『からこといのち通信 №8』2月号20210118発行

『からこといのち通信 №8』2月号(人間と演劇研究所 瀬戸嶋 充 ばん)20210118発行

自画自賛で申し訳ないのですが。合宿の動画を編集しながら、モニターから響いてくる自分の声を聞いていると「明るい声になったな!」と嬉しくなる!

以前の私の声には、思いをぼんやりと凝らしたような暗さ(瞑さ)があった。聞く者にとってその声は、なにやら重々しさを潜めているように聞こえたのではないだろうか。瀬戸嶋の声を聴くと眠くなると言った人がいたような(笑)言葉に思いを重ねることに一生懸命だったのかも知れない。

「思い」というのは「重い」につながる。思いが重くなりすぎるとうっとおしくて、窮屈になる。人生の苦労、その「重さ」を真っすぐに受けてこなして(粉にして)きた人たちの声は明るい。或いは弱者として自分に蓋をしてきた人の内側深くに仕舞われた「声」は、引き出されることで色鮮やかに輝きだす。やはり「明るい」。「明るい」は「あ!軽い」につながる。彼らの「思い」は「重く」ても軽くなれる。

簡単に言ってしまうと、人生に対して誤魔化しの効かない人たちのうちに潜めた声は明るい。誤魔化しを当然としてそれを見ようとしない人たちの声は、奥行きのない薄っぺらなものだ。そんな人でさえも一人一人の中には明るい「こえ」が眠っている。明るいと言っても、キンキン響いてハレーションを起こすような明るさではない。透明でやさしく人を包み微笑みを誘うような明るさだ。おそらく瞑想の「瞑」(くらい・暗い・昏い)はこんな明るさを指すのではないだろうか?「暗い」も「明るい」も一つになってしまう!

「ただし」が必要かもしれない。思いの深い人は、その重さに引きずられて、「軽さ」を嫌う傾向がある。私など自分の重さ(意識と知識)から自由になっていくのに、青年期以来40年あまりの日々を過ごしたことになる。そしてどうやら老いることの助けをも借りて、いま「思い・重い」は「明るい・あ、軽い!」へと変身し始めているようだ。嬉しい。

(瀬戸嶋 記)

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【1】 全身呼吸のこと
【2】 風周りの交換ノート④(「声」をみるときの話 )
【3】 滋賀琵琶湖合宿 1/9~11 無事終了しました。
【4】 通常レッスンのご案内
【5】 あとがき
【6】 note バックナンバー

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【1】全身呼吸のこと

からだを、水を一杯に詰めた風船と考えると、全身呼吸のことが見得てくる。

からだは水で一杯に膨らんだ風船なのだ。
息をすると、吸い込んだ空気のぶん(分量・体積)だけ、からだ(水風船)が内側から押し広げられ膨らむ。
膨らむのは、胸やお腹だけではない。
背中もお尻も脚も腕も頭も・・・みんな呼吸に合わせて膨らんだり萎んだりを繰り返す。

もちろん足先も指先もみんな呼吸に合わせて伸縮を繰り返している。
赤ん坊が泣きわめくときなど、からだが張り裂けんばかりに、お腹を中心に指先足先まで全身の圧力(内圧)が激しく波を打っているのが分かる。

これは大人も同じだ。誰もが全身呼吸をしている。無自覚にではあるが。
これをあらためて自覚の下に引き出そうというのが、呼吸への「気づき」である。

からだの変化への繊細微細な感受性を育てなければ、そう簡単には自覚出来ないが、繰り返し時間をかけて、脳にインプットされた誤った呼吸法の常識(イメージ)をからだで吟味し外して行けば「ああ!足が息をしている」と実感が持てるようになる。

私たちは誰もが全身呼吸が「出来ている!」。ただ余計な知識や学びに邪魔をされ、意識がそれを認めることが無い。そのために私たちは、何やら怪しい呼吸法を取って付けて、呼吸が出来ている出来ていないと騒いでいる。

「全身呼吸」は誰もが出来ていて、一人残らず日々それをしている。ただしそれを自覚するか、意識の外側に置き去りにするか?置き去りにしてしまっては自分自身の生命活動の土台を見ずに生きることになる。

