『からこといのち通信 №10』4月号 2021/3/20 発行

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【 急なお願い 】

レッスンのホーム会場にしていた新宿区地域センターが利用できなくなりました。センターがワクチン接種の会場になるのと、利用団体の活動内容へのチェックが厳しくなり登録解除になったことが理由です。そこで代わりの場所を探したいのですが宛がありません。適当な場所をご存知の方がいらしたら紹介して下さい。都内もしくは近郊で人が集まりやすい場所を探しています。広さは18畳(5.4m四方)くらい、利用費用は安価であること(今までは朝から夕方までで1,500円)。この条件で、新宿区の地域センターで10年近くお世話になってきました。今になってこの条件で会場を探すのは難しいかもしれませんが。
私は何よりもレッスンの継続を望んでいますが、コロナを含めての昨今、やって来る状況に対応することが私一人で処理できる限界に来ています。ご助力を求めます。どうぞよろしくお願いします。

瀬戸嶋 充 ばん
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『からこといのち通信 №10』4月号(人間と演劇研究所 瀬戸嶋 充 ばん)2021/3/20 発行


「こう説明すればいいのかな?」

レッスンの中でいつものおしゃべりが始まります。

「一般にみると、ダンスも朗読も、、体操も、、頭(意識)で考えて、考えた通りに、体を使って結果をだしますね。振付けに合わせて、考えた通りに手足を動かしたり、文章を読み、頭で描いたイメージ通りの素振りや感情表現を創ります。意識の指令でもって、体を使って作って行く。ふだん、皆んなあんまり意識しないと思うけど、考えて見れば、表現するって、そういうことをしていますよね?」

途中、学生さんに向かって「言っていること、分かってもらえますか?」と私は度々念を押します。話をすることにあんまり自信が無い。

「演技だけじゃなく、スポーツの動作とか、日常の所作、立ったり座ったり歩いたりも、、、意識(頭)で考えて、からだを使って目的の実現を目指しますね。」

話を聞いている人たちがが不思議な顔をしています。当たり前すぎることを説明すると、とっても分かり辛いことがありますね。

「意識の指令のもとに、体をコキ使う(、、言葉が荒っぽい、)、意識で自分の体を操作しているというのが、私たち普通一般の、人間の行動への自然な理解じゃないかと思うのです。難しく言えば『意識主体』なんです。意識がご主人になって、下僕としての体をコキ使う。」

「体が意識した通りに動かないと、こん畜生!などと体に八つ当たりしたりする。オレが悪い訳じゃぁない、体が硬いからダメなんだ。誰がこんなに固い体にオレを生んだ! 八つ当たりの最たるもので、オレ=意識は何も悪くないと見て、(無意識にせよ)体の存在を否定してるわけですよね。意識の中の理想の自己像に、実際の自分が合わないのは、体が悪いとでもでも言わんばかりですね。」

「現代人の価値観は、知識や意識が第一で、体をそれに従属するもの(物体・自動ロボット)と見ていますね。頭が一番で、誰の頭が良いか悪いかと競争させられてきた。あの人は『体が賢い』からなんて言いませんよね。体を物あつかいしてますね。物の出来が悪いから、改造しなくちゃなんて。物には心が無いから何しても自分の心は痛まない。」

このくらいクドクドと話すと、私のいっていることが伝わるみたいだけど草臥れますね。ホントはここからが大事なのだけど、どうしても前置きが長いうえに本題になかなかなかたどり着けない。

「頭(意識)が上で、体はそれに従う従僕(奴隷・ロボット)。自分の中の支配関係、頭と体の上下関係を無自覚に抱えているんですね。差別をしてる。主従関係が根深くある。」

「ともかく、行動を促す意識=『自分』と、それに従う身体=『自分』)。自分が二つに分かれてしまっている。ここのところの折り合いが悪い。心と身体が分離してしまっているとも言えますね。」

ここからが本題です。

「ボクのレッスンでは、意識が主体では無く『いのちが主体』となる。そういう『からだやことば』の表現を探ってます。」

いつも説明に苦労するところです。

「自分が表現『する』のではなく、『いのち』の働きによって、自分が表現を『させられる』。日本の古典の『能』は、人々の心の中にある情念(怨霊・荒ぶる神)を、舞手が引き受けて舞い演じ、昇天させる。巫女さんは神を自分の『からだ』に降ろして巫女舞を舞いますね。イタコさんは死者の霊を降ろしますよね。」

