動物園や水族館と、テレビ番組〜Zoo-1グランプリの終了と「スッキリ」での春日ペンギンの池落下事件から考察する〜

 以前からメディアと動物園水族館との関わりについて色々考えている中で、この2つの事例に出会う。テレビ側が動物園水族館を取材する時、お笑い芸人を出すということについて考える事例になると思えてくる。

 そもそもの話として、動物園水族館と中継するとき、お笑い芸人が必要なのかという疑問も出てくる。動物園水族館という施設がどういう場所に変化しつつあるのかということを意識せず、番組を作っているようにも見えるほどだ。

 スッキリの件に関してはJAZA(日本動物園水族館協会)が声明を出すほどになり、改めてこの事件のあり方とテレビ番組、特にバラエティ番組における動物園水族館の捉え方についても考えることにする。

動物園や水族館での、お笑い芸人枠について

 基本的に、動物園や水族館の中継を見たい動物園水族館ファンは、あまりお笑い芸人に意識を向けていない。それどころか、下手にうるさくしている状態を見せられると白けてしまうほどだ。というのも最近の動物園水族館においては、「大きな声や音を出す」ことや「生きものの気を引こうとする行為」は推奨されておらず、「お客さま」(来園者・来館者のこと)がそういったことをしないようにする施設もあるほどだ。その中で騒いだり気を引いたりする行為をテレビでお笑い芸人がすれば、動物園水族館ファンだからこそあまり良い気持ちにならないのだ。
 そもそもの話として、なぜこういった行為が推奨されないのか。簡単に言えば、「見ている人は自分だけではない」からこそ「みんなやってしまうと相当なストレスを感じさせる」行為であるからだ。あまり極端に目立つようなことをすると、生きもの側からすればストレスになる。たとえそれがテレビ番組だからといってもファンからすれば特別扱いして欲しくないし、そういう行為を他のお客さまが真似して欲しくないのだ。もちろん他にも理由があるが、わかりやすい説明をするために割愛する。

 だが、お笑い芸人としては、「目立つこと」が重要である。だからこそ、この「目立ちたい」というお笑い芸人としての仕事と「人が目立ちすぎてはいけない」という施設側の都合と相性が悪いという状況なのだ。きちんと目立っておかなければ、次の仕事が舞い込まない恐れがある。だからこそ「傷跡を残す」という言葉で表現されるように、なんとしてでも目立とうとするのだ。
 あくまで動物園水族館における主役は「飼育・展示されている生きもの」である。お笑い芸人が目立ってしまうと主役を食ってしまう。もちろん生きものたちは人間に対して目立つためにそこにいるわけではない。あくまで人に対して目立つかどうかというのは、人間側の都合でしかないのだ。そういった、生きている世界のズレが出てしまったことでもあるのだ。

 お笑い芸人たちが暮らす世界の常識と、動物園水族館における常識が乖離してしまっているということを説明したが、だからこそオードリーの春日さんが番組内で「落ちる」ということをせざるを得ない状況でもあったのだ。施設側としてはそういうことをされるのは良くないけれど、テレビ番組としての妥協点を探っていたし、テレビ番組側のスタッフもその妥協点を探っていた。それが「ペンギンのいない状況で池に落ちる」ということだったのかもしれない。しかしながら、その場の雰囲気やノリでああいったことをされた以上、妥協点を探っていたことを反故にされたとされても仕方ない。その上で、生きものたちの安全を脅かす行為でもあったからこそ、施設側及びJAZA側としても対応する必要が出てきたのだ。

 あくまで個人的な推測も入るが、動物園水族館を中心に取り上げた番組である、TBS系列で放送された「Zoo-1グランプリ」という番組で、お笑い芸人が悪目立ちするような状況が放送され続けてしまったのも影響があるのではないかとも思えてしまう。お笑い芸人が自身の価値観で動物園水族館の生きものを認識している時、どうしても施設側の認識と異なる見方や価値観で判断されることが多く、いち視聴者としてどうしても苦虫を噛み潰したような顔になってしまうこともあった。そういうこともあり、個人的にはどうしても動物園水族館を取り上げる番組でお笑い芸人が目立つのはあまり好きではないのだ。
 動物園水族館好きからすれば、お笑い芸人が悪目立ちするのは「余計なこと」でしかないし、施設側に対してもうるさい状況は生きものたちに対しても良くは無い。それなのに、「お笑い芸人のやり方」が常識であるかのように振る舞われると、あまり良い気持ちを抱かない。それに気付かないまま、誰かを見下すような笑いや傷つけるような笑いを続けても、道化を演じていたとしても受け入れられるとは言えないようにも思えるのだ。

安全管理など、管理における問題

 そもそもの話として、施設側に取材するのであるならばこそ、受け入れる側も受け入れられる側も安全管理と衛生管理は重要になる。特に、命に関わる現場であるならばこそ。
 製鉄所など下手したら命に関わる現場で、「溶鉱炉に落ちる」ようなギャグをしてはいけないように、命に関わる現場や状況でふざけると大変なことになりかねない。命が失われてからでは遅いのだ。動物園水族館ではそういった意識が必要な現場であるはずなのに、その意識が低いという状況であるという問題も潜んでいる。
 正直いえば、もしもあの場でペンギンを圧死させてしまったらどうなっていたのだろうか?という想像力さえ無いのが問題なのだ。
 相手側に損害を与えるという問題もそうだが、フンボルトペンギンは絶滅危惧種であり、命を奪ってしまうと相当なことになる。衛生管理をする必要がある現場だからこそ消毒が必要なのに、それをしているのかどうか分からないものが侵入してしまう。工場とかで取材側がそういったことを行えば抗議されるのは当たり前のことなのに、動物園水族館ではそういった意識がない。
 とはいえ、メディアの人々とて生きものの知識がある人ではない、専門外の一般人でもある。一般の方における認識が低くなっているという面があるということを突きつけられているとも言える。

