが世の中です。
しかし、私もこれまで、この身体を動かす事を「運動」と捉えていました。
運動と捉えてしまうと、それは自己完結しがちです。そうでなく、行動。行動ならば、外へと影響は広がり、気持ちが変わります。

いつの間にか私は身体感覚を探る事でそれを手掛かりに人生を生きる事をしていました。
身体感覚とは行動だ!
そんな自覚はありませんでしたが、自然とそれをやっていました。
そしてだからでしょう、いつの間にか、世の中に起こる色々な騒ぎがあっても、それに振り回されず、淡々と毎日を楽しく、それもとっても楽しく過ごす事が出来るようになっていました。

私はたまたま、長く稽古を続けてこれました。
しかし、仲間の多くはそうではありません。稽古は楽しくても、仕事や家庭、生活が忙しくなり、稽古から離れてしまう人も多いです。
それはきっと、身体感覚の稽古が夢を叶えていくための行動になっている、と思えなかったからかもしれません。
稽古を運動と捉えれば、それは余暇になります。また、具合の悪いところを改善するリハビリになります。
違うのです。身体感覚は小さな行動。意識しただけでもう、行動が始まり、終わっている。そういうものなのです。
より良い動きを求めて、身体感覚を探る。それを続けているのは、夢に向かって今やれる事を淡々と行動し続けている、それと同じ事でした、それをお伝えしておきたいと思います。


◆身体感覚を知る前、知った後


身体感覚とは何か、について私なりの定義をお伝えしました。
ここからは私がそれに出会い、それに導かれてどう過ごしてきたのかをお伝えします。
身体感覚とは何か、というだけではなく、身体感覚を手掛かりにしてどう変わってきたのか、とお伝えする事で、その世界を感じたい!と、興味を持ってくれる人が一人でも増えてくれたら嬉しいです。

身体感覚の世界を知ったのはもちろん、甲野善紀先生から。
先生に出会ったのが22歳の頃。今から30年近く前です。
父親の影響もあり、物心つく前から道場にて過ごし、一応、武道をずっと練習してきました。
先生に出会った頃は確か、四段だったかと思います。大学時代もその武道に打ち込み、技の習得、乱捕りに基礎体力作り、才能があったわけではありませんが、自分なりに一生懸命に打ち込みました。
ただ、その練習は「常識的」なもの。特別な才能があったわけではないので、どうしても努力の量で色々と決まる、そんな思いを持ってしまいました。

そんな中、甲野先生の本を読み、それまで聞いた事のない技の解説に興奮しました。先生が書かれている言葉がどうにも理解が出来ないのです(笑)。
理解どころか、その入り口にも立てていない、そんな感じです。
それまでは足は肩幅、腰は落として、しっかりと足親指に力を入れ、下半身の力をねじりによってしっかりと手に伝え、撃つ、そんな練習でした。
しかし、甲野先生の解説はまるで違いました。そこにあったのは先生の感覚、実感ばかり。
いつしか、本だけでは満足できず、会ってそれを試したい、そう思うようになったのです。

そしてその願いは叶い、手を合わせる機会を得る事が出来たのです。
数人の仲間で先生を迎え、囲み、いくつもの技を体験し、解説もしていただきました。
この体験が私の人生を変えたのです。
それまで考えもしなかった崩れ方、やられ方を自分がしていくのです。自分がどう倒され、投げられているのかがまず、わからない(笑)。
そして、気がつけば先生の拳や手が目の前に。気配がない、という言葉は知っていましたが、気配がない、という動きを経験するのは初めてでした。想像もしない動き、世界にもう、私の頭の中は真っ白になったのです。

この時、知識も情報なく、頭の回転も鈍い私は先生が何を言っているのか、伝えようとしているのかはわかりませんでした。
しかし、大切な事をもらっていたのです。
それは「経験」。自分がどう倒され、投げられているのか「わからない」。
この「わからない」というのが身体感覚レベルの動きだったのでしょう。
私の頭はそれを認識できず、わからないけれども、身体はそれを感じ取り、ちゃんと崩れてくれていたのです。

