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『からこといのち通信 №19』新年1月号(人間と演劇研究所 瀬戸嶋 充 ばん)2021/12/31 発行

年賀状 2022

『からこといのち通信 №19』新年1月号(人間と演劇研究所 瀬戸嶋 充 ばん)2021/12/31 発行

もう5、6年になるかな?「ゆるゆる体操」の名称で、自立支援施設の利用者対象に『野口体操』の講座を続けている。1時間半の講座を月に2回、精神に障がいを負った人たちが、自立した社会生活を送るための各種サポート講座、その一つだ。

昨日も午前中、7名ほどの受講生と「ゆるゆる体操」をして来た。からだを「感じる」能力を育てる課題。背中の緊張を緩め、息を深くしていく。1時間半ほど、からだを揺らしたり、リラックスポーズを取ったりしていると、固くこわばっていたからだがほどけ、心地よくすっきりする。皆、ゆったりとにこやかな「からだとこころ」になり、終了。「良いお年を、来年もよろしく」の挨拶で、私は帰途へ。

ビルの3階、急階段を降りながら、私自身の、透明でスッキリした気持ちの中に『ああ今日は、良いレッスンが出来たな』と言葉が浮かんでくる。

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私は、精神科のリハビリ患者さんとの付き合いが長い。あれは1980年代後半だと思うが、東京都立松沢病院、日本の精神科デイケアの草分けみたいなところで『野口体操』の講座を受け持っていた。10年ほど続いたように記憶している。

1980年代その当時、精神病者(統合失調症患者)が閉鎖病棟の鉄格子の中から、一般社会へと解放を進められていたころである。閉鎖環境と社会の偏見が、病態の悪化を作り出していることへの反省と理解が進む。適当な投薬と医療サポートがあれば、支障なく一般社会での生活が可能で、問題行動も起きない。治療への新しい認識が広がり、様々な社会事業が始まったころである。その一つとしてデイケア―のサービスの内容が、新たに模索され始めていた。

「全家連」という「家族会」で活動していた友人が、日本で初めて、精神障がい者と一緒にフランス、パリの大会へと参加した。障がい者の人権回復が世界的に語られたころだ。精神障がい者の海外渡航はそれまでに無かったのだろう。家庭内の座敷牢こそなくなったのだろうが、それを代替する形で精神病院の鉄格子への隔離が、時代が変わってもなお続いていたのだ。人権回復のアピールとして、障がい者の海外渡航に友人が付き添った。

80年代といえば、バブル景気で世間が華々しく賑わっていたころだ。戦後40年を超えて、一見、負の遺産は解消したように見えていた時代。ところが実際には、世間の眼差しからは隠された場所で、社会からの隔離という座敷牢が存続していたのである。今更ながらではあるが、あらためて驚かされる。

近所の精神科病院でも、リハビリの一環として野口体操の講座を頼まれた。そこにも鉄格子(閉鎖病棟)からの解放が始まっていた。患者仲間と新宿に外出してきた男性が、「女性の髪の毛が、みんな茶色になっていてびっくりした!日本ではないみたいだった。」と話してくれた。彼は20代で入院し、以来15年病棟から一歩も外出したことが無かったのである。運動場も体育館もなく、生活の場といえば6名相部屋のベッドがあるのみ。談話室はあるが、安全管理とし称してプライベート空間はない。公園の散歩も商店街の買い物も許されない。私ならば、それだけで病気になってしまいそうな生活環境である。

・・・・思いが溢れるままに脱線してしまった。その他、川崎市精神医療リハビリセンターでは、演劇の講座を、やはり10年ほど担当させてもらった。デイケアメンバーと施設のスタッフと、お医者さんまで巻き込んで、体育館で演劇公演『11匹のねこ』をやって、みんなで感動に満たされた体験もある。いろいろな場に行ってレッスンをしたが、どこに行っても精神科デイケアメンバーに、その感性の繊細さに感動させられ、それが私のレッスンに向かう原動力となっていた!・・・・思い返せば、閉鎖病棟の奥にも入っていった。身体拘束の実際も見てきた。・・・その辺りはまた改めて、後日文章にしてみよう。