「憑依という言葉、判ります?儀式や修業をして、自分の『からだ』を空っぽにして、仏でも神でも霊でも何でも構わないのですが、そういう得体の知れない者(現代科学では無意識と呼んでますね)に、自分を(存在を)明け渡す、、、別人格に支配を許すんです。その別人格(私ではない何者か)によって表現『させられる』。狐や狸とかが来ると困っちゃうようですが。」

「そういう人、結構いますよね。」

(笑)

「眉唾もの(眉に唾つけて用心が必要)と思うかもですが、演劇もダンスも歌も音楽も、元をただせば神仏や自然と自分が一つになる、そのための祈りが始まりですよね。神仏自然だけでなく、人が人に向けて表現する、歌ったり踊ったりも相手の中の神性を信じて、それに訴えかけることですね。」

「ボクが『いのち』という言葉を使うのは、こういう自分自身では無いけれど、ボクの中に在って、ボク自身を生かしていくれている存在、内側からボクを導いてくれている存在。そういう『いのち』がいて、日々の暮らしや育ちを後押ししてくれている。」

「ボクは自分のチカラで人生を歩んでいるなんて、信じません。自己責任なんてことばは嘘っぱちです。ボクの中の『自然』=『いのち』によって『生かされる』ことがなければ、『いき』一つ出来ないことでしょう。』

こういう話って、言ってることは分かるけど、分かるのだけれど同意するには困ってしまう。そういう話かもしれませんね。

「そういう意味での『いのち』の働きを前提として、ボクのレッスンは成り立っています。『からだとことばといのちのレッスン』と呼ぶ理由もここからきています。」

それじゃぁ『意識』は何のためにあるのか?という話になりますね。

「だからボクのレッスンの目指すところは、『いのち』=ボクのからだの中の天然自然のチカラが、良く働けるように、元気に活躍してくれるように、その力に自分を明け渡せるように、『意識』して自分という器=『からだ』=『自分』を調えて行くのです。」

滝行みたいなものかな?

「インスピレーションが降りて来たような奇跡的な出来事だった、なんて言います。それを奇跡と見ずに、どうしたらそんな奇跡的なことが起きて来てくれるのか?どうやって常識や固定観念に縛られずに表現を生み出せるのか。その方法を探して行くんです。『インスピレーション』さんが、やってきたくなるような『からだ』。ボクを使って『いのち』が自由に活躍してくれるように、それを妨げる心身の中の強張り=自意識の縛りを緩めて、『からだ』=『器』を『いのち』の働きに開放する学びを、『レッスン』と呼んでいるんです。」

その方法や手段については、野口三千三さんの『野口体操』と竹内敏晴さんの『竹内レッスン』での、私自身の実体験をもとにして、時間をかけて瀬戸嶋流に作り直しました。

「『自分=意識』と『自分=からだ』が、その隔てる距離を越えて一つになること。両者が分断を越えて『いのち』そのものに成り切る体験のこと、意識と体の仲直りのときを、幸せ(仕合わせ)と言います。」

いつも難しい話になってしまって、ご免なさい。誰にでも容易に分かってもらえるお話が出来たらと、心がけてはいるのですが、なかなか難しいものです。どうか懲りずにお付き合い下さいね。

(瀬戸嶋 記)

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【1】 歩くこと!の自由
【2】 風周りの交換ノート ⑥(なりきる、虫っ子とミミズさん)
【3】 合宿の開催予定
【4】 通常レッスンのご案内
【5】 あとがき
【6】 note バックナンバー

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【1】 歩くこと!の自由

からだを柔らかくほぐして、凝り固まった肩や背中の重荷をおろしたあとに、部屋の中を自由に歩いてみる。からだの無駄な力みが取れているので、歩いているのを見ているだけで、気持ちが良さそうなのが伝わって来る。「歩くって、こんなに気持ち良かったの!」楽しそうな声が聞こえてくる。

そこでボクが声をかける。「みんなの歩くのを見ていると、向こう側(前方)に世界があって、そこに自分を、一所懸命に押し入れているように見える。まるであらかじめ描かれた地図があって、その中へと足を踏み入れていくように。」

