短期的勝敗を理由に「定義」を破棄する発想を捨てよ――平凡と怪物の確率――いつか書くかも知れない麻雀戦術の序説Ⅲ

 2.388~2.612と2.465~2.537。
 これらの数値が一体何を表したものであるか分かるだろうか。

 それに答える前に一つ、問いを挟もうと思う。
「麻雀における実力」とは何かと聞かれた時、貴方はどのようなイメージをするだろうか?
 例えば、貴方が誰かとメンツを変えずに半荘戦を五対局ほど打った時、誰かが五連続でトップを取ったとする。あるいは、誰かがメンツを変えずに五半荘を打っているのを観戦していたとして、特定の誰かが五連続でトップを取ったとする。
 果たして、その誰かとやらを、「麻雀が強い」と断じてもいいものだろうか?

 私たちは通常、特定の競技や遊戯において「上達したい」と感じた時、普通は、何かを学習、あるいは模範するところから始める。例えば貴方が、この麻雀戦術を読み「学習」しようとしているように、である。
 貴方が麻雀のプレイングの「模倣元」を探している時、そのような「五連続でトップを取ったプレイヤー」を見て、「この人は麻雀が強いからこの人の打ち方を真似(模倣)しよう」と考えることは、果たして妥当だろうか? 現に、五連続トップというなかなか出来ないことをやってのけているプレイヤーなのだから、一見「強い」ことは間違いないように見える。
 問いかけばかりの文章になってしまった。結論を述べよう。
 そのプレイヤーを「模範」することの妥当性は判断が出来ない、何故ならそのプレイヤーが「麻雀が強い」かどうかは「五連続でトップを取った」という観測だけでは判断が出来ないから、である。

 ここで冒頭の数値に戻る。
 2.388~2.612と2.465~2.537。
 結論を述べてしまおう。これは、平均順位2.5相当のプレイヤーが、それぞれ100試合・1000試合を打った時に、70%の確率で推移する平均順位、である(※1)。
 つまり、そのプレイヤーが100試合、1000試合を打った時に、その平均順位を上回る、あるいは下回る確率は15%しか存在しない、ということである。あるいは、そのプレイヤーが100試合を打った時、平均順位2.388を上回り、あるいは2.612を下回る可能性は、15%「も」ある、ということである。その確率はそれぞれ約7分の1。
 単純化して言ってしまえば、平均順位2.4を下回るということは、その卓においてそのプレイヤーは「怪物的」な存在であることを意味する。つまり、平均順位2.5相当のプレイヤーが、100試合を打った限りでは、2.388に到達する可能性が常識的な確率で起こりうる、ばかりか、さらにそれをも上回る怪物的成績を叩き出す可能性さえ否定できない、ということである。
 平均順位2.5相当のプレイヤーは、やはり単純化して言えば、その卓上では「平凡」なプレイヤーであることを意味する。
 しかしその「平凡」なプレイヤーは、100試合を打った限りでは、15%以上の確率で「怪物」になりうるのだ。
 そろそろ私が言いたかったことをご理解いただけるだろうか。
 つまり、100試合にすら満たないような、「五連続でトップを取った」という情報だけでは、そのプレイヤーの強弱など、判断のしようがないのである。

 では、我々は一体何を基準に麻雀を学べばいいのだろうか?
 一言で言ってしまえば、「より勝つ確率の高い選択を可能とする理論、またはより勝つ確率の高い選択を行い続けているプレイヤー」から学べばいいのである。
 幸いなことに、現代では天鳳や雀魂など、通算成績が記録として残るネット麻雀が当たり前のように存在しており、「より勝つ確率の高い選択を行い続けているプレイヤー」を判別する方法は以前よりも遥かに容易になっている。
 また戦術面においても、2004年に発行されたとつげき東北『科学する麻雀』を皮切りに、具体的な数理に基づいた麻雀戦術が考案され続けており、Microsoft社のSuphx、ドワンゴのNAGAを中心に天鳳において高段の成績を維持しているAIも開発されており、そのAIの打ち筋をアプローチする研究も続いている。
 しかし、そうした打ち筋に基づいてでさえ、上に述べたものと全く同じ理由で、短期的には大いに負け越す可能性がある。例え貴方が平均順位2.38の成績を叩き出せる打ち手であっても、100試合単位では平均順位2.5になることもありうるばかりか、さらにそれよりも負け越す確率が15%も存在しているのだ。例え貴方が、現状において最強に等しいAIであるSuphxやNAGAの打ち筋を「完全」に再現出来る打ち手であったとしても、である。