四六時中の自身のからだ(全身)で起きている変化(=呼吸)から眼を逸らし続けてしまっては、不安に襲われたときの自分自分が帰り着くところ、安心の場=土台へと還ることが出来なくなる。赤ん坊の眠っているときのあの静かで安らかな休息の場を、私たちもからだの内側に持っている。

全身呼吸を自身に認めることが、深い休息を可能にするのです。

昨今流布している呼吸法は、意識的操作によって心理や生理(肉体)に働きかけて、それを活性化することに主眼が置かれていて、深い休息とそこから湧き出るいのちのちから(自然)を無視したものが多くなっているように見受けられる。何かをプラスするのではなく、もともと私たち誰もが持ち合わせている能力(=自然)を活かすために、無理やりの努力を棄てからだ本来の働き(=自由)を取り戻して行く。それが「からだとことばといのちのレッスン」の主眼です。

蛇足になりますが、私(瀬戸嶋)は、「いき」(息・呼吸)そのものに「成り切って」、「いき」の側から世界を観る体験をしたことがあります。私たちの眼差しが、如何に社会的常識(慣習的ことば)や学ばされた知識に縛られてしまっているか?「いき」の自在性=自由に触れることで、その時初めて、自身の中にある無自覚な縛りからの、解放の喜びを味わいました。

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【2】 風周りの交換ノート④(「声」をみるときの話 )

赤星周(あかほしあまね)さんとの交換ノートから引用して連載しています。

《 ばんじ 》011(『お祭り』の風)
Bloogerにも書きましたけれど、こちらにもコピペ。お話聞いてもらうの、私にとって大事な時のようです。よろしく~😸
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透明というのは自我の背景になるものでしょうね。自我(ペルソナ=仮面)っていうのは、その背景を包み隠しちゃう。

仮面の背後にあって、存在を存在たらしめていると私が感じているものを、体験的に「透明な空気」とか「樹液の透明な流れと」私自身が呼んでいるようですね。

「砂浜のレッスン」というのがあるのですが、私自身が三間四方の舞台に入って即興をした時のこと。

大地からの流れが足裏(根っこ)から「からだ」を貫いて天に向かって噴出して行く。

それにつれて喉の奥から母音「あ」の声が、「からだ」(=木の洞・幹・枝)を震わせ響き渡るのです。スタジオの空間にそれこそ自分の耳を塞ぎたくなるような、激しい母音「あ」の声が響き渡るのです。

その度し難い声に、こんなに声を出してはスタジオの仲間に迷惑ではないかと、自分の声に一瞬躊躇してしまうような響き。暗転した客席に浮かぶ仲間の表情はむしろ眉間が開いて見えて、さらに調子に乗っていきましたが。

あとから振り返れば、空に向かって枝を生い茂らせ、大地に深く根をはった一本の樹が、大地と一体になって、「あ」の「こえ」を闇の世界に向かって響き渡らせているような。

私にとって「こえ」とはこれなんですね。その人の自我のコントロールを越えて、人をその世界の中に解き放ち包み込む「こえ」。

これは生きている以上は、それを自分にも他者にも隠しているとしても、誰もがその人それぞれの個性として持っている声であり、この「こえ」のところに立つと、脳がこさえた観念的な幻想としての、人と人の間に架空・空想された「距離」という概念が、抜け落ちてしまう。

私を含めて立ち会う人たち、場という言葉でも良いのですが、自在の流れ合いが可能になるのです。

それの流れを妨げようとするのが、自我です。意識の方から見た、対他的マスク(仮面・ペルソナ)或いは社会的なマスク。それを剥ぎ取るのは、自我の方から見れば、無能の自分をさらけ出すことになる。

そこに本当の他者や世界との無防備な融合が成り立つのですが(レッスンの困難さです)。。。。これが本当の『お祭り』だと私は思うのですが。

そしてレッスンの中で私はそれぞれの人の「透明感」に、私の「心/身」の触角を向け続けているのです。これは誰でもできることと、私は思っています。

当人が必要と感じることがなければ、どうしようもありませんが。

《 あまに 》012『「あ」の「こえ」と対他的マスク』

そうかあ。
ばんじは、その時に出会った「こえ」、それをそとから見たんではなく、じぶんから出てきた手応え、感触があるから、人の「こえ」をとらえて(かんじて)いけるのかな。見てみたいな、そのばんじの「あ」の「こえ」。