当然といえばとうぜんのことですね。ただしこの当然のことに疑いを持ってしまうのが、ボクの癖のようです。みんなの歩む姿を見ていると、当人と景色とがそれぞれ別個のものになっている。眼の前に世界(風景・景色)があり、「意志をもってその世界に自分を押し入れて、歩みを進めて行くのが歩くことだ!」と、みなさん主張をしているようです。

「向こうからやって来る光景が、自分のからだの中に入って来て、通り過ぎ、去っていく。そのつもりで歩いてみて下さい。」この一言でみんなの歩く姿が、がらりと変わる。

「歩く」ときの「歩くぞ!」という意志が「からだ」から消えてしまい、みなが歩きまわる部屋の中の空気が、静かで透明になる。意識して間合いをとり、たがいに衝突を避けようとするギクシャクも消えてしまう。魚が流れを行くように滑らかに水中を進むようだ。勢いよく歩き回っていても、衝突なんてあり得ないとあらかじめ決まっているかのよう。

「気持ちいい!」「楽だ!」「何にもない!」そんな声が聞こえてくる。『歩くこと』の成立だ。歩く「からだ」と、歩くことを促す「意志・意識」との間にある隔たりが消えてしまった。もちろんやってくる光景と、それに向かい合う自分という区別も。そして「ただ歩くこと」だけが残ったのだ。

あらかじめ脳の中に記憶され描かれた地図の中に自分を押し入れて行くのが、或いはすでに決まりきった景色の中を行くことが「歩く」ことだと、ボク達は思い込まされているのでは無いか?この常識に嵌まってしまうと、「歩くのは目の前に立ち現れる世界との自由な流れ合いだ」という本来の観点は奪われてしまう。川の流れを泳ぐ魚や、果てない大空を翔ける鳥たちの自由は奪われてしまうのだ。

このことは、レッスン会場だけでの出来事におさめてしまうのはもったいない気がする。自宅から駅へと歩くとき、ハイキングで自然の中を行くとき、どんな時でも良い、「光景が次から次へと自分のからだに入って来て、自分の中へと通り過ぎ去って行く」歩く時の感じ方を思い出して見て欲しい。

状況や道行く人に影響され振り回されることの無い、空っぽ気分の心地よいひと時が送れます。ウンウン言いながら地図の中へと自分を推し進めて行くようなことはもうやめませんか?そういうときが必要な時もあると思うけれど、少しづつ切り替えて行きましょう。

ボク達は過去に取り決められた常識に、無自覚無意識に縛られて苦労していることが多いように思うのです。「からだとことばといのちのレッスン」では、「からだ」と「ことば」にベッタリとへばりついて自由を奪うさまざまな既成概念や固定観念を、「本当にそれで良いのだろうか?」と「いのち」の側からの問いかけを繰り返しています。

そのレッスンの対象は「立つ」「歩く」「走る」「声を発する」「息をする」様々です。いわば「生きている」こと自体を「いのち」の側から見直し無自覚な縛りから、本来の自由を取り戻すことですね。

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【2】 風周りの交換ノート ⑥(なりきる、虫っ子とミミズさん)

赤星周(あかほしあまね)さんとの交換ノートから引用して連載しています。

◆◆◆ あまね 「ピグマリオン、アリンコ、月」018 ◆◆◆

そうか、ばんじイジメにあっていたんですね。

途中までウーンと読んでたけど「好きな子がいたから!」にめっちゃすくわれました。笑
けれどもやっぱり「学校なんてどこにも無い!」という言葉の行間にあるものへ、説得力とも共感ともつかぬ複雑な感情があります。

ピグマリオンの話。
逆をいうと、人に恋されて人は人になれる、なんてこともあるんかなあと思いました(自分にもそんな覚えがあります)。
するとピグマリオンの物語で起こったのは
・彫刻家が像に恋したから、像が人間になった
・像が彫刻家に愛されたから、人間になった
の片方ではなく、両方で相成ったものだったんじゃないか・・・という気がしました。

