『 からこといのち通信 №9 』3月号  2021/2/18 発行

『からこといのち通信 №9』3月号(人間と演劇研究所 瀬戸嶋 充 ばん)2021/2/18 発行

野口体操ZOOM教室に参加してくれているSさんが、「他の人の動きを見ていると、自分一人ではなにがなんだか(動きの)意味が分からないのだけど、瀬戸嶋さんが説明してくれると、からだの動きの意味がよく分かってきます。」と感想を言ってくれました。

実際の動きとしては下記のURLからYouTube動画を見て欲しいのですが、
https://youtu.be/frEEZTOyoLA(四つ這いの動き 1:18)
https://youtu.be/LotF8JkOg6M(ぶら下がりの動き 2:19)
どちらの動きも「なんじゃこりゃ!」ですよね。とくに初めてこの動きを見る人の中には、実は「気持ち悪かった!」「怖かった!」なんて、あとから言う人がいます。確かに駅前でこれをやったら、みんな逃げちゃいますね。

私はレッスン中に、誰かのこんな(動画の)動きをしているのを見ながら、その人に向かって「仙骨の骨の継ぎ目に隙間を空けてください♪」とか「細胞と細胞の間に隙間が出来るように細かく分けるつもりで動いてください♪」「尻尾(尾骨)を天井に向けてください~♪」などと得体の知れない言葉をかける。

モニター画面越しに人の動きを見ていると「尾骨の辺りが固まって動きが鈍いな!」とか「腰を固めている!」「肩を引き締めている」「からだの中身を引き締めてる!」などと、そのこわばりが観えてくる。それを緩めるために、こんな感じ(つもり)で動くと良いだろうと、私は提案するわけです。

すると、からだの動きが変化する。ZOOM越しで回りで見ている人にもその変化が良く分かるわけです。「からだの動きがとても滑らかになった!」「柔らかい感じになった。」「力が抜けた!」等々。やっている人にもみんなにも動きの意味が分かって来る。先ほどまでは緊張でからだを強張らせていたことも思い返されてきます。

野口体操の動き(動画)には規則性が見えないし機械的な繰り返しの動きもない。どんな角度でどう伸ばすなんてこともない。早瀬を行き渦巻く波のように、次から次へと姿が移りかわってしまう。動きそのものは、見る人にとって捉えどころがないのです。でもそんな動きにも原則・法則はちゃんとあるのです。さらにその説明を付け加えると、動きの意味がさらに良く分かって来る。「からだは水の入った風船です!」とか「からだは誰もがやわらかい!」「背骨は鎖です」、、とかです。

よく話の切り口という言葉を使いますが、この場合はからだへの観点=「見え口?」が変わると、「からだ」への新たな「見え口」(常識に縛られることのない眼差し)が開けてくるのです。

私は、「瀬戸嶋さんが説明してくれると、からだの動きの意味がよく分かってきます。」と言われて、実は内心とっても嬉しくってニンマリしてました。私の私淑した恩師、林竹二さん(哲学者・教育者)は授業をやった後、子供や青年たちに授業の感想文を書いてもらうのです。その感想文一つ一つの文面(文章)に描き込まれた意味を、林さんが読み解いてくれるのです。そのことで子供や青年の存在の奥底に仕舞われた、一人一人のいのちが語らんとする意味が浮かび上がってくるのです。

そんなことにSさんの言葉を重ねて、私は「からだ」を読み解くことが出来るようになってきたのだ!と嬉しくなった次第。

(瀬戸嶋 記)

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【1】「からだ」との出会いは、あるとき突然、恐ろしく優しく!
【2】 風周りの交換ノート⑤(泥沼の底からキラキラと)
【3】 伊豆川奈 春の合宿
【4】 通常レッスンのご案内
【5】 あとがき
【6】 note バックナンバー

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【1】「からだ」との出会いは、あるとき突然、恐ろしく優しく!