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さて話を戻す。昨日立川で『ゆるゆる体操』を終えて「ああ今日は、良いレッスンが出来たな」の言葉が、今朝になっても私の中で静かに明るい表情をして、微笑み囁くように声を立てている。

これまで「良いレッスンが出来た」には、実はどこの教室でレッスンをやっても出会えなかったのだ。もちろん「今日は良かったな」と思うことは何度もあった。上気した気分で「良かった!」と思うこともあったのだが、「良い」と思うと同時に、小さな形ではあるが、いつも解放しきれない気分がくっ付いていた。「やり切れなさ」とか「自信の無さ」。「やったー!」いう気分と一緒に「これで良かったのだろうか?」という反省の気持ちがいつも付き纏っていた。

昨日はレッスンを終えて、それが無かったのである。いつもの迷いや反省気分の窮屈さみたいなものが、自分の中に全く無かった。透明で静かに晴れた湖で、水面をゆりかごにしてその言葉「ああ、良いレッスンが出来たな」が、今日になっても小さな光りを帯びて浮かんでいる。

無事にお正月を迎えることが出来そうだ。みなさま、旧年中はありがとうございました。よいお年をお迎えください。新年にお目にかかるのを楽しみにしています。

瀬戸嶋 充 ばん

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【1】 レッスン生活40周年記念(その3)
【2】 あまねとばんの交換日記(呼吸の話⑤)
【3】 レッスンのご案内
【4】 あとがき
【5】 バックナンバー( ばん|note ) 

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【1】 瀬戸嶋レッスン40周年記念(その3)

『やりたいことをやってみる』レッスンについては、12月号に書いた。40年前の初めての教室参加の時のこと。続けてさらに思い起こしてたら、竹内演劇研究所のからだとことばの教室、当時の「からだとことばのレッスン」の課題、『話しかけのレッスン』が浮かんできた。話しかける人とそれを聞く人の間で、言葉による心身の交流が成り立っているかどうかを問うていく課題。以下つじつま無くざっくばらんなままに書き下ろす。

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『話しかけのレッスン』は、相手の言葉を聞いたときに「自分に話しかけられた!」と「自分には話しかけられなかった。」と、二つの答えしかない。それが私の対人コミュニケーションレッスンの土台となっている。

誰でも良い。目の前の一人に、私が話しかけてみる。その相手は私の声も聞こえるし言葉の内容(話の意味)も良くわかるようだ。そこで相手に「いま私があなたに話しかけた時、あなたは『自分に話しかけられた感じ』が在りましたか?」と尋ねてみる。

相手はいま、みんなの前で私と話をしているのだから、私の質問への答えに詰まってしまい、困った顔をする。話しかけられた感じがなければ、こうして話はしていないだろう。私(瀬戸嶋)の問いかけに怪訝な顔を見せる。

もう一度、私があなたに話しかけるので、こんどは「『自分に話しかけられた』と思ったら、その瞬間に挙手してください。(頷いたり言葉の内容に反応するのではなく)」、「『話しかけられた』感じがしなければ手を上げないで結構です。」そして私は、もう一度その人に向かって短く話しかけてみる。

直ぐには手が上がってこない。どうしたのか尋ねてみる。よくある答えだが「どういうのが『話しかけられた』ということなのか判らない。それが分かっていれば、どういう時に挙手すれば良いのかが分かって手を挙げられると思う。」つまり『話しかけられた』感じがしないから挙手しないのではなくて、意味が良く分からない、だから挙手できない。

これは非常に真っ当な意見だろう。普通ならば『話しかけ』の意味や方法の説明を講師から聞いて学習し、「さあやってみよう」「ほら手が挙がった!」となるのだろうが、そうは行かない。ルールに則ったゲームのようには行かない。

相手から「自分に話しかけられた!」とか「話しかけられた感じがしました!」という返答が帰ってくるのは、何らかの技術や方法、その習得、理解に拠るものものではないのだ。答えを出す(話しかけの成立の)ためのノウハウは成立しない。

(主旨が分からないから自分は出来ないとよく言う。でも物事は、私のちっぽけな理解を離れたところからいきなり生起し、私たちの理性を打ち壊し乗り越えていく。こっちの方がリアルであり、普通である)