ばんじのようにからだ根拠ではないけど、ばんじがここ何回かでずっと書いている対他的な社会的マスクについての話は、わたしにも切実で関心のある話です。
態度や佇まい、言葉使いや語気やらにあらわれる、その人の本音と食い違ったような” 凝り ”はひじょうに苦手です。あんしんして、笑ったり怒ったりしてくれりゃーどんなにたのしく、らくちんか。と思います。もちろんこの言葉はじぶんにも跳ね返ってくる。
ひとびとの" 凝り "のなかで、じぶんが裸ん坊でいられる方法をさがすことは、私にとって死活問題です。それでばんじのとこに漂着したんだろうなーわたしは。
ばんじの「あ」の「こえ」とおなじなのかどうかわからんですが、わたしが人の" 凝り "を感じ取るときは、自分が裸ん坊でいられたときの感触と、対他的な社会的マスクを着けた苦しさと、両方の体験を根拠にしているようにおもいます。ばんじの場合はどうなんだろ。

あえてききますが『「透明感」に、私の「心/身」の触角を向け続けているのです。これは誰でもできることと、私は思っています』ここでばんじが「これは誰でもできること」とおもうのはなぜなんですか?
この話と「当人が必要と感じることがなければ、どうしようもありません」も繋がってくるものと思いますが。

《 ばんじ 》013「がんばる」の封印
『 風 』 クリスティナ ・ロゼッティ

誰が風を見たでしょう
僕もあなたも見やしない
けれど木(こ)の葉をふるわせて
風は通りぬけてゆく

誰が風を見たでしょう
あなたも僕も見やしない
けれど樹立(こだち)が頭をさげて
風は通りすぎてゆく

https://www.youtube.com/watch?v=6C4q-xVGfWg

この歌詞を識ってますか?
眼で見ることも手で捕まえて収めることも出来ないのが「風」ですね。
触れる(把握する)ことも見ることも出来ないけれど、確かに在ると「感じる」(感じられる)もの。
「風」を「神」・「仏」や「いのち」に置き換えて読むことが出来ますね。「いのち」とは、「い」(いき)の「ち」(ちから)ですから「風」です。確か基督教の聖書でも神の息吹という言葉が出てきますね。これも「風」。
作詞した ロゼッティさんは、キリスト教の信仰の深い人だったようです。

「眼で見ることも手で捕まえて収めることも出来ないけれど、そこ・ここに神は生きて(息て)活動していますよ。感じることが出来ますよ。さあ風に吹かれて御覧なさい」私は勝手にそんな翻訳で読んでいます。

「目で見ることも、手に取ることも、耳で聞くことも出来ませんが、確かに「在る」と感じられるもの」それを失わないために、アートって在るんじゃないかな?!と、ときどき考えることがあります。

「意識で全て掴まえ仕切ることが出来る!」と、思い込んでしまうことは、何だか苦しいなと思うのですが、世間の現実はこの考えがスタンダードになっています。これが近代化によって成されたことですね。

このスタンダードの中で、それに対抗するためには「絶対」を立てる必要があるようです。ちょっと卑近な例になりますが、私は「からだは(絶対に)やわらかい」という言葉を立て看板に張り付けて、自分の心の中に釘で打ち付けました。時と場合によって、柔らかくなったり硬くなったりと言うような「相対」的な考えを、その看板が弾き飛ばします。

これは野口三千三さんの影響ですが、彼は「がんばる」という言葉を嫌っていました。「頑張る」=かたくなに(自分を)突っ張る・「眼張る」=目ん玉をひん剥いて努力する・「我ん張る」=我を張る。

(あまにちゃんの言う " 凝り " に近いのかも知れませんね。「がんばる」は心の柔らかさを、力んで固めて抑え殺してしまう。これが同時にからだの緊張でもあって、それが裸ん坊(=柔らかさ)の側からは見えてしまう。" 凝り " に捕まった人は自分自身の" 凝り "は意識できなくなる。" 凝り "が妨げになって、こちらからの言葉や行為は相手に届かない。相手の言葉も、結局肝心なところが" 凝り "に妨げられてこちらに伝わってこない)

野口さんの話を聞いて、私は(30歳前後のこと)妙に納得して、以来「がんばる」「がんばろうね」「がんばってね」、要は「がんばる」という言葉を自身に封印しました。以来30年以上、この言葉を使っていません。(何かのときに一度どうしても使わなければならなかった時がありますが)

