見出し画像

1. 現世

 <現世>を意識した、居酒屋のような場所で店主の笹川はにこやかに働いている。聞くと平日はスポーツ紙の記者として勤務しており、今も激務の只中だという。居酒屋を開業したいと思ったこともなく、包丁も握ったことがない。ただなぜか夜眠ると自分は居酒屋にいて、客の注文を捌き、鯛を三枚におろすこともできた。
「夜、合コンとかに行くと思い出すの。なんで夢だったら魚を捌けるんだろうって」
 笹川はカウンターの向こう側で、長い前髪を梳かしながら言った。
「両親や親戚で、飲食店をしている人は?」
「会ったこともないおじいちゃんが、こんな居酒屋をやっていたらしいわ」
「あぁ…隔世記憶説ってやつ?」
「私はどれも信じてないし、興味もないけどね」
 俺は信じてるぜ、と酒が回った男が言った。男は沖縄の漁師の金城だと名乗った。
「みんな言ってるよ、これはニライカナイだって。古代から、覚えている記憶があって、それをみんな見てるんだよ」
「俺は麻薬説だね」俺は自分の意見を言った。
「全員、27万人だっけ?全員が一斉に麻薬をやってるって?」
「場所もばらばらだしねぇ」笹川も同意した。
「どの説もトリガーがないだろ。なんで今更、って問いに、みんなだんまりさ。それだったら、全員が麻薬かなにかで体質が変わったって話のほうが信憑性があるさ」
「そうだねぇ…あ、起きるかも」笹川はあくびをして、仕込んでいた食材を冷蔵庫に片付けた。
「この店はどうなるの?」金城が尋ねた。
「なんか、残ってるんだって...じゃあ、おはよう」
 言い終わらないうちに笹川が消えた。店内もとたんに静かになる。店内に残っているのは俺と、金城、そしてギターを担いだ男だけになった。
「あれ?みんな誰かの夢だったんだ」ギターを担いだ男が言った。
「店から出れる?」
「うーん、あ、いけそう」
 男は店の外に出て、大きく背伸びをした。ここは大学の調査チームが<大津>と名付けた街で、大体1万人ほどが眠るたびに出現する。店の外の大通りには列車が横転して出現していた。
「この列車は誰の夢?」
 俺は言い終わらないうちに、アラームに起こされる。周囲二宣言するのを忘れていた。僅かなりのマナーだったんだけど。

 1人の部屋。シングルベッドに黒いカーテン。起きてすぐ夢の内容をメモにして、調査チームに送信した。<夢>の体験者だけがアクセスできるサイトを確認する。猫川彩音と検索した。該当者はない。
 コーヒーを淹れて、バナナを食べて、地下鉄とバスを乗り継いで、古臭い威厳のある海運会社に出社して、俺は船舶の運行管理者の仕事を始める。自動車運搬船の計画を確認しながらも、休憩時間に体験者専門サイトにアクセスして、調査結果から彩音を探す。帰宅にもバスと地下鉄を使うが、その時には体験者であることがわかるように半月をモチーフにしたタグを鞄につける。もう瞬眠などはなくなったが。
 夜、調査チームに参加している横田と通話した。中央都市<α>で共通夢の真相が、北に隠れているという話が広がり、αの住人たちがこぞって北に移動したらしい。
「ちょうどよかった。この話を大津の現地チームに伝えてほしい。暗証番号は0992」
「大津で起きたけど、大津には探索はいない」
「いや、隠れて活動してるよ。すぐに眠れる?大津の北の外れの鉄道基地に向かってほしい。忙しいからもう切るよ」
 俺は風呂に入って、いつものようにラフな服装に着替えて、ベッドに潜り込む。意識は途切れない。眠る感覚はあるが、俺はそのまま、黒い海に潜るように、27万人が見ている夢にアクセスする。こうした生活が4ヶ月続いている。今日こそは彩音の情報があるといい。もし、会えたら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?