この場合、相手にとって、私(瀬戸嶋)自身は『話しかけることが出来ていない』のだ。そうでなければ相手の手が挙がっていたはずだ。教師自身が自分が出来ていないことを晒すことは、たいへん非常識なことかもしれないが、先生は生徒より良くできるモノという常識も壊れてしまう。生徒も居心地が悪いことだろう。否、痛快かもしれない(笑)

誰かに頼んで、私に代わって相手の人に話しかけてもらう。例えば「ご飯食べに行こう」「ちょっとこっちへ来て下さい」などなど。やっぱり相手の手は挙がらない。

全く自分の予定外の、ギャラリーの一人が手を挙げたりする。「あなたは手を挙げてくれたあっち(ギャラリー)の人に、話しかけましたか?」と尋ねると、納得のいかない顔で「いいえ、自分は目の前のこの人に話しかけたつもりだけど?」と応える。自信無げである。回りの人はその戸惑う姿を見て笑っている。

笑っている人に「あなたは話しかけられた感じがしましたか?」と私が聞いてみる。「声が相手の人を通り越して、あっちの方に飛んで行ってしまった。」「声がカーブして床に落ちた。」ギャラリーから様々な感想が出てくる。

『話しかけ』をした人は、何とも決まりの悪い表情で、その場のみんなが体験した、自分の声の軌跡を辿っている。自分が話しかけた時には意識していなかったけれど、みんなに言われてみると、相手に『話しかけた』その瞬間に、自分は別の人に注意を逸らしていた。そんなことに気づく場合がある。そこが『話しかけ』の成立に必要な、自己否定(ホントは自分の事実の肯定でもある)への入り口となる。

『話しかけ』が『出来ていない』ことを、その場の全員で共有する。何度か繰り返すうちに、話しかける当人も、それを見守るギャラリーも『話しかけ』の出来ていないことが、ハッキリと分かってくる。声(言葉)が目指す相手に届いていないと。

ある人は相手に話しかけようとする瞬間に、腰が引ける。相手に言葉を届けようとする気持ちはとても強いようだが、腰が引けることで声(言葉)が前に出て行かず、相手に届かない。なかには無意識に後ろ手を組んでしまう人もいる。話すとは「言葉を手放す(手・はなす=話す)」と訓(よ)める。後ろ手を組んでいては「放す=はなす=話す」ことは出来ない。

そして『話しかけられていない』その事実に当人もギャラリーも納得した時。努力したにも関わらず、話しかけが成り立たなくて途方に暮れたとき。これがなんとも不思議なのだが、皆がお手上げとなったときに、突然『話しかけ』が、当人とその相手の間にやってくる。

『ことば』が相手の『からだ』に向かって飛び込んでいく。その瞬間に聞いている相手の手がヒョイと挙がる。空気がにっこりと明るくなる。話しかけていた人も、自分の言葉が相手に届いたことを感じることが出来た!もちろんギャラリーにも。『話しかけ』が成り立ったのが分かる!

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私は、この『話しかけのレッスン』を長らく封印していた。竹内敏晴レッスンのど真ん中、根本となるレッスンにも拘わらずだ。

その理由は簡単だ。このレッスンをやると、シンドイからである。レッスンしていて自分が苦しくて、楽しくない。それでもシンドイ思いをしてやってみて、やった甲斐があったなと思えるときもあった。けれども、結果が出る(『話しかけ』が成立する)までのレッスンの過程が、酷く私を不安にさせる。

そのうえ、自分がお手本となって、自在に『話しかけ』が出来るならばまだしも、自分が出来ない課題を参加者に強いるのでは、恰好がつかない。そん思いも強かった。

その原因が40年後の今になってヨウヤクわかる。自分が『出来ていない』、或いは『解っていない』という事実を認めることが、私には出来なかったのである。私自身が「手放し」に成れなかった。私には自分がレッスンを出来なければならないという、思い込み(謂れのない責任感)にしがみ付いていた。