K海岸レッスンへの私からの返信
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イサトユ さま

こちらこそ昨日は、ありがとうございました。
遠い海の彼方のそのまた向こうに行ってご飯を食べてきたような(笑)

今朝になって気がついたのですが、昨日の貴女(あなた)の「ぶら下がり」(野口体操の動き)、私の目指すところの理想的なからだの在り方に出会っていたのだ!と、あとからふと気がついた次第。

本当のもの・ことに出会ったときって言葉を失ってしまうんですね。評価という相対的物差しで、良し悪しを語る言葉が通用しないので、ぼんやりしてると通り過ぎてしまう。あるいはその時は感動の動くのみで、「あのときは!」と後から意味は付いてくる。

言葉にすれば「無・空」(=からだ)ですね。感じで言えば「無いけど在る。無いと言うことが在る」。そんな意味の分からない言い回しになってしまう。透明な空気。フンワリと浮かぶ魂。周囲(ゴム膜)のない風船。目の前に居るけどいない。自我というなにやら仰々しいものが全くどこにもいない(=からだ)。以前に観音様みたいだと言いましたけど、何やら見えない正体(魂?)がむき出しになっているような。「歓喜」という言葉も浮かんできます。

同時に私の師匠、竹内敏晴のからだを思い出しました。彼の「からだ」も透明な外皮(皮膚)に包まれるようにして、透き通った世界がそこにある。対照的に、野口三千三さんの存在感は明るいけれど、からだの透明感が透き通っていたというような印象は薄い。(瀬戸嶋は竹内と野口の二人に付いて「からだ」について学びました)

竹内敏晴は「築地小劇場」の出身で、若いころには蜷川幸雄さんに並び称された演出家でした。それがメジャー演劇の世界から距離を置いて、教育界や魂の開放という方面へと、その立場を変えて行ってしまう。

演劇の世界の人たちからは、竹内敏晴が演劇から離れて教育の世界に行ってしまったと惜しまれれていたようですが、竹内にしてみれば演劇とは何かを本気で求めた結果として、演劇界から離れて行って、演劇=『魂の開放』の方向へとむかうことで、エンターテイメント(商業)化する演劇から距離を置いていって、教育の世界に踏み込んで行った。或いは業界から置いてきぼりを喰らった。魂の流離い。流離う魂。

昨日は貴女の経歴を聞いたので、それに重ねて竹内の来歴を思い出したようです。

ただ竹内の考案した「からだとことばのレッスン」は、彼の「透明なからだ」のことを抜きには考えられない。私は彼の「透明なからだ」の成り立ちを追いかけここまでやってきたとも言えます。そんな「透明なからだ」を貴女が見せてくれたのです。

「これこれ!この動きだよ!」と貴女のことなのに自分のことのように誰かに見せたくなる。オーシャさんにはとくに見てほしくなる(笑)

あいにくこれは私の手柄ではないのですね。手柄を立てたのは貴女だし、私はこんな「透明なからだ」が姿が表す『かもしれない』ところに向かって一緒に付き添っただけですから。結局レッスン(付添いを)できたことへ「有り難いな~♪」とか「感謝~♪」と思うほか、私には何も残らない(笑)

この「有り難いな~♪」に出会うと、私自身がお金払ってでも、レッスンをやらせてほしいってなっちゃう。「感謝~♪」に重ねてお金(レッスン費用)迄頂くというのが、心苦しかったりするのです。

だから私、貧乏なんですね(笑)

セトジマバン

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「透明なからだ」、からだは放っておくと曇ります。誰もが内側から明るさを放っているのに、いつの間にかそれが遮られてしまう。世渡りのためにいろいろと身に纏わなければならないからでしょう。

一つを身に纏う(まとう)とさらに次々と、自分にレッテルを張り付けたくなってくる。やがてレッテルに埋もれて自分の明るさ=光は、どこを探しても見えなくなる。さらにさらに世間体というレッテルを増やして、虚構の明るさを外皮に張り付け、仮の明るさで自己を飾り付けようとする。

生憎と私は、その人の本来持っている明るさにしか興味が無い。世間体は私の眼には入らないのです。自我の仰々しさを離れて、素朴で飾り気の無い「からだ」。明るく自他を照らしあうとき「透明なからだ」がやって来るのです。「からだとことばといのちのレッスン」の求めるところですね。

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【2】 風周りの交換ノート⑤(泥沼の底からキラキラと)

