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『からこといのち通信 №21』3月号(人間と演劇研究所 瀬戸嶋 充 ばん)2022/2/28 発行

『からこといのち通信 №21』3月号(人間と演劇研究所 瀬戸嶋 充 ばん)2022/2/28 発行

「ちからを抜く」とは、「ダラッ」とすること。これが一般的な理解のようだ。
日々の生活や仕事では、よほど緊張を強いられているのだろう。家に帰って、その緊張を取っ払って「ダラダラ」する。ふつうには、これが力を抜く、力が抜けるということなのだろう。

本日はもう、キリキリと神経を使って努力しなくても良い、ダラダラして良いのだという時の、何もしないで良い、チカラを使わなくても良い。そのリクライニング(もたれる、横たわる、後ろに倒す)の時が「チカラを抜いた状態」なのだろう。どうやら「力を抜く」ことが、非行動的な状態を表す言葉になってしまっている。そういえば「グッタリ」=チカラが入らないとも言う。

ところがレッスンで「ちからが抜けた」とき、「からだ」の印象(実感)は、スッキリした、軽くなった、伸び伸びした、表情が明るくなった感じ。景色がくっきりとして立体的に見える。立ち居振る舞いが楽だ。踊りだしたり動きたくなる。からだが大きく広がった感じ、からだの実感がなくなった。ZERO、無、空、等々と、感じられる。

非行動的になる要因、つまり身体感覚の深層に隠されて意識に浮かぶことのない心身の緊張(チカラ=強張り)を、取り払って行くのが「ちからを抜く」ことだ。身構え=意識の鎧を外した、清々しく風通しの良い「からだ」が姿を現す。「からだは空っぽだ!」なので、内心からの表現を妨げるものも、縛るものもなくなる。

同じ「力を抜く」という言葉に、片や「ダラダラ」を思い、片や「スッキリ」の体験を重ねてしまう。「ちからを抜く」ことの意味を一般に語ろうとする時、そもそものところで齟齬が起こる。

ここでは「スッキリ」の方の、「ちからを抜く」ことについて語りたいのだが、就寝前の「ダラダラ」やつまらない授業中の「ダラダラ」、眼ざめの「ダラダラ」も魅力的だ。私など一生このまま「ダラダラ」して居たい!などと思うことも度々ある。その時の感じ、全身が生暖かい泥沼になったような感じ、グッタリと身体の重量に任せて神経のスイッチを切って、脳の指令を拒否した時の幸せ。そこから抜け出すには気合が必要だ。「よいしょ!」と力を入れて、行動を始める(笑)

懐かしくもある日常の光景であるが、これを「ちからを抜く」ことの意味内容としてしまうと、私のお話ししようとしているほうの「ちからを抜く」ことの話には、たどり着くことが出来ないようだ。

朝、「ダラダラ」を抜け出して外出する。仕事や学校に向かうのだが、まだぼんやりしていて眼が覚めきれない。朝の授業など半分寝ていて、眼が覚めるころにはお昼ごはんの時間になってしまう。そのころには、ようやく自分の感性(感覚)にスイッチが入って、意識がハッキリして活発に行動し始める。あまりハイになると、その晩再び夜更かしが過ぎて、次の朝の「ダラダラ」でたいへんだったりするが、これが日常生活の中では「休息」と「覚醒」のリズムといっても良いかも知れない。

私の求める「ちからを抜く」ということは、心身の「覚醒」した状態を、意識的に創り出す作業なのだ。「スッキリとした興奮状態を準備する」とでも言おうか?