アリンコの話。
かわいくってあぶなっかしくて、荒唐無稽なことに本気になっていた私の記憶も刺激されました。

月の話。
おもしろいはなしですねえ。読んでてからだにくるものがあります。ばんじの集中の在り方のルーツor過程ってすごく気になってるので、きけてうれしいな。充さんの月の話をよんでいて、何かを思い出しそうになったけど、けっきょく思い出せなかった。
ばんじがイジメにあう前は、どんな集中をしていたのか・・・も気になる。いっそちびっこ充さんに会いたいくらい。
ちなみにわたしは虫ッ子でした。しゃがんで、地面の虫をみて、顔を上げると夕方だった。ちっちゃいカラダと、糸のような細い脚が " どうやって動いているのか " 。「なんだろう」で見つめ続けるわたしの集中のしかたは、そこから今まで地続きな気がしています。

ばんじ曼荼羅たのしみですね。たしかにいま、えいっえいってなんかパーツというか断片みたいなものを掘り起こしてる感あります(どっちがっちゅうんでもなく、なんとなくお互いに)。どっかで、振り返って話をする機会を設けてみてもおもしろいかもしれませんね。

「見た目じゃないよ(笑)」笑。
へ〜、そんな象形なんだ!しらなかった!
まえの合宿で「海の潮に揉まれてるかんじした」って私言ったけど、あながちまちがってなかったってことか・・・おもしろいな。
ばんじの名前は、誰が付けた名前なんですか?

◆◆◆ ばん 「なりきる(為りきる・生りきる・成りきる)」019 ◆◆◆

ここのところ、あまねちゃんとやり取りしながら、『集中』とは何なのか?を言葉にしたくて、私は悶えているようです。

『なりきる』(為りきる・生りきる・成りきる)という言葉が、私には『集中』していると同義に思えて来ています。

これは竹内敏晴のエピソードですが、「新宿中央公園の大樹の根元で安坐を組んでいた時、自分が樹になってその生まれ故郷の山に行っていた。山から中央公園に運ばれ植え付けられるまでの樹の記憶を体験していた。」と。中央公園でブラインド・ウォークのレッスンをやったときのことです。

竹内は強烈な集中力を持っており、彼からその場で話を聞いた私は「はあ、そうですか⁉」としか返す言葉が見つからなかったものです。彼自身も不思議な体験があったことを、私に伝えている様子で、そこにどんな意味があるかを語ることはありませんでした。

あれから30年以上経ったのですが、先日のこと「竹内敏晴は公園の『一本の大樹』に『成り切って』いたのだ!」とその時の出来事の意味が、私の中で言葉を結んだのです。あまねちゃんとの仮面についてのやり取りが、大きなきっかけになっています。

分かりやすい話なので、竹内の体験を引用しましたが、私にも同様になんとも意味を捉え難い体験があったのです。20年前、円覚寺の学生坐禅会に参加した時のこと、木の板を叩く木槌の響きに乗って、山上から木霊(こだま・山の気・響き・木魂・光)が集まり奔流となり、山間の谷を私に向かって滑り降りてくる。それに呼応して、坐禅を組んでいる私の方からも光(気)の帯が、山上へと昇りあがっていく。

「ははぁ、あの時は私自身が『いき』(息・生き・気)そのものになっていたんだ!『成り切って』いたんだ!」とその体験の意味をようやく納得したのです。

(あまねちゃんの言っている、ピグマリオンの像の愛と恋の相互同時性ですね。ここに『愛』を識る手がかりがあるのかも知れません。あまねちゃんとのやり取りを考えている最中、ふと「これが愛か!」と酷く具体的に掴まえた気がした瞬間がありました。直ぐに消えてしまいましたが。)

『集中』すると、自分の実体感への感覚意識がなくなってしまう。やって来て向かい合った対象そのものに『なりきって』しまう。私的に言い換えれば、山の気(木霊)と私の気(こころ)の間に境がなくなってしまうのです。だからそこに体験され表れる世界は、自分のからだの中の出来事として認識されてしまうのです。

その入り口が私の場合「数息観」、坐禅を組んでひたすらにお腹で呼吸を数えることだったのです。結果「息そのもの」になってしまったようです。

ピグマリオンの話を分かるためには、意識的な理解や解釈を手掛かりにせず、ピグマリオンと木像そのものになってみる。私達のやっている演劇的な手法でもって。

あまねちゃんの虫っ子の話を、詳しく聞きたいです。日常的な時間空間の制約を離れる体験を掘り起こして見たいものです。先月受験の時の話を聞きましたね。お母さんがあまねちゃんの高校受験の時の様子(集中の激しさ)を見て、美大を進めたという話。ちゃんとあまねちゃんのことを見守っていた、良いお母さんですね。お母さんの方が、たくさんのあまねちゃんの不思議なエピソードを覚えているかも!大変だったことも含めて(笑)

「みつる」という名は、当時両親がそういう名前の人を知っていて、それを貰ったのかも知れません。あまり考える人ではないので。でも私はこの名前、大好きです。

◆◆◆ あまね 「石ころのストーリー、愛、ミミズ」020 ◆◆◆

へえ〜〜、そりゃうれしいな!