その時の体験を手掛かりに、それまでの練習方法をする気は全くなくなり、新たに工夫をし始めました。
甲野先生はご自身の稽古法を「松聲館スタイル」と呼んだりしていますが、それには具体的な方法がありません。「稽古法自体をそれぞれが探る」、それが「松聲館スタイル」です。
崩された経験、気配なく撃たれた経験をもとに、それをどうすれば再現できるかを探る事になったのです。

そして、その思いのまま、気がつけば、長い年月が(笑)。
この間、ずっと、その最初に思った事が変わりません。あの不思議な経験を追い求めてずっと楽しく探索を続けています。
そして、それが出来たのはなんといっても、手がかりが「身体感覚」という形のないものだったから。
もし、手がかりに形があればきっと、どこかで挫折をしていたはず。
身体感覚が小さな行動という形がないものだったからこそ、頭で考えすぎる事もなく、子供のように無邪気に楽しさだけに満たされ過ごす事が出来ています。

◆対極はマニュアル


身体感覚は小さな行動、この言葉を気に入ってしまったので、何度もお伝えしていきます(笑)。
身体感覚の対極にあるもの、それはきっと、「マニュアル」です。
手順として残されたもの。それに従うと、自分の意志で生まれる行動はぐっと少なくなります。
良くできたマニュアルなら、大きな成果を与えてくれるでしょう。その成果は魅力的です。
また、マニュアルを作れば、指導も簡単。教える側も楽なるし、受け取る側も楽です。お互いが楽なら、ウインウイン。それがうまく行きだせば組織は拡大し、いいこと尽くし、そう思うかもしれません。

まぁ、仕事ならいいんです。会社として目標、目的を持ち、それに向かう時に社員がマニュアルを持っていれば、方向性を失う事なく、成果を得ていけます。
会社の喜びは私の喜び。そんな感覚があれば、組織の中で楽しく過ごせます。
ただ、生活の全てが会社、組織、というのはあり得ません。どうしたってプライベート、日常生活はなくなりません。
また、いつまでも会社や組織にいられるわけでもありません。定年や病気、怪我、色々な理由で組織を離れる事が出てきます。

結局、いつかは日常生活だらけになる。それが人間の宿命です。
まぁ、今の時代、どんな場面にもマニュアルがあります(笑)。
病気になれば生活の仕方を指導されます。食事に運動、薬を飲み、行動を制限していきます。これは立派なマニュアルです。
また、便利な機械に囲まれて暮らせば、その機械を扱っていく中でその機械のマニュアルに従わなくてはなりません。結果的に、自分の行動は機械に縛られる事になります。

それらのマニュアルに従う事で便利になり、寿命も長くなり、求めていた結果を得られるかもしれません。しかし、それはそのマニュアルが目的にした一つの成果しか満たしません。
本当に、今、私は幸せなのか、ふとそんなことを思いついてしまうのも人間です。いや、そんな事は思わない。長生きできれば幸せだ、と思うのは自由ですが、ひらめきという偶然が世の中にあり、幸せかどうかに疑問を持ってしまう不自由が人間にはあるのです。

大勢を導くならマニュアルは便利です。
一億人をマニュアルで導き、8000万人が幸せになる。これを良しとしているのが国の政策。確率的には優秀なのかもしれません。
しかし、取り残された2000万人はどうするの?それが不思議でならないし、これではダメだ、と思います。
マニュアルに従えない時もある。それを考え生きていく時、身体感覚に従い生きる、という道を持っていればこんな安心な事はありません。常に、その時の自分に一番いい行動をとれるようになってしまう。それが身体感覚に従う生き方です。


◆要らないものかも・・・


今、こうしてたくさんの言葉を使って身体感覚とは何か、とお伝えしています。
しかし、実はこの言葉、要らないかもしれません。
言葉として聞き、それを頼りにしてしまうと、それはほぼ、マニュアルと同じになってしまう危険があります。