 麻雀とは、短期的な勝敗で自らの「定義」を破棄してはならないゲームである。
 
 これは、私が前節の最後に記した、「一番最初に画定されなければならない「定義」」である。
 貴方は、貴方が現状で最善だと判断した定義で、麻雀を打つことになるだろう。それによって、ある対局では勝利し、ある対局では敗北することになるだろう。あるいはその勝利や敗北は尋常ではない「ように思える」ほど連続したものかもしれない。
 しかし、それでも貴方は、「負け続けているから」という理由「だけ」で、貴方の定めた「定義」を破棄してはならない(※2)。
 確かに、貴方が連続して敗北し続けた対局の中には、明確な敗着となった打牌が存在し、その打牌に至った理由は貴方が定めた「定義」であるのかもしれない。
 しかしそれでもなお、その定義に対する評価は実際的な「検証」に基づいて行われるべきであり、「勝った負けた」「勝ち続けた負け続けた」という理由だけで、自身の課した定義を破棄することは、非常に危険なことである。

 さて。私が以下に記す麻雀戦術、ならびにその定義は、決して貴方を「最強」にすることはないだろう。私が以下に記す戦術は、お世辞にも客観的に検証され続け、確固たる実績を残したものではない。
 つまり、貴方はこの麻雀戦術とそれに基づいた定義を完全に履修したところで、貴方は「最強」にはなれない。
 しかし、私がこの麻雀戦術で記したいものは、貴方がこれから最強を目指す上での「土台」である。
「定義」とは、決して永久不滅のものではない。そもそも「麻雀」と一言で言っても、四麻か三麻か、東風か半荘かで、ゲーム性そのものが違ってくる。
 しかしそれは、要するに「更新」すればいいのだ。あくまで「勝った負けた」で「定義」を変えてはいけない、という話であり、検証の結果、自身の定めた定義が間違っていたことが判明した場合、その定義を正しく変えればいいだけの話だ。
 そして、その定義を改定する作業は、貴方自身が行うのだ。貴方の麻雀を、その定義を決めるのは、貴方でしかあり得ない。貴方が、私の記す麻雀戦術を、貴方の定義に入れられると思えばいれればいいし、その逆もしかりだ。
 貴方は、貴方が麻雀を強くなりたいと思うのであれば、その作業から、決して逃げてはならない。それが出来ないなら、「自由な麻雀」に帰るしかない。

 私は貴方に、一番最初の「自重」を与える。
 それは、「麻雀とは、短期的な勝敗で自らの「定義」を破棄してはならないゲームである。」という「重み」、つまり、「一時的な勝った負けたで、その時の主観的な感情や情報だけで、貴方の定義を破棄してはならない」という「重み」である。
 それは、とても苦しい重みかもしれない。麻雀で負け続けた貴方は、貴方の定義に疑問を抱き、その逆の打ち筋をしたくなってしまうかもしれない。
 しかし、貴方が「勝利」を求めるなら、その一線だけは絶対に変えてはならない。何故なら貴方が定めた「定義」とは、貴方が勝つために定めた「定義」なのだから。錯誤もあるだろう、例外もあるだろう。しかし、それらは貴方の定めた「定義」に基づいて行われなければならないのであり、決して「破棄した結果」でなされてはならないのである。
 貴方の「定義」に基づけば「ミス」と思われる打牌で最高の結果を残したとしても、貴方はそれを「ミス」と呼ばなければならない。それを否定したければ、貴方はその「最高の結果をもたらした打牌」を検証し、それが「ミス」でないと証明した上で、「定義」を変えなければならないのだ。

 この長い序説も、掉尾に近づこうとしている。
 貴方がこの序説の内容に同意するのであれば、以上の「定義」を以って、貴方はこれから私の麻雀戦術を読み進めてもらうことになる。
 以上で述べたものは、あくまでその根幹だ。これだけで実際に勝てるようになるほどには麻雀は甘くはない。

 いい加減この序説も長くなりすぎた。
 本題に入ろう。「具体的にどうやって麻雀に勝つ」か、そのための「定義」を記し始めよう。

 まず、一番最初の定義を記そう。
 麻雀において最良の攻撃手段は「先制リーチ」である。

(※1)みーにん著「麻雀における平均順位のぶれ」より抜粋。https://note.com/meaningless777/n/n17c8ad1f6569

(※2)ちなみにこれは、「勝ち続けている場合」にも全く同じことが言える。例えば、「俺はこのやり方で勝ち続けている」という理由で、何かの定義を信じ続けることは危険である。「定義」とは、貴方の「主観」だけを理由にされてはならないものであり、少なくともそのようになされた「定義」は危険であるのだ。

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