30年前の竹内さんと、仮面の話が化学反応(?)を起こすとは。

「(息に)なりきる=集中」ですか。
どれくらい沿う話か分からんですけども、じぶんにとって心地よいカタチをした石ころやら、木の枝やらをみつけたとき、この石ころのこれまでを私はまったく知らないのだけども、なにか特別なストーリー(経緯)を持っているに違いない。そのなかみを具体的に知ることはないのだけども、その特別なストーリーが在るってことを、私は、きみ(石ころくん)のカタチを見て知った。そう感じられて仕方がない・・・ふふ。
という遊びとも信心ともつかぬ感覚が濃くあったなーというのを思い出しました。
これって、ばんじの円覚寺と竹内さんの木の話の、「芽」みたいな体験なのか?と思って。
あとはあれか、ふとしたときの、誰かの目だったり、言葉だったりに、ふーっと相手の抱えてきた悲しさなんかを悟ることはありますよね。あれも、この話と通ずる気がする。

『愛』について。
そうか〜、きえちゃった「これが愛か!」ききたかったな〜。
愛を想像してみると「おれをお前に渡したってかまわない、お前がおれでもかまわない」とでも言うか、ガーッとお互いの殻がかち割れて、自他に頓着無く流てくような様子が思い浮かびます、わたしも。ばんじの、山とばんじの境が消えた話とふかく重なる。
愛と集中とピグマリオンは、からだで一直線にむすばってるのか(というか、いずれもからだから生えてるのか)。かなり話としては近いですよね。
からだの体験(演劇とか、経験とか)に、意識的な理解が太刀打ちできないのも、まさにそのためという気がします。ふむー

虫ッ子エピソードですか。笑
いろいろありますが、虫にもいろいろ旬があって(私にとっての)、初期(1〜2さい?)お世話になったのはミミズだったと聞いています。
プリンの容器を片手に団地内をひとり歩き回り、そこへミミズをたくさん入れて集めていたとか。家に帰ってくると、母へミミズ山盛りプリンカップを差し出す。これが「あげる」なのか「見て」なのかはナゾのまま。どちらかというと「あげる」っぽかったらしい。
カップをのぞくと生きてるミミズも、カリカリに干からびたミミズも一緒くたに入っている。集めている最中(母はときどき様子を見にいっていた)の私の様子を見ていても、生きてるから〇〇、死んでいるから〇〇、みたいなジャッジはとくに感じなかったらしく、すべてイーブンそうな扱いだったそうな。カリカリのミミズは指で転がして、よくくるくるしてたらしいです(この感触にはやや記憶あり)。
(心の中で悲鳴をあげつつ)母は「あーちゃん(私)がお家に帰ってこなかったらお母さんが探しに行くでしょ。きっとこのミミズのお父さんとお母さんたちもえーんえーんってしんぱいして探してるよ」と声をかけると、しばらくプリンカップを眺めたわたしは、無言のままカップを持って再び家をでた(たぶんミミズ解放)・・・らしいです。
日常的な時間空間の制約を離れる体験、ちょぼちょぼ思い当たるものがありますが、思いの外ミミズが長くなったのでまた次に書こうと思います。「あんた変わってたから、並のお母さんだったら相当「芽」を摘まれてただろうね」・・とじつは虫が苦手だった母は遠い目でよく述懐してます。笑

そうなのか〜!
よく似合ってるとおもいます。ばんじマッチョな名前似合わない。
余談ですがわたしの名前候補に「満(みちる)」もあったらしいんですよね(名付け母)。「みつる」と音がちかくておもしろいな。

(次回、5月号に続きます)