肩は回るもの、肩を回せば元気が出る。
これは身体感覚でもありますが、これを何十人かにただ伝えれば、受け取る側はマニュアルになります。
元気になりたいなぁ、という願い。そして、そのための方法として肩をまわすという教え。これ立派なマニュアルです(笑)。

大切なのは経験。
私が甲野先生に投げられ、倒され、経験を得る事ができました。そして、その投げられ、倒された時に「わからない」というエッセンスがあったからこそ、興味を持ち、探る事が出来たのです。頭ではわからない、とわかるからこそ、身体がそれを探り始めました。

長く稽古をしているとたくさんの術理が生まれます。
その全ては身体感覚をベースにしています。
私はたまたまこの30年近く、有名にもならず、忙しくもならず、注目もされませんでした。
しかし、もし、あなたの考え方は凄い!そしてその技を我々にもぜひ!と人気者になってしまえば、全国各地に引っ張りだこになるでしょう。
そして、マスコミの影響力によって、そこには私から聞きたい事がもうすでにあり、期待をされます。期待されたら応えたくなる、それも人です。喜んでもらいたい、と思うからこそ、集まった人たちが聞きたい事を伝えてしまいます。

そして出来上がっていくのがマニュアルです(笑)。
同じ技を伝えていく中で、いつの間にか説明が上手になり、パターンが出来上がっていきます。
ただ、そのマニュアルも参加者と共に徐々に改良され、使い勝手も良くなっていくはず。そして、またさらに、マニュアルを求める人が増えていきます。
組織を作るならこれでいいんです。いや、これがいいんだと思います。
出来上がったマニュアルを手掛かりに弟子やインストラクターを育てれば、喜んでくれる人もネズミ算式に増えていきます。一人の力では届かないところにも力が届きます。
でも、それなら、普通でいいんです。

私が人生を楽しむ事が出来るようになったのは、身体感覚という、自らの中に出てくる欲求に応えられるようになったからです。
マニュアルは外にあるもの。外だけではなく、内にも問題は生まれます。自分にしかわからない、そんな問題を抱えた時にそれを解決してくれるマニュアルはきっとありません。そんな状況になるかもしれないのが人間です。
マニュアル化しないように気を付ける。身体感覚を手掛かりに稽古をするならぜひ、覚えておいて欲しい言葉です。


◆身体感覚はとっても大きな行動である


身体感覚とは小さな行動である、それを定義しました。
今、「小さな」という言葉をつけていますが、実は、小さいどころか、全てを決めるとっても「大きな」行動とも言えるかもしれません。

動き自体は肉体に閉じ込められています。観察をしようとしても、ほぼ見えません。
動き的には「小さい」です。ただ、それが始まり、土台になって現実が変わる、と考えると影響力としては「とっても大きい」ものと言えます。

今、読んでくれている方がまだこのnoteしか見ていなければ、いったい、何を言っているのだ?と思う事でしょう。それが普通です。
むしろ、このnoteで、なるほど、理解した!と言われる方が怖いです(笑)。

現代は身体感覚を必要としない時代です。
身体はヒューマンエラーを引き起こす要因になるものです。AI技術まで開発され、徹底的に排除されているように思えてきます。
先に挙げた「マニュアル」もそう。誰もが同じように仕事をしてくれるようにマニュアルは作られます。突出した何かは期待されません。

ただ、一昔前は違ったはずです。
生きていくには、それぞれの感性、身体感覚がなくてはダメだったはず。
命の危機を感じる危険なもの、危険な状況もいっぱい、ボタンを押すだけで働いてくれる便利な道具はありません。
毎日を生きていくためには身体を上手に、最大限に働かせなくては「いけなかった」のです。
その時代に暮らした人たちは自然に、いつの間にか、身体をうまく使うコツを学んでいたはずです。うまく仕事をしていくにはコツが必要。コツを渡す師がいて、コツを受け取る弟子がいたと思うのです。
しかし現代はコツは機械が吸収してしまいました。コツが必要な機械は普及しません。
一昔前は、コツがあるんだ、という当たり前の言葉で、意識する事なく、身体をうまく使っていた。そんな気がします。