人前に立ってレッスン(授業・講座)をやるためには「あれが出来る!」「これが分かっている!」「こんなことも知っている!」などなど他人に誇れる「もの」(技能知識)が必要だと、私はずっと意識の奥で思っていたのだろう。その場(人前)で自己肯定感を維持するために、いわば優越感を保つために、私は「自信」を必要としていたのだろう。「自信を持つ」ことにしがみ付いていたのだ。

子供より「良くできる」「良く知っている」ので、先生は子供に教えることが出来る。未熟なものに対して導く人、教師にしても宗教家にしても「師」と名がつく人たち。知識技能のある人が知識技能を持ってない無知・未熟な人を導く。有識者と無知蒙昧の庶民の区別。余りに常識的なことかもしれないけれど、そこには常に上下関係がついて回る。上に立つためには自分の知識能力への承認や「自信」が必要だ。

『話しかけのレッスン』をやろうとすると、私が『話しかけ』を成り立たせたい、参加者に体験させてやりたいという思いと、それに対し、『話しかけ』を成り立たせられない無能さが際立ち、自分の中に激しい葛藤が起こってくる。何とかしようという気持ちと、何ともならないという現実がぶつかり合って、無力感が私自身を激しく捉える。逃げ出したい思いに囚われるが、私が主催者として参加者を募ってのレッスンなのだ。逃げ出すわけに行かない。

「何とかできる、何とかなる」という私の『自信』が吹っ飛んでしまい、みんなの前に無能の自分を更けるしか出来そうもない。その恐ろしさへと自身が追い込まれる。心底もうダメだと思えた瞬間に、それでも、その場で起きていることから眼を逸らさずに立ち尽くしいると、それはやってくる。予測なしに『話しかけ』の成立がその場に姿を現す。

『話しかけ』が『出来ていない』或いは『出来ない』事実。恐れを乗り越えて、その『出来ない』を誤魔化しや修正なしにそのまま受け入れたとき、『出来ていない』自分を心底から認めたときに、つまり否定したくなるような『出来ていない』という事実を、自分が根底から肯定したときに、『出来る』ということがやってくるのだ。

(これを「諦める」=「あきらめる」=「明らか」(あきらか)に「観る」(める=みる)という)

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ああ!これも竹内研究所以来続けてきた、私自身のやり方だったのだ!

レッスンの場に(或いは舞台上に)この我が身を放り込んでみる。どう足掻いても、課題の答えが出せない自分が始まる。例えば「岩」に成ろうと(演技)する自分。「こうやっても結果が出せない」「ああやってもだめ!」と、右往左往する。力を込めて汗水たらしても、結果が出ない。

二進も三進も行かないところへと、自分の頑張りによって自分が追い込まれる。自分に正直であるほどに自我の壁に囲い込まれ、自意識が本来の役割りを全くこなせなくなる。その刹那に初めて私のいのちが劈かれ(開かれ)、課題は自ず(おのず)から、つまり自意識を超えて自分の内側(=からだ)からの「いのち」の「あらわれ」によって、クリアーされる。

「叩けよさらば開かれん」だ!課題の『自分がやりたいことをやる』ことが、私の上っ面を引きはがして、自分の奥底から浮かび上がってくる。「表現されたもの」と「表現しようとする自分」の区別が消え去り、「表現」と「自分」がひとつになって生き始める。

私は『岩』になることを必死でやった(演じた)つもりだったのだが、実のところ、私は人(観客の)前で『いのちの自由』を体験していた。何者にも囚われることのない自由を表現していた。それが『自分がやりたいこと』だったのだ!

そのうえ私は、観客が舞台に向ける眼差し、そこに植え込まれた常識的な思い込みを、私の表現によって次から次へと崩壊させる。観客は自我のこわばりを支離滅裂に崩されて、笑い転げるしかなくなるのだ。

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私が学生時代以来、私淑し続けている林竹二さんは、ソクラテス=プラトン哲学の研究実践者である。ソクラテスといえば『無知の知』という言葉が浮かんでくる。

高校時代、手にした歴史の副読本の中にこの言葉が在った。つまらない授業を持て余して、教科書に印刷されたソクラテスの胸像挿絵に、髭と鬘(かつら)を書き込んだ。その小さな写真の下に注釈として書かれていた『無知の知』のことば。

始めに授業中の落書き写真と出会い、林竹二さんに導かれ(未知惹かれ)て竹内レッスンに出会い、私は『無知の知』を知識としてではなく、実体験として経験することになったのだ。

私の自覚としては、私自身を単なる無知の輩として、40年もの日々を走り抜けて来た。ところが今思えば、40年前の竹内演劇研究所での体験には、既に十分すぎるほどの知恵が隠されていたのだろう。年を経て今になって、ようやくその深く隠された本当の意味が、私の意識の中に浮かび上がってきた。楽しい!