赤星周(あかほしあまね)さんとの交換ノートから引用して連載しています。

◆◆◆《 ばんじ 》015「息そのものになっていたんだ!!」◆◆◆

アマニちゃんとの交換noteで私が観ているのは、過去の体験なんです。考えたことではなく、言葉化しないままで、宙に浮いている私の中の様々な体験。アマニちゃんがノートを受け取ってくれることで、私の中にあった体験の羅列が、意味を持って立ち上がって来る。

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私が初めて坐禅会に参加した時のこと、私の課題は「数息観」。お腹(丹田)で自分の息を数える。「ひとぉーつー」(一つ)と内声を発しながら息を吐く。吐き切ってから緩めると息がお腹に戻って来る。こんどは「ふたぁーつー」(二つ)と数えながら、また息を吐く。これを繰り返し「とおー」(10)まで息を数える。

「とおー」まで終えたら、また「ひとぉーつー」から息を数える。それを延々と繰り返す。ワンクールがお線香が燃え尽きるまでの、40分から50分くらい。

これが思いがけず厳しいのです。胡坐をかいたままで数えるのですが、私など息を数え始めて「いつーつ」(五つ)にたどり着けない。ゆっくりと息をはき出していくと、足は痺れ、途中で頭(意識)が朦朧としてくる。

小休止を交えながらも3日間、寝ているとき以外のほとんどの時間、延々とお腹で自分の息を数え続けるのです。これを『数息観』と言い、坐禅初心者の課題でした。

3日目など、病気になったのではないかと思い詰めるほどに、坐禅をしていると意識が朦朧としてきて、意志のコントロールが利かなくなる。息を数えることがどんどん困難になっていきました。

そして結果から言うと、私は在る瞬間、息そのものとなって、息の側から周りの世界(お寺の山内)を見晴らしました。無心の側から眺めたのです。

「数息観」の課題にしがみつくようにして息を数え続けた結果、私の姿形は正体を失い、それと入れ替えに私は「息そのもの」になって、息の立場からお寺の境内を眺めていたのです。

あれからもう20年の月日が流れましたが、その時の体験の意味をこのように言葉にすることは出来ずに来ました。「不思議な体験」という言葉に修めるしかなかったものが、今こうして自分の言葉で、「私は息そのものになっていたんだ!」と自身に語れる喜び。アマニちゃんと言う聞き手を得てのこと!感謝です!!

逆から言えば「数息観」は、それを実践する人を、自我に映る自分を超えて、自身が息そのものに成り切る処へと導くための、課題だったのです。これが禅の公案ですね。

これらのことを、体験を済ませてはいたにも関わらず、その意味を知ることなくここまで来てしまったのでしたが、アマニちゃんとの対談によって、まさに有難い「気づき」が成立したのです。

「体験したままでは、それは経験にはならない」と、どなたかが言っていました。「様々な体験は言葉にすることで経験となり、自分の行動を先に進めて行くための、繰り返し新たな原点となる。」これは私の言葉です。お陰様で「からだとことばといのちのレッスン」は、あらたにあらたに変化を遂げ続けているようです。

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一歩を踏み出しちゃうと、後戻りせずに真っ向からグングン押し切っちゃう!アマニちゃんもそういうところありますよね。大いにやってください!と言いたくなりますが、なかなかそうは行かないものですね。仕方がないので、大空を往く風を相手に真っ向勝負!

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それから「からこといのち通信」に交換日記を掲載したいのですが如何ですか?読んでいるととっても面白いので、受け取る人には「からこといのち通信」のメイン記事になるかも(笑)

◆◆◆《 あまに 》016「こころに池にボチャンしてる?」◆◆◆

いやはや・・・真っ向勝負ありがとうございます。

ばんじって何考えていきてるんだろう!というところと、「信じる」ってなんなのさ!?というかねてからの興味とで、突進しちゃいました。笑
「何」っていうところは結局、まっくろくろすけ捕らえたと思いきや手が真っ黒、「?」というかんじで分かったような分からんようなですが、そんなに気にならない(最近のわたしの変化)。
むしろ、ばんじとじぶんがいて、たまたまぽこーんと何かが産まれた。そこに立ち会えた。ばんじもうれしそう。そちらの喜びの方が勝ります。
ついでに言えば、わたしがドドーッと流れ込んでもばんじは大丈夫そうだ!という安心感も得られた。ここはこの先を思うとおおきい収穫であります。