今、現代ではそんな昔のような生活を行うのは無理です。
自分の周りだけなら電気を止め、機械を手放し、自給自足も可能です。
しかし、人はつながってしまいました。自分だけが昔に戻っても、まわりには便利が広がります。

もう、無自覚に過ごせば、身体は働かないのかもしれません。
だからこそ、昔のままではダメなのです。
人類の生活はこの数十年で一気に変わりました。こんな生活は人類史上初(笑)。誰も、予想しなかった生活が今、あります。
残されてきた知識は大切ですが、それは何百年も変わらなかった生活をしていた人たちには有効な教え。今はちょっとずれてきています。

身体感覚を探り、身体が喜ぶ動きを探す。これが必要になっているはずです。
心を喜ばせるサービスや仕組みは増えてきました。
身体が健康なうち、つまり、病気や怪我が出ていない時なら心は全開でこの世を楽しめるでしょう。
しかし、人は必ず、老いていきます。見かけはさまざまな施術、薬で整える事も出来るようになりました。インターネット空間なら年齢は関係ないように思うかもしれません。
しかし、それも時間の問題、ちょっとずつ、肉体からの影響は大きくなります。老いから逃げる事は出来ません。

老いてしまえば、昔の人たちと同じ。そうとも考えられないでしょうか。
便利な機械や楽しいサービスがあっても、それを楽しむだけの心の余裕がなくなっていく。身体が重く、痛いからです。これは昔の人もちゃんと持っていた力です。
これまで便利で楽しかった分、ギャップに苦しむかもしれません。しかし、もう元には戻れません。

だからこそ、チャンスです。
昔の人が生かしたであろう、身体の働き。
身体の中に人生を変えるほどの大きな動きが隠されている、とわかればきっと、それまでとは違った元気が溢れ出てくるはずです。

とは言え、死なないわけではありません。絶対にいつか、死はやってきます。
しかし、新たに見つけた身体の中にある小さく見えるけれども、大きな行動から生まれてくるワクワクはきっと、死に対しても新しい見方を与えてくれるはずです。

こんな話はとてもおかしなものに聞こえるでしょう。
非常識なのはわかっています。私も歳をとったとはいえ、まだまだ死が目の前にあるとは思えません。ただ、いつかやってくるだろう死に対して、ネガティブなものだけではなく、その瞬間、これまで見た事のない世界を見る事が出来るのだ、というポジティブなものも生まれています。
皆が怖れるのが死です。それに対して常識的な対応だけではちょっと足りません。
自分の中にちゃんと世界、人生を変える力が備わっている、それを身体感覚は教えて続けてくれています。



◆感情と身体感覚


身体感覚は身体の中にあり、見えないけれども大きな行動なのだ、と少し定義が複雑になりました(笑)。
その理由を少し、書いておきます。
この章のテーマは「感情」です。

人間は感情の動物。これはよく言われる事です。
しかし、社会は段々と、それを忘れるというか、認めたくないようになっている気がします。
ちょっと前、ハリウッドスターが表舞台で暴力を行い非難されました。すでに、あるレベル以上の舞台ではアンガーマネジメントは必須と言われてもいます。
感情ぐらいコントロールしろよ、と世の中は言っているようです。

また、仕事の仕組みも変わってきて、派遣、短期契約という働き方が増えました。そして、仕事も個性を必要とする内容から、機械を使うようになり、マニュアル的に変わりました。機械を使うのですから、どんな人でも良くなっています。
そうなると、一度の感情の爆発で、もう来なくていいよ、と言われてしまう事だってあるかもしれません。