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【3】合宿の開催予定

合宿の開催日程を増やすつもりです。
正直なところ、コロナの影響で対面レッスンの機会が減って、経済的にとても厳しいところです。
合宿の開催を増やして、この難関を乗り越えなければと思っています。

・5月29、30日 関東近郊春合宿(Ⅱ)
・7月17日~19日 琵琶湖夏合宿
・10月9日~11日 関東秋の合宿
・2022年1月8日~10日 琵琶湖冬合宿

取り敢えず、こんな日程で開始し、合宿の機会を増やしていきます。
ご自身のコミュニティーにお誘いいただき、レッスンをさせて頂くのも有り難いです。
どちらへでも参りますので、どうぞよろしくお願いします。

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【4】 通常レッスンのご案内

● オンライン・レッスン『野口体操を楽しむ』のご案内はホームページ、
https://ningen-engeki.jimdo.com/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E6%95%99%E5%AE%A4/

● 新宿ワンディWS(通常リアルレッスン)の開催は、2/28(日)・3/7(日)・3/21(日)です。
https://ningen-engeki.jimdo.com/ で詳細をご覧ください。

● オンライン・プライベート・セッション開始
http://karadazerohonpo.blog11.fc2.com/blog-entry-370.html

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【5】 あとがき

先日娘が、自分の銀行口座を生まれて初めて作った時のことです。
事情があってのことですが、彼女は30歳を過ぎての初めの体験。
ATMの支払い機の前で、真剣なまなざしでディスプレイを覗き込み、貯金を降ろそうと画面にタッチをしている。その指先を見ていると、緊張のためにブルブルと震えている。
大変だなぁ!と思いながら見守っていると、本人は必死に気持ちを押さえて、額に汗を浮かべながら、操作を終えた。ヘトヘト、ヘロヘロになって、息を振るわせ、ため息をついている。それでも無事に用件を終えて一緒に帰途に着いた。
「こんなことで大丈夫だろうか?」と、言葉がついて出そうになったとき、ふと、そう云えば私にも、そんな頃があったなと思い出した。
私自身も世間知らずだったので、30過ぎまで、何か初めての体験に出会うたびに、緊張してドキドキして額から汗を滴らせていた。アルバイトの面談など、顔はニコニコしながらも、息をつめ、泣きそうなくらいに心の中の顔を顰めていた。
そう云えばこういうのは、最近は全くないな~。世慣れしたと言うことだろうけど、若い頃は周りの変化に年中、心を揺さぶられて、そのガタガタに一生懸命対応していたなあ~、と!
なんだ!ガタガタするの悪いことじゃあない。自分の中から、いのちが顔を晒している。ガタガタするのは世界が新鮮に見えている証拠か!
そして、娘のことを他人ごとみたいに見ていたのが、そこでひっくり返って自分ごとになってしまった。
私も若いころは感性が豊かで、良いにつけ悪いにつけイロイロなことに、心が跳ね回っていたなあ~と、当時を懐かしむ始末。心静かになんて、先ず縁が無いこと、いつもあれこれ考えを巡らしていた。
ところで最近は、心が緊張してドキドキするなんて在っただろうか?
!!それが在った!レッスンに臨むとき必ずドギマギする。どうしようか?どうしたら良いか?と心が落ち着かない。周りからはそのことはあまり見えないと思うが、心の中は混乱している。その混乱そのままにそのドギマギの中からレッスンが立ち上がって来る。このドキドキはレッスンをするときには必要なことだ。感性が動いている証拠!
ああ良かった。63歳の私の心は老いぼれてはいなかった~♪
一緒にドギマギしませんか(笑)

(せとじま ばん)

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【6】 note バックナンバー

当通信のバックナンバーをご覧になりたい方は、ばん/note
https://note.com/kara_koto_inochi/m/mdc4d18c059db
をご覧ください。

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● 私、瀬戸嶋 並びに 人間と演劇研究所『からだとことばといのちのレッスン教室』の 活動と情報は、ホームページで告知しています。
レッスンへ参加頂く際は、ホームページをご確認ください。
https://ningen-engeki.jimdo.com/

● 問合せ・申し込みは、メール karadazerohonpo@gmail.com 又は 電話 090-9019-7547 へご連絡ください。。

     人間と演劇研究所代表 瀬戸嶋 充 ばん     

『からこといのち通信 №10』4月号 2021/3/20 発行

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