初めの頃は「頑張ってね」と言えない不自由さをさんざん感じさせられました。「頑張ってね」と言葉にすれば済むところを、いちいち言い替えの言葉を探さなければならない。別れ際なんて「がんばってね」が必須です。そこでいちいち、短く考え込むわけです。「じゃあね」「またね」「ごきげんよう」・・・語を選ぶ。歯切れの悪いことになります。

「がんばる」という言葉を共有することで、人間関係が成り立つというのは、いまではなんとも怖いことだと思えるようになったのですが、まあ人と話すのが大変でした。

先日ふと気付いたのですが、それがいつの間にか全く不自由ではなくなっている。考えて見れば私の言葉遣いの「体系」みたいなものが全体として変化して、「がんばる」という言葉を含まずに自由に話せるようになってしまっていたんですね。それに気付いてちょっぴり幸せな気分になりました。

これも「からだは絶対に柔らかい」という「絶対」を立てたことと関連していることだと思います。

「これは誰でもできること」というのは、自分なりの「絶対」を立てることです。「絶対」をがっちり握りしめて、何があろうと離さない。「私は身体が固いんです」とレッスンの参加者に言い寄られても、絶対に首肯しない。「あなたは柔らかい」とおまじないを唱えはしないけれど、硬いものを見る眼差しや触れ方を、自分に許さない。これは私自身の覚悟の問題なので、「当人が(絶対を立てる)必要と感じることが(前提に)なければ、どうしようもありません」。

これは「信」(=信仰)の問題に繋がっていきますね。誰かに従うのは「信」ではないのですね。「信」は自ら選び取って、それに従うものです。えらいお坊さんとかはこのことを語っているとも思います。それが今の宗教から抜け落ちて見えなくなっているところです。人任せの組織の一員になることで、お得なものを貰うばかり。個人の葛藤に本当には答える場になっていない。

近代を超えるには、個人が個人の信仰を見出し、それを掲げ仰ぐしかないのかな?困難ですね。せめてこんな歌、『風』を一緒に歌いましょうかね(笑)凧揚げしながら!
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そうか!あまにちゃんの言ってくれたように、私は「風」を外から眺めるのではなく、「風」そのものになったことがあるようです。自分という実感を離れて、「風」そのものになったことがある。禅のほうでは「そのものに成りきる」と言うような。

《 あまに 》014「食う/食われる」と「ピノキオ/ピグマリオン」
「風立ちぬ」でちょろっと読まれる詩ですよね?
全文ちゃんと読むのははじめてです。

ばんじが
"「目で見ることも、手に取ることも、耳で聞くことも出来ませんが、確かに「在る」と感じられるもの」それを失わないために、アートって在るんじゃないかな?!"
と言ってるのよく分かるなあ。
わたしは、人類が自然をはなれて抱えた「歪み」みたいなものを象徴or解放する手段がアートなんじゃないかなーってときどき考えます。
「自然をはなれた」というのは、多種の生物とのダイレクトな関わりをなくしたこと。もっと言うと、直接狩る /狩られる循環を失ったこと。

むかしから「食べると動ける」というのが不思議でしょうがないです。カロリーになるとか、何かを燃焼するとか言うけど、それは後付けの説明でしかなくって、「なにかを食べて血肉となる」という現場を捉えてはいないのではないかと思うんです。
「なにかの命でじぶんの命を繋ぐ」ということも、たしかに「在る」と感じられるけれど触れられないもののひとつなのかもなあ。

ばんじの
「言葉遣いの「体系」みたいなものが全体として変化して、「がんばる」という言葉を含まずに自由に話せるようになってしまっていた」。
よかったですねえ。30年かあ。ばんじのふと気づいたハッピーに共鳴しながらも、私はまだ「頑張る」ときどき使っちゃうな。笑 言った後「あ」て思う。ゴムをギチギチ伸ばすみたいになってほしいなんて、少しも思ってないはずなのにって。