瀬戸嶋 充 ばん

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【2】あまねとばんの交換日記

あまねさんは、美大出身で油絵専攻、インタビューをライフワークとして、現在は子育てに奮闘中。
( あまねさんの最近の記事「あそどっぐ インタビュー」 https://note.com/kobagazin/m/m52dc197ffbaf

交換日記、『呼吸』⑤ 思いがけず呼吸の話で盛り上がって5回目の連載です(笑)
今月は、あまねさんからの返信。(2021/11/18)

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ばんさん

ふうふう。はあはあ。と書きました。笑

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たしかに、呼吸をテーマにすると、言葉の行く余地があるっていうか、背景にある穴ぼこ(空間)がでっかいなーってかんじがしますね。

わたしも読み返してみました「呼吸」のやり取り。
じぶんにとってホットな体験を、ノーブレーキで書き留めた。
それを受け取って(かつ打ち返してくれる)くれるのがばんさんって、僥倖です。
ばんさんが居たから書けたようなところもあります(今回に限らずいつもそうだけど)。
相手があるから湧いてくる言葉・・・手紙のもつ魔力に、小学生のときからウットリして生きてます。

先日のオンラインレッスンでも不思議でしょうがなかったんですが、ばんさんはなんで「呼吸」さんが来るのがわかるんですかね?
正座になって、骨盤の傾きから背骨のかしぎ方、アゴをひく塩梅をばんさんの言うようにしてみたら、ありゃ〜呼吸がしやすいじゃないの!ってことがありましたよね。
あれから、じぶんでいい塩梅を探すようになったけど・・・ばんさんほど自分のからだを分かっていない(文章でかいててもふしぎなもんです)笑
ばんさんは何を見て、何を手がかりに、(ZOOMの)画面越しで分かるのよ!?って。
いっしょにいたアサイさんの正座をばんさんがととのえてるのをみてても、最終的に「あら〜うつくしい!」ってことだけ分かるけど、ばんさんの見てるプロセスとか景色はまったくわからない笑
これは交換日記できいてみよう!と思ってました。
とはいえ・・・「なんだか知れないけれど「また呼吸さんが来てくれたな⁉」と分かってしまう。」ってばんさんは言ってるから、何をどう見てるの!?って聞いても仕方がないのかもしれませんが・・・。

ばんさんの言う賢治さんの物語の呼吸感。かんがえたことなかったな。
でも言われてみればそんな気もします。
ふつうの小説だとある空間が、ぽんと箱みたいにあって、そこへ個別に人間が存在している・・・というかんじだけど、たしかにジョバンニと宇宙は別ものという気がしませんね。
ばんさんの「だれもがみんな空気の海に一緒に浸されているようなもの」、それそのもののように思えます。
ジョバンニが宇宙をミクロに表してるのか、宇宙がマクロにジョバンニを表してるのか?とか、いずれでもなく、微妙にそこが行ったりきたりして、ジョバンニは宇宙にすこし溶けてるし、宇宙もジョバンニにすこし溶けてる。
あるいは巴状に抱え込み合ってるともいえそうだけど・・・そんなに複雑なモンじゃないのに、活字にするとずいぶんめんどうしい、デジタルな書き方になっちゃうなあ。
バタフライエフェクトというか、風が吹けば桶屋が儲かるというか、そっちの・・・熊楠がかいた南方曼荼羅のような、こちらがぽよよんと動けがあちらもぷるるん、と見えない網が立体的に交差してるというか・・・。

