【再掲】下駄の効用

※10年ほど前の記事です。別ブログだったので再掲します。

今日は「下駄」の話をしようと思う。最近、ツイッターではつぶやいていたけど、あまりの効用にどうこれを伝えようかと考えているうちに時間が過ぎてしまった。

 多くの人が「靴」を履く。しかし、ぜひ、「下駄」を履いてみて欲しい。そして、それを続けて欲しいと思う。そこにはもちろん、意味はあるし、効果もあるんだけど、続けられる人はそんな事を考えずに、普通に、下駄で過ごす時間を過ごして欲しいと思う。


 ただ、私は頭でっかちな性格だ(笑)。意味もわからず、なにかを続ける事ってできない人。だから、今日は昔の自分にあてるような気持ちでブログを書く事にする。なにも考えなくてもただ履いて過ごすだけで、カラダは変わってしまうのだ。

 二階にある道場に手すりを使わないと上がれないほど膝が壊れている仲間がいる。彼に少し冗談めかして下駄を履かせて歩かせた。すると、それまで痛くて気になっていた膝が気にならないみたい。そのまま階段を降り、また、あがってきた。第一声は「なんで、あがれるのか!」だった(笑)。

 下駄をバカにしてはならない。エンジンも歯車も、なにもついていない。しかも高級なブランドでもなければ、たぶん職人が丁寧に魂をこめたものでもない(1500円ぐらいで普通に買ったサンダルのような下駄なんだから)。

 それでもカラダは変わってしまうのだ。

 普段、きっと、頭に気づかせないように、このカラダは無意識に変化を隠している。これまでも下駄を履く機会はあったけど、まさか、こんなにも大きな変化が自分の中に生まれていたとは夢にも思わなかった。

 下駄を履く事でなにがかわるのか。

 最近の術理に当てはめてみると、「跳ね返る力」、「重力」の力に簡単に乗る事ができる、というところだろう。以前、「今を5つにわけてみた」としてブログを書いたけど、その2番の力、五行で言えば木行の世界に簡単になじめるようになるのが下駄なのだ。

 跳ね返る力の存在に気づき、それを使いこなそうとあれこれ試し、なんとか、一通りの技の中での生かし方を見つける事ができた。それによって、これまで考えもしなかった動きが可能になり、実際に速く、そして、重い動きがでるようになったのだ。

 しかし、これを伝えるのはなかなか大変。まず、なにより、タイミングが違う世界がある事なんて普通は考えないもの(笑)。

 手を合わせてみればそこに普段と違う感覚と、目に見える結果があるので、タイミングが違う世界が「ある」というところまではなんとか理解してもらえると思う。問題はそのタイミングの世界にどう行ってもらうかだ。

 ただ手を上げる、ただ歩く、そんな普通の中にタイミングを変えた世界がある。そして、それを変えることができれば、これまで無理だと思っていた事に光が見えてきて、楽しくなれる。そう確信はしたものの、どうしたらそれを伝えられるんだろう、と考え込んでしまった。

 問えば必ず、答えは見つかるもので、その感覚を自覚し、過ごしてもらうためのアイテムが「下駄」なのだ。

 今、私の中では下駄は「履物」ではなく、「乗り物」と認識している。自転車のように楽に身体を運んでくれるもの、と考えている。下駄は発明なのだ。

 舗装道路のなかった日本では下駄が便利。もちろん、それもあるだろう。でも、そうなれば、現代において下駄は必要なくなる。軽い靴でかまわないもの。

 でも、靴では得られないすごいものが下駄にはある。下駄に乗る事で身体を常に楽に動かす事ができるようになる。

 これを武術の技を通して確かめると、もう、靴には戻れない(笑)。

 ちなみに、今私のキャリアは武道暦が40年近く・・・、甲野先生に出会ってからも20年近くになる。これまで、研究、稽古を続けてきて変わり続けてきた、という自負もある。

 でも、今、自分のどんな動きよりも「下駄」に乗って動いた技のほうがキレルのだ(笑)。

 甲野先生と出会い、変化こそ大切で、楽しい、とわかった今だからこそ、この状況を楽しく過ごす事ができるけど、きっと、何十年も一つの事を追求してきた人であれば、ショックで言葉もなくなり、さらに追求していく意欲を失ってしまうかもしれない。

 なぜなら、何十年の努力が全部、無駄な努力だったのかも、と思えてしまうから。

 少しでも動きのレベルをあげようと日々、汗をかいている。でもそんな汗を下駄はひょい、と乗り越えてしまうのだ。その現実をどう捉えるか、稽古のセンスはこういう瞬間に試される。