ばんじの「からだは(絶対に)やわらかい」の話聞いてて、ピノキオとかピグマリオンのこと思い出しました。
ピノキオつくったゼペットも、理想の像に恋したピグマリオンも、ばんじと同じ「信」にちかい場所にいるのかもしれないなーと。だからピノキオとピグマリオンの像は命を持てた。
逆をいえば、頑張る( ≒ 凝り)につかまった人の在り方はあやつり人形や像の在り方にちかいのかもしれませんね。

するとばんじがその「信」というか、「からだは(絶対に)やわらかい」という覚悟をもてたのはなぜなんでしょう。
「"あ"のこえ」で「風」そのものになった体験からなんでしょうか。
というよりむしろ、「硬いものを見る眼差しや触れ方を、自分に許さない」という志が起点となるのでしょうか。
それとも、ばんじが「風」となり、目の前のひと「そのものに成りきる」と、どうしても「からだは(絶対に)やわらかい」と思われて仕方のないようになるのかしら。

自然と切れた状態で、個人の信仰をつかむというのは、ほんとうに難しいと思っています。私がそうだから!歌うしかないですね、凧揚げしながら笑
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http://art.pro.tok2.com/Greek/Twelve/Aphrodite/Pygmalion/Pygmalion.htm
ぴぐまりおん。

(次回、3月号に続きます)

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【3】 滋賀琵琶湖冬のWS合宿 1/9~11 お陰さまで無事楽しく終了しました。

最終日1/11(月)、合宿最終日のレッスンとして、宮澤賢治童話『よだかの星』を上演しました。
参加者一人一人が一生懸命に、日常の自分を超えて、「よだか」の世界に飛び込んで行く姿が素敵です。
観客の前で上演して見たかったと、心底思いました。
こんどの最終発表会はお客さんを呼んで思い切り緊張して(笑)、さらに高く高く日常を越えたいものです。
YouTubeに上演の様子をアップしました。ご覧ください。
https://youtu.be/hOjYi4S1KL0。

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【4】 通常レッスンのご案内

● オンライン・レッスン『野口体操を楽しむ』のご案内はホームページ、
https://ningen-engeki.jimdo.com/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E6%95%99%E5%AE%A4/

● 新宿ワンディWS(通常リアルレッスン)の開催は11/22(日)、1/24(日)・2/7(日)・2/28(日)の開催です。
https://ningen-engeki.jimdo.com/ で詳細をご覧ください。

● オンライン・プライベート・セッション開始
http://karadazerohonpo.blog11.fc2.com/blog-entry-370.html

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【5】 あとがき

・『からこといのち通信 №8』2月号を書き終えて、「書くこと」への自分のスタンスが変わってきたと感じています。以前は、自分の中身を絞り出そうとする、息詰まるような鬱陶しさがあり、パソコンの前に坐るのに毎回々々躊躇がありました。ガマの油を絞り出すような気分で書きだされたれた文章を、ブログや通信・SNSに載せていました。文章修業のために書いていると、公言していましたが、今は書くことの苦痛がなくなり、むしろ溢れてくる言葉を楽しんでいるようにも思えて来ています。継続は力なりかな(笑)
・実際にお目にかかってレッスンをする機会が、ここのところ激減しています。コロナの影響がどうなっていくのか、まだまだ先が見えない状況は、私のような個人で活動を続ける者にとっては厳しいものがあります。
何か新たなプロジェクトを起こしていかなければならないと思っているのですが、具体的にはどう動いていけば良いのか私にはよくわかりません。
皆さんのお力添えをいただければ幸いです。レッスンへの参加はもちろんのこと、アイデアの提供やご協力、WSの企画招待など、ぜひともよろしくお願いします。私はどちでも伺いますので呼んでくださいね。
( 瀬戸嶋 )

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【6】 note バックナンバー

当通信のバックナンバーをご覧になりたい方は、ばん/note
https://note.com/kara_koto_inochi/m/mdc4d18c059db
をご覧ください。

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● 私、瀬戸嶋 並びに 人間と演劇研究所『からだとことばといのちのレッスン教室』の 活動と情報は、ホームページで告知しています。
レッスンへ参加頂く際は、ホームページをご確認ください。
https://ningen-engeki.jimdo.com/

● 問合せ・申し込みは、メール karadazerohonpo@gmail.com 又は 電話 090-9019-7547 へご連絡ください。。

     人間と演劇研究所代表 瀬戸嶋 充 ばん     

『からこといのち通信 №8』2月号 20210118発行

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