「体験したままでは、それは経験にはならない」かあ。
それと、「対談によって気づきが成立した」。
手紙を書いていてもおもうのですけど(あまには十数名と文通中)、聞き手がいてくれることによってじぶんのなかみが目を覚ましてモゾモゾしだして、そのうごめきが渦になり、竜巻のようなかたちとなって相手へ届かんとする・・・ような感覚があるんです(前回のわたしの突撃もそうといえばそう)。だから、ずっと宙に浮いたままだった感覚が、相手や時や場に支えられて言葉になった喜び、とてもよくわかります。

わたしの、ひとのこころのイメージとして沼っちゅーか池みたいなものをよく想像するんですが、ばんじとのやり取りは、お互いの水(ないし石ころ?)がぼっちゃーんと相手に入っていって、そのことによって相手のなかで沈殿していた泥が舞う。ふたりで、その舞う泥のうごきをみて驚喜してそれを表す・・・そんなイメージです。
またはちがう潮が出会い入り乱れて、「俺の動き方とちゃうやんけ〜!」とはしゃぐかんじ。おたがいの境界(動く輪郭)をみつけて「お、ここに(も)居たのか〜!」してる。

ともかく、単なる" 情報伝達 "としての言葉ではない言葉を聞き、語れるのがとてもハッピーです、ということをお伝えします。

◆◆◆《 ばんじ 》017「現実の向こうからの現実・池沼からの曼荼羅」◆◆◆

先日友人と、私自身が小学校時代にイジメを受けていた話をした。

ちょうど戦後の貧困を抜け出し生活が上向きだしたころ。学習塾が生まれ、担任の若い女先生は「向上心を持たないものは人間ではない!」と言わんばかり。ぼんやりノンビリで口数の少ない私に、彼女(担任)は教室で目くじらを立てていた。その眼は「馬鹿・愚者・白痴・愚鈍」を見下す眼差しでした。上昇志向を持たない私は、クラスのお荷物となって成績の底上げの邪魔になっていたのだろう。その影響を受けて、小学三、四年のクラスではクラス全員(含む担任)に馬鹿扱いされたり、優等生に蹴飛ばされたりとイジメを受けていました。

友人は私の話に「学校に行きたくないと、思わなかったの?」と聞いた。あまり考えたことなかったけれど、いま思い返せば「いつもクラスに好きな子がいた!」から! 小学校でも中学校でもイジメにあったけど、必ずクラスに好きな女の子がいた。学校に行かなきゃ会えないのだから学校に行った!!

(こういう話は以前なら恥ずかしくて内緒にしてたのだけど、齢を取ったせいか、人に話すと嬉しくなる。と同時に体験の断片が、秘密のままに、心の沼にどっさり飲み込まれていて、光か当たるのを待っているような。『千と千尋の神隠し』だね。)

いまはもう、どんなイジメがあったか思い出せないが、無口になってふさぎ込むほどのイジメを受けていたように思う。休み明けなどには、「学校なんてどこにも無い!」と念じて、学校の始まることを忘れてしまおうと心の中で努力をしていた覚えがある。

友人から「学校に行くのが嫌にならなかったか?」と聞かれ、「いつもクラスに好きな子がいたから!」と、少し誇らしい気持ちにもなった(笑)恋の妄想の世界に浸り込む。そんなことがあの頃は出来たのだ。

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前々回の日記でアマニちゃんが投げてくれた、『ピグマリオン』の話が気になっていたのだけど、その時は「息そのものになっていた!」の発見が私を急かしてたので後回しにしていた。

「彫刻に恋して、彫刻が本当の人間に変わる。」何やらこれに近いことを私はしてきたのかも知れない。『ピグマリオン』の物語りの中からはひどく広範に人間の心の在り様について意味を拾うことが出来ると思うけれど、私の沼(池)の中からは、上記のことが浮かび上がって来た。