単に「自分は興奮している」という時は、自分の表現衝動が、規制する常識や情況に阻害されて、エネルギーが行動化されずに自分の中で渦巻いている状態。それが興奮として自覚される。息苦しいものである。規制や常識は意識(脳)の中に埋め込まれていて、心身の緊張で自動的に内的衝動を抑え込もうと働く。(笑い飛ばしたいけど、笑っちゃだめ!、怒鳴りたい!けど怒鳴ったらおしまい!、噛みつきたいけど、噛みついたら終わり!告白したい!けど言葉が喉元で止まっちゃう)

その規制を外してしまえば、獰猛な動物性が解放されて、人間が獣(けだもの)になってしまうと、恐れを感じる人も居るかもしれない。そんなことはない。動物というのは意味のない殺生はしないものである。人間も動物である、本来無駄な殺生はしないように生まれている。人間が殺生に走るのは、社会的な規制や常識に圧迫され、生命力が危険にさらされ暴発するからである。自己規制が効かなくなる地点まで生命が脅かされ、追い込まれるからである。

「スッキリとした興奮状態を準備する」とは、自分が人間として生まれ持っている生命力を、丸ごと肯定することである。それは自然を人間の都合で推し量り忖度することなく、ありのままに見ることでもある。自我の発達した人には恐ろしいことかもしれないが、そこに意識と自然との葛藤はない。むしろ全肯定は、生命エネルギーへの共同的コントロールを可能にする。

思いがけず、大ぶろしきを広げて仕舞った⁉(笑)

要するに「ちからを抜く」とは、個人の心身の中に持つ、意識(頭脳)と自然(からだ)の葛藤から発生する緊張状態を緩め解消し、自己=「いのち」の表現を開放して行く作業である。「いのち」の自由を首肯していくのが「ちからを抜く」レッスンの目指すところである。

実際のところは、至極簡単。「からだ」を揺らして心身のこわばり(緊張)を解きほぐしていく。不思議なことに「スッキリ」と明るく元気な「からだ」が姿を現す。子供のころのように活発な「からだ」と「こころ」が。

こんな「からだ」を踏台として、身体表現や声・言葉の表現(コミュニケーション)へとジャンプしていくのが「からだとことばといのちのレッスン」である。思いがけず見ず知らずの自己と出会い、新たな自分を生きることを「楽しむ」。

「楽しむ」とは肯定である。人は自己の肯定によって自然に変容していく。先ずは「からだ」の肯定から始めてゆきましょう。

瀬戸嶋 充 ばん

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【1】 レッスン生活40周年記念(その5)
【2】 あまねとばんの交換日記(呼吸の話⑥)
【3】 レッスンのご案内
【4】 あとがき
【5】 バックナンバー( ばん|note ) 

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【1】 瀬戸嶋レッスン40周年記念(その5)

私が敬愛する歌手、古謝美佐子さんが、代表曲『童神』の歌詞の中で「嵐吹きすさむ わたるこの浮世」と唄っている。
https://www.youtube.com/watch?v=zXiIPp06SOY

この曲を初めて聴いて20年になる。子を思う母の愛の深さと、優しさを感じて聞き入っていたが、この「嵐吹きすさむ わたるこの浮世」の歌詞の意味を、私は不思議と心に残さずに来た。いま思えば、「浮世は嵐吹きすさぶところだ」という認識が、私にはまるきりなかったのだ。

先日、レッスンの中で、参加者との応対で痛みを伴う出来事があった。そしてこの歌詞の意味するところを、私はたいへん身近に感じた。ああ!生きると言うことは、嵐に揉まれ痛い思いをしながらも、苦しみながらも、生きる喜びを尋ねて進んでいかねばならない。これが普通のことだったのだ!そういえば私もいろいろあったと思い出した。

そして更に、これまでの私が、吹きすさぶ嵐からいつも守られていたことへも、初めて考えが至った。守り手は母であり、友人であり、仲間たち、師匠もそうだ。私を分け隔てなく受け入れ、付き添ってくれていた人たちのいたことを、その姿を思いだした。初めて気が付いた。(なんと脳天気な私であることか)

これまでにも、レッスンを続けていく中で、ときどき分けわからずに手痛い傷を受けることはあったが、私自身は、こんな痛い目に合うのがなぜなのかを考えずに来た。胸や腹に収めておけば、誰かに打ち明けることもなく、時間の経過とともに傷は癒されていった。ところが実は、そういう時はいつも、誰かが何を言うでもなくそばに付き添い、静かに支えになって立ち会ってくれていたのだ。