 下駄によって身体は変わっているのだ。変わっていない、と思い込んでいるのは頭。現代は頭が強いから、つい、変わった身体をなかった事にしようとしてしまう。でも、身体も大切な自分。しかも、身体がわかる事で精神の事もよくわかるようになる。

 こんなにも豊かで便利で楽に暮らせる時代なのに心につらいものを抱えている人は年々増えてきている。理由の大きな部分はきっと「身体」が使えなくなってきているから。医者も学者も皆現代人、身体を使える人、身体のすごさに気づいている人は少ない。身体のすごさを認めない人が精神の問題を解決できるとはとても、思えない。

 つい、話がそれてしまった。今日は下駄に戻ります。この記事を読み終わった後、下駄を買いに行ってくれる人が一人でも増えれば、なんて(笑)。

 下駄に乗る事で足からくる不安が少なくなっているのに気づく。足からくる不安とは崩れそうになる、不安。その不安定さが無意識の力みを作っているわけ。この力みは4番。筋肉、意思の世界。なにかをやろうとするタイミングは地面からの跳ね返りの力のタイミングに比べて圧倒的に遅い。その「ズレ」が力みになり、身体を硬くしてしまうのだ。

 若いうちはまだ、身体にも余裕がある。、栄養も取れるようになったから、筋肉も増えたし。しかし、増えた筋肉は重さにもなり、骨格としての身体、バランスとしての身体に負担をかける。歳をとり、どこかで、負担のほうが強くなるときが必ず、やってくる。

 それがわかっているのに、皆なぜ、平気なんだろう?

 下駄に乗ると、足指、膝の力みが消える。

 どうも、私たちの足元は平らに見えるだけで、体にとっては微妙なバランスを必要とするものらしい。その微妙なものを処理してくれるのが下駄なのだ。

 下駄は自分がそこにいていい、と身体で思わせてくれる。いくら、頭の中で「ここ」こそ自分の居場所なのだ、と思っても、実際に身体が緊張していては駄目だ。身体の方から安心がもらえる。ただの木材に紐がついたようなものなのに(笑)。

 舟の船頭さんを考えてみて欲しい。水面のゆれを身体で受け止め、櫓をこぐ。エンジンのように馬力で進むのではなく、身体を使って、舟を導く。この時、水面のゆれに抵抗していては一人前に舟を扱う事はできないはず。舟との一体感があって、初めて櫓を使いこなせるようになるはずだ。

 地面との関係もこれと同じ。地面は揺れていないけど、身体はいつも、不安定さを持ち、一体感を失ってしまっている。下駄に乗る事で簡単に一体感が得る事ができる。意味もあるけど、身体にはいらない。下駄で過ごす事が習慣になるように生活の中に取り入れると滑らかな身体、滑らかな気持ちの自分と一緒の時間が増えるはずだ。

 問題は仕事のとき。下駄を履いたビジネスマンは明らかにおかしい(笑)。そこが各自の研究テーマだから、勝手にやってください。

 ・・・と、ここまでは私の中では「普通」の話。下駄を履く事で地面との跳ね返りがスムーズに行われ、身体に力みを作るにくくなり、結果的に自転車のように身体を楽に「動かす」事ができる。身体が気持ちよく動くのだから精神的にもいいはずだ。

 ながながと書いてきたけど、上の数行に書いた事がこれまで伝えたい事のまとめ。後はそれぞれ、試してくれれば、と。

 実は、まだまだ、下駄には秘密がある(笑)。

 実は「手に持っても」動きが滑らかになってしまうのだ!

 両手を押さえて、歩く事をしっかりと押さえてもらう。この稽古が私は好きだ。目の前の進みたい道を行く、というのが人生と似ているから(笑)。

 どんな手を使ってもいいから前身を止める。それだけをルールにすると、武術武道の高段者、スポーツの才能、身体の大きさとかあまり、関係なくなる。その状況で自分になにができるか、を求めるのがこの稽古。

 この時、下駄を履くと、身体と地面との関係がよくなり、跳ね返る力が身体を動かすようになる。その跳ね返る力は筋肉のタイミングよりも早いので、結果として身体の大きさのハンデが消えてくる。ここまでは説明したとおり。

 この時、下駄を「手に持つ」のだ。鼻緒に指をかけ、ぶら下げる。その状態で前に進む。すると、相手がなにもできずに、崩れていってしまうのだから、もう、なんと言っていいやら(笑)。