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そういえばこんなこともあった。あれは小学校の三年生くらいのことかな。泥遊びで地面に直径10センチくらいの沼を作った。小さなクレーターの形に土を囲って真ん中に水を流して泥沼にした。そこに蟻んこを摘まんで入れる。底なし沼は地球の裏側まで繋がっている。蟻んこは地球の反対側まで落ちて(?)いくのだ。ことの真偽を疑うことなく、本気になって汲んできた水を継ぎ足しては、蟻んこを泥水に押し込んだ。

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それからこれは4年生くらいのことかな?箒を片手に電信柱にしがみ付いて、昼間の空に浮かぶ月を手で掴まえようとしていた。これもまた疑うことなく本気で。あのとき月に向かって指し伸ばしていた手(腕)の感触を、今でも覚えている。

いまレッスンの中で他者の「からだ」と関わるときの私の在り方は、そのときの感じと似ている。相手の物理的な身体に関わるのではなくて、相手の姿の向こうに浮かぶ月に手を伸ばすような。いわゆる私にとっての「集中」の在り方なのだと思う。いま思えば、イジメの中で何か現実を超えるところへと、自分は誘(いざな)われていたのかも知れない。

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交換日記を進めたかったのだけど、ここのところ不思議とその時間が取れなくて、心が早っていたのだけど、やっぱり書き始めるとボロボロ零れてくる。池の底、泥沼の中から、『千と千尋の神隠し』のシーンで、妖怪の「からだ」から川底に放棄された大量のゴミが出てくるシーンがあったよね。私、もちろん新品も好きだけど、汚れに塗(まみ)れたものを磨き立ててぴかぴかにするのが大好きなんです。いまはそのピカピカが、曼荼羅を描き始めているような気分。

私の名前の漢字「充」は水に子供が流れている象形なんだ。訓み(よみ)の「みつる」は「みず」が「ながる」だね。『千と千尋の神隠し』のハク(白竜)にも近しさを感じたり。見た目じゃないよ(笑)
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そういえば、周ちゃんって千尋に似てるかも(笑)

(次回、4月号に続きます)

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【3】春の伊豆合宿開催します

日程:2021年3月27日(土)10時30分集合・28日(日)17時解散(一泊二日)
会場:静岡県伊東市川奈 山下邸(伊豆急川奈駅徒歩10分)
定員:5名(小人数限定)
費用:30,000円(レッスン費・宿泊・会場・食費含む)

◆ 伊豆川奈春合宿に向けて
「 頭は動くけど、心が動かない! 」オンラインレッスンで、ある女性の感想です。心が動くとは、ドキドキしたり、苦しくなったり、喜んだり、夢中になったり、その他にも様々な喜怒哀楽が、海の波のように往ったり来たりと動いていることですね。これは意識(頭・思考)には属さない、むしろ感覚的・感情的にやって来る動きで、からだの内的変化(緊張と解放)と密接な関係を持っています。
ところが、長引くコロナの影響で、いつの間にかからだを緊張させてしまい、感覚・感情の動きに身体的緊張でもってブレーキを掛け続け、心の動きがブロックされてしまっていたようです。
レッスンを終えてからだの緊張がようやく緩んだとき、つまり自分が気づかぬうちに身を固めていたことに気がついたとき、「心が動かなくなっていて、頭ばかりが動いていた!」ことに気づいたのです。
からだの緊張をほどき身体感覚を取り戻し、物語りを読む感動でブロックを溶かして、生き生きと表現を楽しむ自分を解放してあげて下さい。
伊豆の春、暖かな空気にゆだねて、凍り付いたからだとこころ、こえとことばを溶かしほどき、新たな季節の訪れを楽しみましょう。

( 合宿の案内は人間と演劇研究所ブログ、http://karadazerohonpo.blog11.fc2.com/blog-entry-376.html をご覧ください。)

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【4】 通常レッスンのご案内

● オンライン・レッスン『野口体操を楽しむ』のご案内はホームページ、
https://ningen-engeki.jimdo.com/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E6%95%99%E5%AE%A4/