そのおかげで、私は浮世(世間)が、自らを傷つけるモノとは思わずに来れてしまった。世間に適応するためのストレスとは無縁で生きてきてしまった。自分を卑下して進むべきところを見誤ることも無かった。(お気楽な奴でもある)

私が学ぶには、自分勝手にやれる、規制や縛りのない時間と空間が必要である。それがあって、私の中に持つ自然(個性)によって、学びが統合され発見される。私はあれこれ指図をされると、委縮してしまって、何もできなくなる。(そういえば、竹内も野口も生徒を縛ることの無い、自由な時空を提供してくれていた)

西新宿にあった、人間と演劇研究所スタジオ(アングラ劇場兼稽古場)も、四半世紀にわたって、私の「からだとことば」の実験・模索探求を保証してくれた。その場を共にして、私の身勝手なレッスンと施設運営を全面的に支えてくれた仲間がいた。スタジオでともに学んだ仲間たちは、みな優しかった。

私は、自動車免許をもっていない。教習所の、狭い敷地と標識に囲まれた練習コースに自分を押し込むのを考えると、それだけで胸が苦しくなり、息切れがして来る。私が万が一運転免許を取るならば、小学校のグランドくらいの広いスペースと、傷だらけのオンボロのマニュアル車が欲しい。ともかく自動車に乗って自分なりにあれこれやっているうちに、車とお近づきになり、遊んで慣れ親しみ、自分なりに運転が可能になるだろう。校庭にタイヤの軌道をジグザクや丸く書いて遊ぶことも発明するだろう。いきなり狭いコース(街中もそうか!)と交通ルールに自分を合わせるのは酷く苦手である。(私にとって、「学び」と「遊び」は同等のものである)

からだのレッスンについても同じだ。あらかじめ決まっている型や動きに、自分を押し込むのが大嫌い。スポーツのフォームなんかも、何とか法(テクニック・技能)を学ぶのも苦手。ましてやセラピストの資格を取るなんて地獄の沙汰である。私に資格社会を生きる資格はない(笑)

レッスンでは、自分や相手のからだに触れて、あれこれ動かし試してみると、どうすれば良いかが自然と分かってくる。自分ならではの発見に満たされる。私は竹内レッスンや野口体操をそうやって学んできた。何ものにも縛られないフリーな場(時空)とそれを支えてくれる人々が必要だったのだ。(竹内・野口の二人は、決まりきった方法やマニュアルを持たずに独自の道を歩んだ。自らの実践を更新し続けた。何も教えないという素晴らしいやり方も教えてくれた)

私の父は戦争にいって、帰ってきた世代。その時軍隊で心に受けた傷が疼くのだと思うが、父は社会の中で自分が理解されない辛さに、家庭の中で癇癪を起こしぶちまけていた。そのたびに母は子供(=私と妹)を連れて、近所に散歩に連れ出してくれた。そこには母と妹と私の、優しい時空があった。(そういえば、親から人生について意見をされたことは無かった。日々を生きること、暮らすことに精一杯だったのだろう)

私には、世間の常識や決めつけによって傷や責めを負わずに済む場が必要だったのだ。「嵐吹きすさむ わたる浮世」から、切り離され保護された場と、場を守ることを助けてくれる人たちを必要とししていたのだろう。そして無自覚のうちにそれを与えられていた。守られていたのだ。

権威にしがみ付いて、自己を正当化している人の振舞いを、私は嫌うようだ。そういう人に会うと、なぜか地雷を踏んでしまう。相手の癪に障るようだ。私自身は無自覚なのだが、いつの間にか相手の横暴を喰らうことになる。痛い!(笑)

歌詞は「嵐吹きすさむ わたるこの浮世 母の祈り込め 永遠(とわ)の花 咲かそう」とつづく。

瀬戸嶋 充 ばん

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【2】あまねとばんの交換日記

あまねさんは、美大出身で油絵専攻、インタビューをライフワークとして、現在は子育てに奮闘中。
( あまねさんの最近の記事は「あそどっぐ インタビュー」 https://note.com/kobagazin/m/m52dc197ffbaf

交換日記、『呼吸』⑦ 7回目の連載です。
今月は、リトリートを終えたばかりの、あまねさんからの返信。2022/1月5日 22:09 記(前回ばんの日記は1月5日14:01記)

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ばんさん

ただいまでございます!