人間は感情の動物、と知っているだけではダメなのに、どうしていいのか答えを探す気力もなさそうです。
実は身体感覚は感情との相性がいいもの。それをお伝えしておきたいと思います。
感情のコントロール、という面もあるにはあるんですが、コントロールを上手にしよう!と思って探るだけではもったいないぐらいの効用があるんです。

私は武術を通して身体を手掛かりに、人間とは何か、この世界は何だろう、と探っています。身体を手掛かりにしていて徐々に得てきたのが身体感覚です。
最初は自分の身体に力が入っているのかどうかもわからないレベルでした。我慢しすぎて、カチカチに固めて感覚がマヒしていたように思います。
ただ、それでも、時間をかけて観察すれば、力が抜け、入る。そして、肩と手の間で力の流れが見えてきたりします。
身体に動きが見えてくればそれをまた変える事が出来ます。身体が動けば、気持ちも変わる。それを何度も経験し、自然と身体と感情との繋がりが見えてきました。

感情のコントロールの話に戻りますが、武術は「常に」感情のコントロールが出来ない場面で活かされるものです。
感情を落ち着かせていられるなら、持っている技も発揮して「実力」を見せる事も出来るでしょうが、その実力が発揮できない場面こそ、武術を通して自分を探る稽古になるのです。
困ったなぁ、という時には感情は揺れ、身体は緊張が強くなったり、力が入らなくなったりします。
この「緊急事態」を先に観察をするのが稽古だと私は考えています。自分の技が通用しない、そんな場面をいつも、求めて稽古をしているつもりです。

感情がコントロールできない事もある。それを認めるのが大切です。
感情がコントロールできない、と認めた瞬間、意識を身体感覚に集中させ、観察をするのです。感情に振り回され、その勢いで行動を起こしてしまうと、後で後悔がやってくることもあります。うまくいっても、いかなくても、勢いだけではこの先に不安が出ます。
身体感覚の世界は内側の世界です。そこで処理をしている間は外への影響は少なくて済みます。
落ち着こう、と気持ちに働きかけるのではなく、身体感覚を探れば、自然とそうなってしまいます。

身体を探り、どこか動かせるところがないか?と探れば、案外と見つかってしまうのが身体です。
気持ちの面では「もうだめだ!」と言いたいのはわかりますが、これまで稽古を続けてきて思うのは、そんな場面はやってこない、という事です(笑)。

身体感覚を通して、身体の内部に「行動」を起こす。
すると、それまで揺れ動いていた感情が変わっていく。コントロールを外れた感情を見てしまった時、人はまた暴走したら、と不安を持ちます。
しかし、その経験によって新しい身体感覚が見つかり、その揺れた感情に負けない気持ちが出てきます。

身体の中の目に見えない小さな行動が、この先に続くであろう長い人生を変えていくのです。
なぜ、皆は人生に対して武器を持たず、ノーガードで過ごしていけるのか、不思議でなりません。私は臆病でしたから、何とか生き抜ける何かを、と探し運良くそれを見つけ、手に入れる事が出来ました。
今、身体感覚を探る、という生き方をしていますが、やっとこれで何とか、未知なる未来を歩いて行ける、そんな程度の気持ちになれています。

自信があるうち、不安がないなら、今のままでいいんです。
ただ、改めて言いますが、人は老います。そして、その老いからくる心と身体への影響は突然やってきます。
もし、あれ?と違和感を少しでも感じたなら、身体感覚を探るという生き方もあったな、と思い出してくれたらうれしいです。

◆名づけと再定義


身体感覚は形がなく、見えないものです。
動きはあっても、小さく、他者と共有するのも難しいものです。

マニュアルの話をしましたが、最初のうちは言葉を先に学び、身体を探る事になるかと思います。
肩であれば回り、肘であれば揺れ、手首であれば固める。
お腹は伸ばしたり、頭はまっすぐ。
言葉を手掛かりに肉体をちょっとだけ丁寧に動かして、観察をしていくと、そこに確かな動きを見つける事が出来るはずです。

