わからなさへの不安とフロイト・陰謀論

"わからない" という状態は極度のストレスになるが、フロイトはなんとなくそれっぽい物語を提供してそれを "わかるもの" に変えることで、結果的にストレスが軽減されて神経症が落ち着いたりしたんじゃないかという話を思いついたので書いてみます。

まず "わからないという状態がストレスになる" とはどういうことか。
1. 好意をもってこちらに挨拶してくる相手
2. 敵意をもってこちらを無視してくる相手
3. なんだかわからないけどずっとこちらを見ている相手
これらのうち3番目の人に対して感じるストレスのことです。

ストレスというと一般的には (2) のようなものが想像されるかもしれませんが。そういうものを僕はノルアドレナリン・交感神経が高まることによる緊張感の増加だと考えています。動物が敵を目の前にして戦闘態勢をとるようなもの。

(3) はそういった野生動物的なストレスではなく、認知的なストレスというか。脳が常に 「こうかもしれない、ああかもしれない」 と予測を繰り返すことによって考え疲れてしまうようなものだと思っています。それも僕はある種の "ストレス" だと考えています。

話をすっ飛ばして結論をいうと、そういう認知的なストレスを解消して楽にしてくれるのが有象無象の陰謀論だと考えています。
世の中にはびこる "わからないこと" を、すべて "わかること" に変えてくれる。認知的負荷が一気に軽減される。その代わりに真実・事実の複雑さを見つめることができなくなる。

精神医学の父と呼ばれるフロイトが活躍したのは第二次世界大戦より前です。脳科学はまだ発達しておらず、神経症や精神病に対して 「あなたのストレスの原因は、過去のこういった出来事がトラウマになっているんじゃないか」 と、対話しながら推測していくような治療法がおこなわれていました。

その他に催眠療法というものもおこなわれていました。5円玉を揺らすような古典的な催眠術をかけて、患者の心の底にある想いを語らせ、そこから症状の原因を探っていこうという治療法です。

フロイトは初期には催眠療法もおこなっていましたが、ある時期からはそれをやめて、対話しながら相手の深層心理を読み解いていくという精神分析療法の道に進むようになりました。

僕は『フロイト全集』を数冊読みましたが、不謹慎なのを承知でいえばとてもおもしろい症例がたくさん載っていました。
フロイトはまるでシャーロック・ホームズのように、患者のわけのわからない行動に 「それはこういった意味を持っているんじゃないか」 と意味づけをしていきます。

おそらくフロイトの治療を受けた患者本人も 「自分が自分の意識に反してこういった行動をとってしまうのは、そういう理由があったからなのか」 と納得感を得ることができたんじゃないでしょうか。

僕自身もフロイトに救われた部分はあります。自分の中にあるわけのわからない衝動とか欲望とか、頭で考える理想のとおりに動けない自分への嫌悪感とか、そういうものを意識と無意識という構図やリビドーという言葉でわかりやすく説明してくれたおかげで、自我の混乱を治めることができたように思います。

でも今になって思うとフロイトの言ってることは、社会や政治や経済の複雑さに頭を悩ませている人に 「それは全部ディープステイトのせいで、彼らはアメリカもイギリスも日本もぜんぶの国をひとつの目的のために動かそうとしている」 と説明するのと似たようなものなんじゃないかとも思います。

どちらも "わからないことへの不安" を解消させるために "わかりやすい物語" を提供しているという部分で共通していて。
そして更に話を広げると僕は現代SNS社会でなによりも問題なのがこの "わかりやすい物語" なんじゃないかと思っています。

現実は複雑だし、ヒトも複雑で、小説や漫画のキャラのように 「俺はこれを信念にしていて、それ以外の生き方は絶対にしない」 なんて一本筋の通った人間なんて現実にはほぼいません。

絶対的な善人も絶対的な悪人もいないし、ADHDやASDの数文字だけで説明できる人間もいないし、HSPだとかMBTIだとかの一言で自己紹介を済ませられるほど人間はわかりやすい生き物じゃないと思っています。