 ポイントは手に鼻緒がかかっている事。たぶん(笑)。下駄だけを指で挟みこんだだけでは肩に力が「逆流」し、流れない。身体が力んでしまうのだ。

 鼻緒でぶら下げるぐらいの時、指先から力が外へと流れていく感覚がある。この感覚が身体の自由さをくれるみたいだ。

 下駄を持っていない反対の手、そして両足。それぞれは下駄を手にしている手に従い連れられていくようにする。すると、身体がスムーズに相手へと向かっていけるようになる。少しずつ理由はわかってきて、使い勝手も上手になってきているけど、下駄を手にしているときの身体の軽さはこれまでに経験した事がない。

 ちなみに、つまむんであれば、他のものでもいいんじゃないか、と巾着やポーチ、ペットボトルとかを試してみたけど、それらは全部、駄目。「下駄」でなければいけないらしい。

 そこで、ふと、思いついた。

 もしかしたら、私たちの中に動物としての心が残っているのかな、と。私たちは手足が大地と触れて生活をする。手足は大切な接点なのだ。その接点の先に不安があるのと、安心があるのとでは当然、違ってくる。

 ついつい、不安を頭にまで上げて解決したくなるけど、接点において安心を作れれば頭は他の仕事に回すことができる。

 一見、関係のない手に持つ下駄も、手先から伸びる世界、もしかしたらこれは抽象的なほうの世界かもしれないが、それとの間に安心を作ってくれているのかもしれない。

 遊びながら、笑いながら、この現象を試していて、ひとつ発見があった。

 竹刀でお互いしっかりと打ち合ってみたのだ。

 相手の隙を付くわけでもないし、竹刀を扱う技が伸びたわけでもない。この時、右手の指に下駄をぶら下げ、打ち合ってみた。すると、信じられないぐらいの重さと速さが出てきてしまった。

 タイミングも力みがないせいなのか、気配を読めないし、下駄をぶら下げる事でこんなにもかわってしまうだなんて・・・。

 しかも、何人かに試してもらっても、ほぼ例外なく、変わって重さと速さが乗ってきている。この変化で丈夫な袋竹刀が折れてしまったのだから、もう、なにかあるとしか考えるしかない(笑)。

 普通に竹刀を持って、右手に下駄をぶら下げる姿を想像して欲しい。一言で言うと、「間抜け」。もう、まじめになんて練習できない、普通の道場では絶対に許されない事だと思う。しかし、頭のまじめさを大切にしてこの速さと重さに気づかないで練習を続けても一生、そこには行けないかもしれないのだ。

 だからこそ、研究は楽しく、笑いながら、縛りなく行える場所が必要なのだ。権威を大切にするなら、それもいいけど、そんな権威は死ぬ直前には役に立たないものだし、年々、権威の力も小さくなっていっている。

 どうせ生きるんだもの、楽しく生きるためにはどうすればいいのか、そんな事を考えて暮らすのもなかなか楽しいし、身体感覚を使ってみると、意外と簡単にそれを実感する事ができる。

 ずっと、下駄の話をしてきたんだけど、乗るだけで、動きが変わるのだ。その動きは相手が敵役をやってくれるとさらによくわかる。どんなに抵抗をされても、崩していけるこの感覚は自分の中になにか「ある」という気づきに変わってくる。

 高度なテクノロジーの結果の道具は自分の身体にあるなにかを教えてくれない。その「道具」がすごいのだ、と思ってしまう。でも、下駄は「ただの木」だもの。下駄に乗って変わってくる結果の要因は下駄によって変えられた自分でしかないはず。

 世の中に便利なものはたくさん歩けど、その便利なものって結構飽きる。次にまた、性能のいいものが出てくるだろうし。一瞬満足があっても、すぐに不満に変わっていく。しかし昔の人が発明した下駄はどんどん内側に入っていくのだ。下駄のすごさに気がついて2週間ぐらいかな、毎日、違う自分が見えてくる。その人なりの変化が下駄によってもたらせるはず。

 身体感覚の世界はマニアックな世界でなかなか上手にその楽しさを伝えられなくて凹むことがあるんだけど、下駄を履いて見れば、意味はわからずとも、軽い身体を先に渡す事ができるとわかった。最近の浴衣下駄なんかは下にゴムが付いているので、まぁ、室内でもそれほど気にせず使えると思う。ぜひ、靴屋さん、和モノ屋さん、浴衣コーナーを覗いて手に入れてきてください。1000円ぐらいのもので十分ですから。

  つい、つい、熱を入れて語りすぎちゃいました(笑)。でも、まだまだ、話し足りません。続きは講座、稽古にて聞いてください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?