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読書記録(15)泉鏡花『夜叉ヶ池・天守物語』

2004年に上演された舞台『夜叉ヶ池』のDVDを観るに当たって原作を確認しておこうと思い、岩波文庫版を購入。

「天守物語」も収録されているが、両方短いので本としてはかなり薄い。半日あれば十分読み切れる。

「夜叉ヶ池」

現在の福井県南越前町内、岐阜県との県境あたりに同名の湖が実在していて、そこに古くから伝わる龍神伝説に泉鏡花が脚色を加えた戯曲。本作が発表されたのは大正時代で、物語の中もその頃の設定と思われる。
参考:福井県公式観光サイト「ふくいドットコム」

<あらすじ>
 主人公萩原晃は、「鐘を朝・夕・深夜の日に3回鳴らさないと夜叉ヶ池の龍神が大洪水を起こす」という言い伝えを守り、鐘撞きを毎日欠かさない。晃は村人でないにもかかわらず、もともと鐘を撞いていた村人が死んだのを機に自ら進んでその役を引き継いで、はや3年。村ではその言い伝えを信じる者が皆無になって久しいが、村で身寄りなく一人で暮らしていた美人の娘百合と二人で、慎ましく鐘を撞きながら暮らしていた。
 あるとき、晃が百合を家に残して出ている間に、村人たちが百合をかどわかしにやって来た。目的は、慈雨を降らせて大旱魃を終わらせるため、百合を夜叉ヶ池の生贄として捧げること。狼藉に遭う百合、そこへ不吉を悟った晃が戻ってくる。しかし、話の通じない村人を鎮めるため、百合はあえなく自害。怒りに震える晃は、ちょうど鐘を撞く時刻だったがこれを放棄。すると言い伝えどおり洪水が押し寄せて、村は海の藻屑となった。
 夜叉ヶ池の姫白雪は、かつて生贄として夜叉ヶ池で命を落とした村人だったが、池の龍神となってからは「鐘が日に三度撞かれる限りは洪水を起こさないようにする」という人間界との約束に束縛されてきた。しかし今、その羈束から解放され、晴れて恋人の棲む剣ヶ峰・千蛇ヶ池へ赴くことができるようになった。

前近代的で不合理な因習を痛罵している。ただ、因習は因習でも、鐘を撞きつづける萩原晃の敬虔さは美しく描き、牛の背中に美女の生贄を乗せようとする村人たちを醜いものとして描いている。利他的なもの(前者)は美徳とし、利己的なもの(後者)を侮蔑しているように読める。

白雪は約束を反故にしてでも千蛇ヶ池の主に対する恋を優先させようとする。その刹那に聞こえてきた百合の唄、夫の不在による寂しさを紛らわせて歌う声に心洗われ、一旦は踏みとどまる。

このように白雪(魔物)と百合(人間だが魔物めいた描写あり)の純情ピュアに描かれることにより、村人たちが固執する因習の醜さが際立つ。


「天守物語」

天守白鷺城(姫路城)に棲む富姫をはじめとする魔物たちが登場する戯曲。五重(5階建て)の最上階へ城主の命を受けやって来た若き姫川図書之助との間に芽生える瞬間的な恋。しかし城主の家来たちに攻め入られ二人揃って盲目となり、もはやこれまでと心中を覚悟し打ちひしがれていたところへ、ある老翁が現れて盲目を治し、恋が成就したところでハッピーエンド。

富姫は人間だった頃、二代前の城主の家来たちに落花狼藉に遭いそうになり自害した過去をもつ。酷い仕打ちを受けて死後魔物になったという点は「夜叉ヶ池」の白雪と共通する。

人間に憎しみを持っていたはずの富姫がなぜ人間相手に恋心を抱いたかというと、図書之助の見せた謙虚さ・真面目さが新鮮だったから。魔物である富姫を目の当たりにしてもたじろがず、城主と同等に富姫へ敬意を表す。さらに、富姫と相見えたことを城主に報告してよいかどうか伺いを立てる律義さ。その律義さは一貫していて、「もう二度と来ない」約束をしたそのすぐ後に、灯を求めて再度推参した折にはその事情を事細かに説明して詫びる。そのピュアな人柄が可笑しくもズッキューンと来たのだろう。

このように両作とも、人間や因習に潜む醜さ、その中にあって純情を捨て去っていない者がもつ美しさ、そして人間よりも人間らしい(恋に一途な上に人情を弁えている)と言える魔物の親しみやすさが、読後感を甘酸っぱくする。

巻末の解説(澁澤龍彦)にはこうある。

そして人間世界と妖怪世界とのあいだの緊張した対立関係には、人間と妖怪のうち、どちらが真の意味で人間らしいかという、倫理的なパラドックスがつねに伏在しているのである。

つづいて、『海神別荘』に触れた上で、

倫理というよりも、すでにここには純粋への欲求といったものしか見られないような気が私にはする。おそらく鏡花が終局的にめざすのは、こうした倫理の彼岸なのである。

魔物(妖怪)をテーマにしていながら、描いているのは「ピュア」「純情」大人向け御伽噺。他作品も読んでみたい。芥川龍之介に敬愛され、谷崎潤一郎と親交が深かったというから尚更。

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