私は子供の頃から自信の持てない人間でした。
自分が見つけた感覚も、これが私のオリジナル!とはなかなか言えず、まぁ、こういうのもありますよねーとぼかして伝えていました。
しかし、それが本当に良くなかったなぁ、と今は反省をしています。

身体感覚はオリジナルなのです。
それは私のオリジナル、というのではなく、自分の中に感じた動きはそれぞれのオリジナル、という事です。

身体感覚は小さな行動である。
今回伝えたいのはこれですから、何度でも繰り返します(笑)。
行動ですから、そこに動きが見えてきます。
その動きは形のないもの。それぞれが自分でその動きを大切にしたらいい、そう思います。
何かを大切にする時、重要なのは「名前」をつける事です。
自分の中に見つけた身体感覚に名前を付ける、それをしてみてはどうでしょうか。

ただ、そう言っている私自身が「名付け」が苦手です(笑)。
ずっと、自信なく過ごしてきましたから、見つけた身体感覚も、骨や筋肉、部位の名前、そのままを使い伝えていました。
ただ、それでは肩の働き、肘の働き、手首の働きはそれ、と伝えられる側の思考を制限してしまいます。
同じ肩であっても、私の肩と皆さんの肩は微妙に違うはずです。その個性の部分も取り入れたなら、身体感覚の行動はさらに小さく、微細になり、見えなくなっていくはずです。よりレベルの高いものになっていきます。

そして、もう一つ大きな働きがあります。
身体感覚を探れるようになると、それまで持っていた知識がより活かされるようになります。
手を丸くとか、五指を張って、腰を下ろして、と昔の人は言葉を残してくれています。
しかし、手とは何か、五指とは何か、腰とは何?とそこはあまり考えません。昔の人が感じていた手や脚、腹や腰、背中は身体を使わなくなった現代人とは絶対に違うのです。

知っている全ての言葉を再定義する。私はそんなつもりで過ごしています。
これまでいくつも、そうだったかぁ!という経験をしてきました。
足りない頭でも現代を生きるだけで勝手にどんどんと情報が入ってきます。
江戸時代に生きていた人が一生に得る情報量は現代人の数日分、とも聞きます。本当に現代はとんでもない時代なのです。
だからこそ、現代を生き抜く武器が必要になる。それが身体感覚です。


◆オリジナルを生み出す力


便利な世の中になり、他者に任せ生きていくのが簡単になりました。
自分で工夫するよりも、それを得意な誰かに頼んだ方が大きな成果を得る事が出来ます。
これは一見すれば、正しい事のように見えるかもしれません。
まぁ、結果を最重要視すればそうでしょう。ただ、「自分を生きる」という点からすれば、失敗を重ねていけないわけですから、自分という理解が進まないという見方も出来るかもしれません。

自分がこの世に生を受けてきた理由は何だろう。
そんな問いがいつか生まれてくるかもしれません。
なるほど、これをするために自分は生まれてきたのか、そんな経験が生きている間に出来たなら、どれだけ幸せな事かと思います。まぁ、これはそれぞれ、個人で違うかもしれません。

私には「オリジナル」という点にコンプレックスがあります。
子供の頃から、創作が苦手。図工や工作、音楽や作文。自分の気持ちを形にするのが苦手です。
何を作り、書いたとしても、それは何かの真似のように思えてしまうのです。
もちろん、学ぶとは真似る事、それもわかっています。自覚をして真似て、その上で自分のしたい事をしていく。それが出来ればいいんですが、「自分の気持ち」がどうにもわからず、苦労をしました。
そして、それは未だに、続いています。何が好きで、嫌いなのか、自分の気持ちはわかりません。

ただ、身体を感じる術は得てきました。
身体感覚を探り、身体の細かい動きがわかるようになってきました。
すると、自分の心の好き嫌いはわかりませんが、何かと向き合った時に、身体がどう動くのかが分かるようになります。
何かに影響を受け、「行動している」のが分かります。