日記、「んお〜・・・!」とすこぶる興味深くよみました。
体験的な理解はどんなもんかわからないのだけど、今のわたしにひびくお話ばかりだったです。
「胎眼」のはなしも(これは超重要ワードの誕生(?)なんじゃないでしょうか・・・少なくとも、わたしは今回はじめて聞きました)、ばんさんと同程度とは言わないけど、わかるような気がする。

というのも・・・呼吸ってことでつながるとおもうので話題にだしますが、わたしは年末、とある瞑想コースへ行ってきました。
で、出発前日(やそれ以前に)ばんさんからもらった、呼吸のお守りをもって瞑想し(現場にたいする最低限のリスペクトをキープしつつ)、ばんさんのお守りや、じぶんのそれまでの体験や感覚を総動員して、じぶんなりに呼吸をせっせと育ててきました。
(そこで授けられるものへのリアクションで、自身の呼吸観というか、身体観というか、「わたしにとってのいのちはこうだぜチクショー!」みたいなものが、あるんだなあということを再確認するのに、とてもよい場と機会でした)

きっかけをつかんだだけで、結論なんてでてないけど、わたしなりに今回掴んだ一端は、セミとか、虫のおなかがふわっとひろがり、さいご肛門がキュッとかわいくすぼまる、やすらかさでした。子供のころから、あのうごきをみてると気持ちがおちつきます。

で、きょうのお昼、そんなからだで人と踊ってきたんですが、相手をお腹(とからだ)で食べているような感覚をおぼえていました(これまでは食べきれぬときはオロロロとこぼしてしまっていた。おなかの口がちいさかったみたい)。
または、じめんから生えたわけのわからない植物(わたし)が、ゆらゆらと相手や辺りを包んでいくような、枝をのばすような。
要は栄養をもとめて、いきものが蠢く≒ たべる という感覚です。
そうやって踊り終えた時刻ちょうどに、ばんさんから交換日記のメールが届いていたので、うれしく戦慄した次第です。

わたしは、ばんさんの「胎眼」ほど生物の進化をたどってないけど、食べることも、相手をじぶんの中に入れることだし、食べ物ってお腹のほうへ向かっていくし、ばんさんの「胎眼」で相手と同期する、わたしが今日体験した「お腹でたべていく」ことって、すんご〜〜〜くおおまかには符合する部分があるなあと思って。合体することや、お腹のこと、背景にある呼吸のことやら。
眼ほど上等じゃないけど触覚で、感覚器官の進化のずいぶん手前のところで(原生生物ぐらいかな)、それもわたしは相手にちょくせつ触れながら。
土のあたり(?)でモゾモゾと、今、じぶんはやってるんだなあ〜とにんまりしました。

今日みたいな寸分たがわぬジャストタイミングはさすがにはじめてですが、もうすこし言うと、ここまで書いてきた「呼吸」のわたしの体験にたいして、ばんさんからもらってきたお返事も、おそろしくジャストミートだったのです。そのタイミングも内容も。
「ばんさん、じつはどこかでわたしのこと見てるでしょう!?」と何度おもったことか笑

これまで、当日中にお返事書いたことがあったかどうかわかりませんが、ひとまずこの驚きを、鮮度の高い状態でシェアしたくって書き始めました。
ばんさんの言う「そうすると「呼吸さん」と自分との間に壁なんて無かったことを、呼吸さんからのプレゼントとして、呼吸さんが教えてくれるのです。個人という幻想から逃れる道はここに在るように思います。」
交換日記でそれそのままが起こっとるやん。
ということをわざわざお知らせするのも無粋か・・・?
と思ってこれまで黙ってたけど、きょうはなんかもう、うれしくなっちゃったのでシェアすることにしました。

