いきますく

「 こんど30名の子どもの集まりで紙芝居をすることになったのですが、マスクをしたままで大丈夫ですか? 」レッスンの参加者からの発言です。

コロナの影響で、最近は5、6名での少人数で子ども相手に紙芝居をやってきたそうで、久しぶりに大人数を集めての催しだそうです。マスクに声を遮られて、子供たちに言葉を届けられるかが心配のようです。

「それではやってみましょう!」他のメンバーも含めて、マスクで朗読をしました。

先ずは言い出しっぺの質問者に、マスクをして「ことばあそび」のテクストを読んでもらいます。からだ全体に声が良く響き、マスクで遮られたり籠った感じはしません。むしろその人らしい優しく明るい声が、テキストの一語一語の色合いとリズムを連ねて、その場に響きます。

マスクの影響はまったく感じられない。むしろ声の柔らかさの中にことばの輪郭がしっかり浮かんで来て、心地がよいし、語られる内容やイメージがよく伝わって来る。まわりの人もおおよそ同意見で問題を感じることがありません。

「 それでも一応マスクを外して、本を読んでもらいましょう。」読み始めたとたんに他の人たちの表情が変わりました。「?顔」です。マスク有りと同じ文章を読んでいるのですが、語り出されてきた発声や声の質感が全く変わってしまったのです。こんなに違うものなのか?とみんな驚いています。語った本人までもが。

マスクを外すと、声が吊り上がったような感じになり、良く声が響きだして来るのだけれど、宙づりになって空間に浮かんだ綺麗な、それでいて人工的な響きが聞く人の耳に押し寄せてくる。クリアーな響きの強さの上に、かっちりと鑿(のみ)で言葉を刻み込んだようです。

聞く側にとって、活字(文書)として意味を受け取り、それを脳=意識で理解するには適した朗読です。けれども意識で理解しようという構えをもって臨まないと、内容を受け取ることができない。

ところが先の『マスクありの朗読』のとき、聞く人にはよく聞いてやろう、ちゃんと聞かなければという努力は全く用が無い。言葉が私の中に染み入って来て、テクストの内容やイメージを浮かび上がらせてくれる。声・言葉は浮わつくことなく、地に足を着けたからだの中心から、響きだして来るのです。

他の参加メンバーにも、マスクの在り無しの両方で、同じ文章を交代で読んでもらいました。やはりはっきりと違いが出ました。一人の男性など、マスクをしていると、大変落ち着いた温もりのある声と言葉が現れてくるのですが、マスクを取ったとたんに、みんなに声でアピールしようと張り切り、耳を塞ぎたくなるような大声を、スタジオの空間に響かせようとし始める。

その張り切りようにみんなで大笑い!再びマスクをすると、この人はこんなに優しい人だったのか!と関心してしまうほどの、心地の良い語りが表現されてきます。本人が意識的に語り方を変えているわけではありません。マスクの在り無しだけで自然に変わってしまうのです。

簡単(大雑把?)にいうと、マスクを外して顔が相手に向くと、口角を瞬時に持ち上げたりやさしい表情を作ったり、ニコニコ顔をしたくなったり。いわゆる顔の体裁を取り繕おうとしてしまいます。

それが話者と聞き手との間の障壁になるのです。語ると言うことは、腹の底から溢れてくる言葉のリズムやイメージを、他人に露わ(あらわ)にすること。表(あらわ)すです。

マスクを取って人前に自分の素顔を晒したとたんに、私はこういう風に考えて表現に臨んでいます、という簡単に言えば自分のやり方が顔の表情の緊張として、無自覚に顔を出してしまいます。そして自らの深みから他者にに至ろうとしている言葉(そのリズムやイメージ)の表現に蓋をして閉じ込めてしまう。

マスクに顔が隠れることで、顔の表情筋は緊張(取り繕い)から解放されます。女性の参加者から、マスクをするようになってスッピンでいれるし、口紅も塗れなくなると、半ば嬉しそうな発言がありました。(半ばこんなことで良いのだろうか?という気持ちもあるのでしょうがとっても楽なのでしょう。電車の中で口を開けたまま眠れるのが最高!とも)

マスクを極端に嫌がる人がいるけど、あれは自分の中身(本心)の表出への抑えが効かなくなる不安からではないのか?という話しやら、マスク芝居を作ろうかなどと言う意見まで。楽しい楽しいマスク論議になりました。

面白いですね。マスクは隠すもの、遮るもの、塞ぐものという理解が、発声という角度から見て行くと、真逆の言葉の表現を開放するものとなってしまう。

実はこのレッスンの成り立ちの前段階として、股関節や足の感覚を呼び起こし、下半身の緊張を緩めていくワークを丁寧に時間をかけてやりました。その結果かなり息の深い状態がからだに準備されていました。地を足につけて息を深く足腰におろす。その準備の上に発声のレッスンが乗っかっています。

結果として、朗読のマスク実践とマスク談議が成立しています。おそらくこの息の深さを確保する過程無しに、マスク朗読をしていては息苦しいだけで、投げ出したくなるようなものにしか成らなかったでしょう。

これは逆から言えば、息が浅いためにマスクの苦しさが浮かんできている。マスクを常用すると、今まで構いもせずに浅いままにほったらかしていた「呼吸」(いき)を意識せざるをえない。苦しければ自然と楽にしようと意識する。楽とは深く息が出来たときにやってきます。

そういう意味合いも含めて、マスクの意味のあるなしを考えて行きたいと私は思っています。

私たち人間は、マスクに意味があるか無いか。効くか効かぬか。からだに良いか悪いかなどという議論が好きです。そして何が正しいかを決めて、それ以外を意味なし価値無しと決めつけて排除したがる傾向を持ちます。

絶対を立てる。その危険性に気付いてほしい。そして私たちの眼のまえにやって来るもの(マスクやコロナも)が、人間にどんなメッセージを届けようとしているのか、もっともっと深みにおいて捉えることをして欲しいものです。

「すべてのことはメッセージ~♪」と魔女の宅急便では歌っています。すべてのことがメッセージなのです。メッセージでないものは一つもない。「こんなことは意味の無いことだ」とよく口にしてしまいますが、そんなことはそれこそ『絶対』にないのです。そのチャンプルーを飲み込み昇華(消化)し、メッセージの意味を浮かび上がらせてくれるのは意識(脳・理性)ではなくて、身体(からだ・いのち)なのですが。


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