身体感覚は小さな行動。それを自覚して、動きを見つけ、名前を付けた時、それは誰にも理解されないだろう、オリジナルなものになるわけです。
ただ、理解されない、という点が強くなれば仕事にもならないかもしれません(笑)。
しかし、それでも、その経験が自分にもオリジナルなものを生み出せる、という自信へと変わっていきます。

目の前にある大切なもの、大切な人。
失礼のないように、作法は用意をされているでしょう。仕事のようなものなら、マナーに沿って社会の常識に合わせていった方がいいかもしれません。社会はオリジナルだけではなく、効率も求めますから。
ただ、本当に固有に大切にしたいものや人に出会った時、その時、その場所、その人にしか言えない向き合い方が出来たらどれだけ幸せになれるか、と私はそれを求めてしまいます。

甲野先生に出会った当初、こんな思いはありませんでした。
ただ、長く続けていた武道の中で出てきた不満、それを解決するヒントをくれるのではないか、と甲野先生に興味を持ちました。
甲野先生人生の師になってください!そんな思いはなかったのです(笑)。
しかし、先生に見せてもらった身体感覚を探るという世界に入った事で、自然と、身体を通して、自分自身を見直し、再定義をして、その新しい身体で生きていく時間を増やしてきました。
気がつけば、この世とは何か、と問うようになり、自然と宇宙や魂までも、稽古を通して見つかってくるはず、と確信をするようになりました。

ずっと自分は凡人なのだ、と過ごしてきましたが、気がつけば皆から「わからない」と言われるようになり、もしかしたら変人になったのか?と思うようになりました(笑)。
昔の自分であれば、周りから浮いてしまう存在になる事に怖れ、行動を変え、ひっそりとまた目立たないようにしたはずです。
しかし、歳を重ねて、むしろ、もっと「変」を楽しんでみた方がいいんじゃないか、と思うようになりました。

どこかで組織の話をしましたが、組織は大勢を集め、そこから確率の力で出来る人を生み出し、世の中に貢献をしていくスタイルをとります。
100万人を集めたなら1万人ぐらいは救われてしまうかもしれません。しかし、残りの99万人は組織を維持するための養分となってしまう。そんな仕組みがどうしてもあります。

もしかしたら、この世に生まれて、何万人と出会うのではなく出会うべくして出会う限られた縁があるかもしれない。今はそう思えてなりません。
運命によって出会うべくして出会ったとしても、その時社会の中に広がっている「マナー」によって心が導かれてしまえば、きっと、普通の付き合いで終わってしまうはず。それでいいのか、と今は自分に問い続けています。そして、その結果がこれです(笑)。

私が恥をさらすように、好き勝手にこうして言葉にしていけば、きっと一人二人は、私も好きに、と言葉にしてくれるかもしれません。
いつでも、普通に戻ればいいんです。大勢の中で生きるのはとっても簡単。そのためのスキルを教えてくれるところはいっぱいあります。

しかし、オリジナルになるぞ、というのは教われるものではありません。私が見つけた方法が唯一とはとても言えませんが、身体感覚を探っていけば、自然とどうしたって、変人に向かい、オリジナルとなってしまう、そんな力があるものです。
これからも、身体に従い、ありのままの言葉を出していけたら、と思っています。
変な話を長々とお付き合いくださり、ありがとうございました。


【つくば稽古予定】参加受付中


9/11 つくば稽古
つくば稽古では、今回の「怪我の功名」について、詳しくお伝えしたい思います。座骨と心臓、そして、そこから胎児の感覚、魂の感覚、もう大変です(笑)。気楽に、興味本位でご参加ください。
詳しくはウェブサイトでご確認ください。
申込、詳細はこちらのページから


【定期稽古】


8/19(金)名古屋熱田
8/20(土)名古屋
8/24(水)午前名古屋、夕方大垣
8/26(金)名古屋東山
8/27(土)浜松

個人、出張稽古はお問合せください。

詳しくはウェブサイトでご確認ください。
カラダラボ ウェブサイト

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