二種類の読書【日記R6.7.20】
青春18きっぷで東京に出てきた。
急に関西に帰ってきて、宙ぶらりんになっていた東京の家の、なんというか落とし前をつけるためだ。
めずらしく予定通りの時間に家を出発できた。無事に郵便局にも寄れた。最高の気分でバスに乗ってJRの駅に出ようとしたところで、今日が土休日ダイヤであることに思い至った。さらば新快速米原経由近江塩津行き。早速予定は崩壊した。
まあいいや。東海道を上るだけである。どれだけ間隔が空く区間でも三十分に一本は列車が来る。なんとかなるだろう。実際、最近は東阪間を在来線で行き来する機会が増えすぎて、東京行きくらいでは列車の時間を調べないことも多くなってきた。
でもスマホの充電が二十パーセントを切っているのには参った。晩に充電していたはずなのだが、何かの拍子にプラグが抜けてしまったのだろう。
その上回線速度制限もかかっている。ツイッターなんかもまともに見られないので、持ってきた文庫本をひたすらに読み進めた。村上春樹の『1973年のピンボール』である。講談社文庫。
講談社文庫にはだいたい栞が挟まっているイメージだが、この本には入っていなかった。『1973年のピンボール』くらいひと息に読めということかもしれない。
村上春樹というと、好きな人はめっちゃ好きだし、嫌いな人はめっちゃ嫌いという印象である。
僕はというと、村上春樹のファンの一人である。村上春樹の小説や文章は、不思議といくらでも読むことができた。僕は車窓や川の流れなんかずーっと眺めていられる人間なのだが、そのときと同じような心持ちで村上春樹の作品をずーっと読み続けられてしまう。
同時に読み進めているのが、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』である。でもこちらは、最近そんなに読み進められていない。
理由は、端的に僕の心身の調子がそんなに優れないからである。村上龍の作品は、その作品と同じだけの力でぶつかっていかないと、すぐに読んでるこっちが呑みこまれてしまうという感じがする。
呑みこまれ振り回されながら読むのも悪くないとは思うのだが、そういう読み方をできるほど最近の僕は頑丈ではない。半病人なので。振り回された結果、本当に駄目な方向にほっぽり出される可能性がある。
ので、『コインロッカー・ベイビーズ』はゆっくりゆっくり読んでいる。なんだか怖いこと書いたけど、面白いですよ。
いくらでも読めてしまう、運命的に自分に合っているんじゃないかと感じる作品を流れるように読み続ける時間と、これは自分には合わないかもしれない、今の自分では力不足かもしれないと感じる作品をうんうん苦労しながら読む時間と。恐らく両方大事なんだと思う。
いま僕に必要なのは前者なのかもしれない。早く調子を戻して、後者のような読書もがしがしやれる人間に戻りたいものである。
ぜんぜん話が飛んでしまったが、無事東京に着いて、今この記事を書いている。大変な雨で街全部が水を吸い込んで湿りきっている。梅雨明けしたんじゃなかったの……?
おわり
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