小学生のとき、プールで、鼻水たれてる同級生とおなじ水につかるのがど〜うしてもいやで、いやすぎて「鼻水に隣り合う水に、私は隣り合っている・・・ああ、きっと鼻水と私はふれあっている・・・なんでみんな平気な顔で入れるんだ!?」と悶絶していたのを思い出します。
それが高じて、私の吐いた息がただよう。ただよった息がだれとも知れない人の息になっていく。
その逆も然り・・・と考えて息をするのが億劫になった時期もありました。

そんな私でしたが30歳になってみると、むしろ、このかつて恐れた状況を望んでいる(笑)
大人になるにつれ「社会における個人」として、お互いのあいだにうずだかい壁があらわれて、苦しくてヒィヒィいいながら生きてる。
もはや「個人」やら「意識」というのを幻だと思った方が、ひょっとするとわたしはハッピーに生きられるのでは?
と思ったんですが(今までハッピーだったのはそういう瞬間だったし)、そもそも、なぜ「個人」という幻で息を詰めることを、人は選んじゃったんですかね。なぜだ・・・というのが最近のわたしの悩みというか、テーマです。

あまね

(次号、ばんの返信につづく)

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【3】 レッスンのご案内

● 琵琶湖和邇浜合宿
2022年1月8日~10日 (12/28現在、キャンセル待ち受付)
以下、ホームページでご案内しています。
https://ningen-engeki.jimdo.com/2022%E5%B9%B4%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B9%96-%E5%86%AC%E3%81%AEws%E5%90%88%E5%AE%BF-1-8-1-10/
Art&Learningさん からも、合宿等レッスンの様子をご覧になれます。
https://www.facebook.com/ArtLearning-Project-1528106173892941/

● 神戸ゆらゆらワークの会主催WS
『「からだ」から始まるコミュニケーション入門』
2022年2月19日(土)~20日(日)、神戸市東灘区会場にて。
詳細は人間と演劇研究所HP https://ningen-engeki.jimdo.com/2022%E5%B9%B4%E7%A5%9E%E6%88%B8%E3%82%86%E3%82%89%E3%82%86%E3%82%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%81%AE%E4%BC%9A-2-19-2-20/ をご覧ください。

● 春の伊豆川奈合宿開催 
2022年3月19日(土)~21日(月)
詳細のご案内は、新年1月を予定しています。人間と演劇研究所HP https://ningen-engeki.jimdo.com/ をご覧ください。なお、Facebookページ https://www.facebook.com/SensibilityMovement に「いいね!」して頂ければ、詳細が上がりしだいFB通知でご案内します。

● 「出会いのレッスン☆ラジオ」https://www.youtube.com/playlist?list=PLnDMDlLE0m1LaDrvijAQA8RwzaiNAAdpZ
番組表は、https://ningen-engeki.jimdo.com/

● オンライン・レッスン『野口体操を楽しむ』のご案内は、
https://ningen-engeki.jimdo.com/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E6%95%99%E5%AE%A4/

● オンライン・プライベート・セッション開始
http://karadazerohonpo.blog11.fc2.com/blog-entry-370.html

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【4】 あとがき

通信を書いているうちに、今年はとっても良い年だったように思えてきました。そして来年も良い年になるだろうと思えてきます。
レッスンは、一人一人の意識の底、それは「からだ」の深層でもあるわけですが、そこに潜む『幸せ』を見い出すことを目指しているようです。
毎月の配信を受け取っていただき、ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

瀬戸嶋 充 ばん

(年賀状を添付しました。ご笑覧下されば幸いです)

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【5】 note バックナンバー

当通信のバックナンバーをご覧になりたい方は、ばん/note
https://note.com/kara_koto_inochi/m/mdc4d18c059db
をご覧ください。

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● 私、瀬戸嶋 並びに 人間と演劇研究所『からだとことばといのちのレッスン教室』の 活動と情報は、ホームページで告知しています。
レッスンへ参加頂く際は、ホームページをご確認ください。
https://ningen-engeki.jimdo.com/

● 問合せ・申し込みは、メール karadazerohonpo@gmail.com 又は 電話 090-9019-7547 へご連絡ください。

     人間と演劇研究所代表 瀬戸嶋 充 ばん     

『からこといのち通信 №19』新年1月号 2021/12/31 発行

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