● 新宿ワンディWS(通常リアルレッスン)の開催は、2/28(日)・3/7(日)・3/21(日)です。
https://ningen-engeki.jimdo.com/ で詳細をご覧ください。

● オンライン・プライベート・セッション開始
http://karadazerohonpo.blog11.fc2.com/blog-entry-370.html

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【5】 あとがき

『 からこといのち通信 №9 』3月号 何とか今月も記事を収め、体裁を調え、あとは「あとがき」を書いて発送です。ところがここまできて、何か大切なことを書き忘れている気がしている。「こんなのでエエンかいな?」と思ってしまって動けなくなってしまうのです。

ここ四年くらいになりますが、私のレッスン以外の唯一の楽しみは、ギター弾き語りの練習です。歌うとリズムも音程も取れずに居た私が、50代後半の手習いに三線を手にしたのをきっかけに、歌いはじめました。それから歌うのが楽しくてたまらず、40年ぶりにギターを再開。毎日毎晩、家族の厳しい視線を浴びながらも(家狭い=笑)部屋の隅でコソコソと1時間前後、弾き語りです。ギター片手に昔のフォークソングを歌う。その練習姿をパソコン動画に修めて、寝る前に布団の上で振り返ります。

最初のうちは、自分の下手さ加減との出合いです。だんだん音程が取れていないというのがどういうことか分かって来る。テンポもグラグラ、リズムなんてどこ吹く風。悩みは尽きぬ弾き語り。そういえば40数年前Fのコードで躓いたんだ!それがいまは歌うことが楽しくてたまらない。歌えるようになりたくてたまらない。

高校生のときはカッコつけてモテたかったり、ボブディランに憧れたり。最近はモテたり憧れたりの年齢ではなくなってしまった。(笑)うたを歌うこと、そして日々僅かづつなんだけど、上手くなって、、、(ここが微妙)というより、歌の「かみしゃま」やギターさんと仲良くなっている!(こっちの方が正確)のが、パソコン動画で見ると判るのです。

そしてこの頃気がついたことは、自分で歌いながら「何だこれは?」とか「こんなのでエエンかいな?」と感じながら後から録画を見直すと、不思議とその方が良い。。。前より良くなっている。「かみしゃま」がだまって手助けしてくれているんですね。自分で歌いながら「いいね!」とか、思っているときは良くないみたいです。「かみしゃま」が歌ってくれるんです♪私にできるのは欲掻いて邪魔をしないこと。

(これはどこかで書きたいのですが「歌を歌えるようになるためにはどうしたら良いか?」その答えは「歌うこと」です。知識や世間の常識なんてどうでも良い。繰り返し歌い続けると、自然と歌えるようになってくる。今の自分に必要なことも向こうからやって来る。きっと歌の「かみしゃま」が喜んで応援してくれるんですね。)

言い訳が長くなりました。。。通信を出すのも、まあ楽しみながら「こんなのでエエンかいな?」を繰り返すしかなさそうです。継続こそチカラですね。そのうち皆さんにお見せ(お聞かせ?)できるものになったら、、、素敵♪です、、、ね。通信もPCの「かみしゃま」に後押しされて、日々育って行くことでしょう(笑)どうぞ暖かく大らかな眼差しでお付き合い下さいませ。

春は外に出て、出先の公園で、ウクレレの練習が出来るのが嬉しいです!そうそう、春の伊豆伊東合宿、ぜひいらして下さい!!!

皆さまも、好い春をお迎えください。

(せとじま ばん)

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【6】 note バックナンバー

当通信のバックナンバーをご覧になりたい方は、ばん/note
https://note.com/kara_koto_inochi/m/mdc4d18c059db
をご覧ください。

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● 私、瀬戸嶋 並びに 人間と演劇研究所『からだとことばといのちのレッスン教室』の 活動と情報は、ホームページで告知しています。
レッスンへ参加頂く際は、ホームページをご確認ください。
https://ningen-engeki.jimdo.com/

● 問合せ・申し込みは、メール karadazerohonpo@gmail.com 又は 電話 090-9019-7547 へご連絡ください。。

     人間と演劇研究所代表 瀬戸嶋 充 ばん     

『からこといのち通信 №9』3月号 2021/2/18 発行

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