動物愛護と動物福祉の、一般の方に関する認識における問題点

 どうしても、動物福祉や動物愛護の考え方が広まりにくい背景には、過激派動物愛護団体の影響が出ていることは否めない。環境テロリストとも言われかねないほどの事件を行うグリーンピースやPETA(ペタ)、日本においても共感を得にくい方法を採用してしまっている(例えばSNSで過激な言動や投稿を行う、強い言葉で批判を行う)団体であるPEACEなど、どうしても「自身のことを絶対正義というような、独善的な感じで価値観を押し付けてくる」ような過激な団体が目立ってしまった結果、環境保護や動物愛護、動物福祉を語ることが難しくなってしまっている。一言でも愛護や福祉の視点を施設側ではないどころか関係を持つ人が発したとしても、聞いてくれないどころか反発されるような状況にまで陥っているのだ。

 それほどにまで独善的な対応をしたことでの副作用が広がっている中で、どのようにすれば良いのだろうか。

 そもそもの話として、ひろゆきさんが行うような論破のようなやり方をしたとしても、その人が意見を受け入れてくれるとは限らない。むしろ頑なになり、耳を傾けなくなる。とはいえ、きちんと怒らなければ、舐められる。適度に怒り、適度に許す。そういったことを行わないとダメである。

 けれど、自身たちが正義であると思い込んでしまえば、行動全てを正当化してしまい、誰かを傷つける行為でさえも正当化してしまう。その時土足で踏みつけて傷つけた人たちの気持ちを無視してしまえば、信頼されないだろう。けれど、過激な愛護団体は平気でそういったことを行ってしまった。それによって聞く耳を持たなくなってしまった状況がある。その人たちにいくら怒りをぶつけても、絶対に受け入れてくれないだろう。

 だからこそ、きちんと耳を傾けて、自分たちが変わらなければいけないこともある。もちろん、今回の場合は「動物園水族館の立ち位置が変わってきている」中で起きた、考え方の違いで起きたあの叱責ではある。あれを許す訳にはいかないし、見過ごしてはいけない。だからこそ、あの書面を出したのだろうと思える。お笑いを否定せず、けれど生きものたちを傷つけるようなことには協力しない。その姿勢であるということを表明する必要がある状況だった。

 僕自身、動物愛護や福祉の考え方をどのように伝えていけばいいのかが手探りな状況である。けれど、今回の場合は安全管理の問題でもあるので、「危害を加えかねない状況」にさせるのは人であってもペンギンであってもいけないことである、という考え方が動物福祉の考え方の第一歩であるということは伝えられることでもあるのだ。
 定義を色々な人に伝えるのは難しいけれど、「安心安全を守る」ということから「辛い状況で生かすことをさせない」ということまで、段階を
踏んで伝えられるようになれれば良いとは思う。

 生きることは、何かの犠牲の上に成り立っている。過度に犠牲に対して罪の意識を背負う必要はないけれど、きちんと認識しておかなければ犠牲になっていた存在から痛いしっぺ返しが飛んでくる。正義感で誰かを土足で踏み躙っても、同じようにしっぺ返しが飛んでくる。だからこそ、上手く向き合う必要があるのだ。

共感を得られるようなやり方を目指して

 人々の多様化に伴い、意見感想も変化している。あのやり方で笑いが取れていたのかもしれないけれど、誰かの大切なものを踏み躙るだけのやり方ではいけない状況になっているのだ。
 それに気付かないまま、それと同じように自分たちの感覚や正義感で動いている団体が未だ多い。しかしながらそのやり方は通用しなくなりつつある。いくら危機を煽っても、そこに関係する人達を傷付け、踏み躙るやり方ではいけない。
 例えば、ある資源大国が違う国に攻め込み、攻めた国に制裁を与えるために資源の輸入を止めたとする。資源を用いなければエネルギー供給ができない。その時に古い設備を用いてエネルギーを供給しようとした時にそれを批判すれば、攻め込まれた国の人たちにも影響が出かねない。環境問題も大事だけれど、目の前の危機も見過ごしてはいけない。遠くの知らない人を死なせる代わりに未来を救うということの欺瞞さが、何よりも共感を得られない行動にもなるのだ。

 人間は感情が豊かでもある。最近では怒りや憎悪を煽ってお金を稼ぐような人も出てきているほどだ。だからこそ、感情と上手く向き合う必要がある。共感を求めるのも、感情を動かす行為ではあるがゆえに危険な面もある。けれど、感情を動かさないといけないこともあるのだ。
 無機的に行っても人々は動いてくれないけれど、過度に感情的になりすぎてもいけない。理路整然としつつきちんと感情を動かすことができるようにするのはかなり難しいことではあるけれど、そこを目指さなければいけない。「笑い」も感情だからこそ、誰かに笑ってもらえる世界を作る上ではお笑い芸人だって力になれる。動物園水族館で感情を動かし、共感を得られるようにするには、そういった力も必要になるかもしれない
 そもそもの話として、マスコミは「マスコミュニケーション」の略である。多数との繋がりを意識せずに自分よがりな番組を作れば、「多数のゴミを垂れ流すもの(マスゴミ)」になりかねない。

 テレビなどのメディアには人の心を動かす力がある。番組を見て面白いと思ったり、感動したり、心が揺さぶられたり……。良くしたい、見てみたい、そういった気持ちも感情の一つでもある。だからこそ、報道や放映の意味を、テレビ側はきちんと把握し直して行動することを心がけてほしい。

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