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「観察眼」のお話を読んでて思いましたが、ことばの話にそのままスライドしてお話ができそうですね。
いま、世間一般でつかわれる言葉はほとんどが、観察や監視のために使われている気がします(瞑想期間中何日もつづく、「言葉の使用禁止」がどれほどありがたかったことか・・・)。
なにか対象(◯)があるとして、言葉(>)が、それに対して刺さるような(>◯)、あるいは規制するような。
かりに言葉というものが垂直の壁として在ったとすると、オモテで起こっているのは ↑ こういうことばかり。
・・・現状、これが圧倒的多数だと思います。
ばんさんはそのウラ側から言葉を見つめている(地球をくまなく見てきたわけじゃないけど、ほとんど、「ばんさん一人で」と言っていいような気がします)。
観察や規制から解放された、あるいはそれ以上の言葉のちからを見つめながら、オモテの世界で横行している、ひとと言葉との付き合い方に、「否」と言っている。
オモテの世界にある「対象(◯)」や「言葉(>)」に満ちた緊張を包み込んで溶かすような、で〜っかい◯として、ボーンと泡が破裂するような言葉と体と・・・。

きっと言葉の誕生の瞬間って、なかば祈るようにだれかが海を「うみ」と呼んでみて、ほとんど現場の、当事者の勘や気のやりとりによって相手の意図するところを「え、「うみ?」・・・あ、ひょっとしてこれ(海)のこと!?」
「おお、おれの発した「うみ」という声が、あいてのなかに「海」を産んだ!っひゃーうれしい」
みたいな具合で、偶然やアクシデント(でも現場においては必然的に)として通じ合い、きっと「おー!」と歓喜やら感激に満ちていたのだと思うんですよね(身体的にはふかく納得しながらも、まさに「偶(たま)げた」ってところだと思います。)。
それがいつの間にやら監視の道具として言葉はつかわれ、廃れ、始まりの瞬間のチカラをすっかり失ってしまった・・・のを、「うみ!?ああこれのこと!?」「おおー相手とつながった!!!」という始祖としての言葉に戻そうと、ばんさんはしているのかなあ、というようなことを、ざーっと想像しました。

「呼吸さん」のはなし、尽きませんね笑
どんぶらこっこ、すっこっこ、というかんじで「わたしは何を書いているのだろう、どこへ行っちゃうんだろう」と思いながらも、今回もすっこっこと書きました。

あまね

(次号、ばんの返信につづく)

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【3】 レッスンのご案内

● 春の伊豆川奈合宿開催 
2022年3月19日(土)~21日(月)
詳細は、人間と演劇研究所HP https://ningen-engeki.jimdo.com/2022%E5%B9%B4%E6%98%A5-%E4%BC%8A%E8%B1%86%E5%B7%9D%E5%A5%88%E5%90%88%E5%AE%BF-3-19-3-21/ をご覧ください。

● 神戸ゆらゆらワークの会主催WS
『「からだ」から始まるコミュニケーション入門』
次回は5月後半に神戸市東灘区会場にて開催の予定です。

● 琵琶湖和邇浜合宿
『鹿踊りのはじまり』舞台上演。YouTubeに限定公開しました。
https://youtu.be/-rm3YAVdIoQ
から、ご覧ください。

● ワークショップ・合宿などのイベントのご案内は Facebookページ https://www.facebook.com/SensibilityMovement に「いいね!」して頂ければ、詳細が出来次第、FB通知でご案内します。

● オンライン・レッスン『野口体操を楽しむ』のご案内は、
https://ningen-engeki.jimdo.com/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E6%95%99%E5%AE%A4/