でもそんな 「わけのわからない他者」 と同じ空間で過ごし続けるのはストレスです。(3) の認知的ストレスをずっと感じ続けることになります。

それを解消するために、欧米ではエレベーターや信号待ちで 「How are you?」 なんて会話をしてわからない部分を減らそうとするんでしょうし、日本では 「キャラ化」 が進んで、わかりやすいキャラクターの仮面を被ったまま人間関係を続けていくような対処策がとられているんだと考えています。

日本でもし本人のキャラに合わない行動をすると、ヒトの持つ "わけのわからなさ" が露呈して、関わっている相手を不安にさせてしまう。だから誰が見てもわけがわかる安易なキャラクターを演じ続けることが、コミュニケーションスキルとして必須のものにすらなってきてる。

現代はそういうキャラ化したコミュニケーションが、複数アカウントを使い分けるSNSとの相乗効果によって、ものすごい勢いで広がっているような気がしています。僕はあまりいい気分はしません。基本的にパンクロックな本音主義なので。

ただちゃんと考えなきゃいけないなと思うのは、僕はふだん本を読んだり調べものをしたり、この記事みたいに 「フロイトのやっていたことは陰謀論的な "認知的負荷の少ない物語の提供" だったのか!」 と物事同士を結びつけたりするわけだけど、そういう行動自体が 「世の中からわからないことを減らしていこう」 という、僕なりのわからなさ不安の解消策でしかないということで。

僕はどちらかというと、わからない相手に 「How are you?」 と聞くような解決策を選びたいと思っていて。わからない物事がでてきて不安を感じたときに、わかる部分を増やしていこうとする対処策です。

でも今回のように僕が浅い知識でフロイトと陰謀論を結びつけることは 「キャラ化」 でもあるんですよね。フロイトの体験や思想という複雑なものごとを、身近でわかりやすいものにたとえて単純化してしまう行為。

だから僕が書いてる 「フロイトの治療法は実はこういうことだったんだ!」 というのは、「〇〇さんって陽キャだよね」 とか 「△△ってクソフェミじゃん」 みたいな、複雑でほんとはわけがわからないはずの相手を、キャラクターの枠に当てはめて "わかるもの" にしてしまおうという、牙を削ぎ爪を剥ぎ人間性を奪うような冒涜行為なのではないかと考えたりするわけです。

そこで 「どうせ世の中も人間も複雑でわからないんだから、なにも考えずわかろうともせず生きていこうぜ」 という道を選ぶ人たちともそれなりに出会ってきました。

そういう人と相性がいいのが仏教で、仏教ではあらゆる物事を儚い幻のようなものと捉え、その本質は "無" なのだと明言する、なかなか独創的な宗教です。

でも僕はこれにもあまり良い気はしません。なにもかもがわからないわけじゃなく、無のまわりで延々と輪廻転生してるわけでもなく、人類はこの数千年で、それなりに "わかる部分" を積み重ねてきたはずだと思っているからです。

世界地図すらまともに描けなかった時代に比べれば、いまはどこにどんな地形があるのか正確にわかるようになっているし。植物や動物の習性やら、脳や臓器のはたらきやら、物理法則やらなんやらかんやら、いろんな分野で先人たちが世の中に 「How are you?」 とコミュニケーションを試みて、その積み重ねでやっと少しずつこの世界のことがわかってきている。

それなのに 「どうせわからないんだから」 とそれまでの歴史を放棄して、深い霧の中に自ら入っていき自分の内面だけを頼りに生きていくってのは、別に否定はしないけど、僕にとってはあまり憧れるような道じゃない。その生き方なら別に紀元0年でもできるし、現代に生まれた利点みたいなのを活用してなくてもったいないなと思うから。

「わからないまま生まれて、わからないまま死ぬ」 という絶対的な事実を受けいれつつ、それでも無気力にならずに 「わかる部分をちょっとでも増やせたらいいな」 と希望をもち、ただしキャラ化や単純化によってわかった気になるような認知的に楽な道に流れることなく、"わからない不安" をわからないまま抱えながらも粘り強くコミュニケーションを続けていくことが、今の僕の考える理想的な道なのかな、と思いました。

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