● オンライン・プライベート・セッション開始
http://karadazerohonpo.blog11.fc2.com/blog-entry-370.html

●「出会いのレッスン☆ラジオ」https://www.youtube.com/playlist?list=PLnDMDlLE0m1LaDrvijAQA8RwzaiNAAdpZ
番組表は、https://ningen-engeki.jimdo.com/

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【4】 あとがき

「申し訳ないことをして来たな!」と反省する。それも良いことかもしれない。
私の場合は、何かうまくいかないことがあると、それを何とかしようとして一所懸命に体当たりを繰り返す。そこに反省はない。「からだ」をレッスンの場に投げ出して、前を向いて走っていけば答えは出るはずだ!何とかなるだろう!と、「からだ」(=いのち)を信頼して、わき目もふらず突っ走り続けてきた。そして実際になんとかなって来てしまった。
大学を卒業し、竹内敏晴に出会って以降、私は40年もそんなことを繰り返してきた。
竹内レッスンも野口体操も、林竹二の哲学も、その秘密を解きたくて、私はこれまでの歳月をひた走ってきたとおもう。ここまで走り続けるエネルギーはどこからやって来たのだろう?と、いまは不思議でならない。
目の前に次から次へと訪れてくる情況を切り抜けるしか、私には手が無い。へこたれているわけにはいかない。自らを叱咤激励するように、声とからだのワークに自身を投げ込む。自分との向き合いが足りない、からだへの探求が浅い、息が浅い、とからだを動かし、一歩一歩を大地に突き立て、自らを奮い立たせる。
それが習い性になり、私は「反省」ということが出来なくなっていたようだ。自分の失敗や誤りを顧みることに時間をかけていたら、自分が後ろに引き戻され、前に進む勢いがそがれてしまうような気がしていたのだろう。(「愚者の船」?)
それでもさすがに、40年も続けると竹内・野口・林(私の師匠たち)の実践の意味が見えてきた。継続こそ力なりとも、叩けよさらば開かれん、とも言う。40年がかりの探求の結果が出てしまったのだから、私の目的は達成されてしまった。さてこれからどうしよう?
ここに来てどうやら、反省することを学ばねばならなくなったようだ。そもそも60才半ばともなると、若さの勢いだけではレッスンをやっていられなくなる。
以前だと「反省」とは、猛烈な勢いで走る特急列車に、急ブレーキをかけるようなものだったのだろう。それは無理なことだった。今ならそれをすこし自覚的にやれそうだ。「反省」。「カエリミル」。この通信自体が、私のこれまでの体験の収納庫から、あれこれ取り出してカエリミル作業だろう。積み上げた収納ケースの隙間には「申し訳ないことをして来たな!」ファイルが、大量に詰まっているようだ(笑)
私は100%を目指して走って来た。もう100%を目指さなくて良いのだろう。自分でやるのは30%くらい。あとの70%はレッスンの参加者や、レッスンの仲間たちにお任せした方が良さそうだ。そのためには洗いざらい、みんなの前に私を投げ出すことが必要だろう。自分以外の人たちと一緒にやるのだから「反省」が必要になる。そういえばこの頃、ZOOMで「振り返り会」がマイブームだ。
蛇足だが、「私」は「わたし」という歌を唄いに、この世に生まれてきたのかも知れない。

ばん(瀬戸嶋 充)

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【5】 note バックナンバー

当通信のバックナンバーをご覧になりたい方は、ばん/note
https://note.com/kara_koto_inochi/m/mdc4d18c059db
をご覧ください。

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● 私、瀬戸嶋 並びに 人間と演劇研究所『からだとことばといのちのレッスン教室』の 活動と情報は、ホームページで告知しています。
レッスンへ参加頂く際は、ホームページをご確認ください。
https://ningen-engeki.jimdo.com/

● 問合せ・申し込みは、メール karadazerohonpo@gmail.com 又は 電話 090-9019-7547 へご連絡ください。

     人間と演劇研究所代表 瀬戸嶋 充 ばん     

『からこといのち通信 №21』3月号 2022/2/28発行

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