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映画「あんのこと」について

久しぶりに、何の救いもない、胸糞が悪くなるばかりの映画を観た。

貧困は連鎖する。誰かを貧困から脱却させようと思うならば、家族を含む周囲の人間関係を一旦強引にでも断ち切って、正しい環境でリスタートさせるしかない。それまで帰属していたコミュニティの人間たちは、隙あらば元いた世界に連れ戻そうとする。それを排除するには、公権力を背景とした、かなり強引な手法が必要となる。

この映画を観て、そうしたことを改めて考えさせられた。

映画の公式HPに掲載されている、この映画の「あらすじ」をそのまま引用する。<21歳の主人公・杏は、幼い頃から母親に暴力を振るわれ、十代半ばから売春を強いられて、過酷な人生を送ってきた。ある日、覚醒剤使用容疑で取り調べを受けた彼女は、多々羅という変わった刑事と出会う。
大人を信用したことのない杏だが、なんの見返りも求めず就職を支援し、ありのままを受け入れてくれる多々羅に、次第に心を開いていく……(以下省略)。>

ヒロインの杏(あん)の周囲の大人たちが、どれも揃いも揃って、残念な感じなのであるが、まあ現実の世の中というのは、そういうものなのだろう。

いちばん厄介なのは、杏の祖母と母親である。彼女らが機能不全で、杏を搾取するばかりだから、杏はまともな人生を歩んで来れなかったのだ。特に母親がどうしようもない。実の娘に小6で売春を教えて、稼ぎは取り上げて、逆らうと暴力を振るう。自分の娘を「ママ」と呼ぶのも気持ちが悪い。母親としての自分自身の役割を放棄して、逆に娘に依存することを正当化する心理のあらわれであろうか。一見、孫の味方という感じの祖母もどうしようもない。彼女もかつては毒親だったからこそ、娘(杏の母親)の今があるのだから。

いずれにせよ、この3人が一緒に暮らしている限り、杏にまともな人生をリスタートさせるのは明らかに不可能である。そういう意味でも、多々羅と出会ったことで、彼女の人生は少し好転するかに見えた。

多々羅が主宰する薬物使用者の更生グループに入り、住むところ、勤め先を世話してもらい、定時制中学にも通い始める。このまま何事もなければ、杏の人生は、少なくとも祖母や母親とはまるで違ったものになっていたに違いない。

ところがである。杏にとっては、悲惨な境遇から救い出してくれた恩人であるはずの多々羅には裏の顔があって、薬物更生者の自助グループに参加した女性たちに性的関係を強要していたことが明らかになる。また、多々羅や杏と仲良くつきあっていたジャーナリストの桐野は、多々羅に関するリーク情報に基づき、多々羅のことを記事にするため、多々羅の身辺を調査するために近づいていたことがわかる。桐野の記事によって、多々羅は警察官の職を失ったばかりか、犯罪者として逮捕され取り調べを受ける立場となる。

信じていた相手に裏切られただけでも、杏にとっては相当な衝撃であるが、さらにタイミング悪いことに、新型コロナウイルスの出現によって、職場や学校という居場所までも失ってしまう。さらに悪いことは重なるもので、関係を断ち切ったはずの母親が、杏の居場所や勤め先を探し当てて、執拗につきまとい、彼女を連れ戻そうとする。

結末は敢えて書かないが、どうすれば、こういう悲惨な結末にならなかったのかなと思い悩んでしまう。

子どもは、親の所有物ではない。将来の社会の担い手であり、社会全体の貴重な資源みたいなものだから、社会全体で大切に育むというスタンスがまずもって不可欠である。したがって、親がクズで、子どもを正しく育てる能力がないということになれば、強権発動してでも、親から子どもを引き離して、公的な機関で正しく養育するしかない。

そう考えれば、杏のような子どもは、親から売春を強要されたり、薬物中毒になる前に、家族から引き離されていたはずである。世のヤングケアラーなんかも、あれは一種の児童虐待であると考えるべきであろう。

杏は、小学校中退の学力しかなく、難しい漢字もわからない。彼女の母親も、健康保険に加入しておらず、保健所の説明も理解できないとか言っていたから、同じようなものであろう。貧困を断ち切るには、しっかりとした基礎学力が不可欠なのだ。

基礎学力もなく、世の中の常識と呼べるような初歩的な知識もないのでは、自分を守る術がまったくないということになる。困った時には、周囲に助けを求めたり、相談すれば何とかなるかもしれないことさえ思いつかず、結果的には、寄ってたかって搾取されるしかなくなってしまう。

役所というか公的機関というものは、総じて、自ら「ヘルプミー」と声を出して助けを求めない限りは、何もしてくれないし、何も教えてくれない。しかしながら、声を出せるのは、そこそこ知恵も知識もある人間であり、何もわからない無知な人間は、助けを求める手段があることさえ知らないのだ。

そういう意味では、杏は社会の犠牲者である。

伝統的な社会的包摂性にもはや期待できず、というか、クズな親による誤った包摂性などはない方がマシである以上、社会全体でセーフティネットを構築するしかない。ただでさえ、すさまじい勢いで少子化社会に突き進んでいるのである。大事な子どもをちゃんと正しく育てるのは、大人全員の責務であるし、そうじゃなければ、将来の日本社会を担える人間がますますいなくなってしまうではないか。

ワープア層が少しでも減ることを願っているが、結局のところ、子どもを育てるのは誰の責任なのかという、すごく原初的なところの考え方を、社会全体で再定義しないことには、何も解決しないんだろうなあということを、この映画を観て再認識させられたように思う。

最後に、主演の役者さんたちについての感想。

ヒロイン杏を演じていた河合優実は、TVドラマ「ふてほど」でも好演していた若手女優。山口百恵似と言われるが、実年齢よりもあまりに幼く無防備に見えるところも含めて、彼女の役づくりの成果なのだとすれば、実にたいしたものだと思う。

多々羅役の佐藤二朗は、相変わらずの怪演ぶりである。池波正太郎の著書にもあるとおり、人間というものは悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事を働くものであるが、まさに単純な善悪の区別など拒絶したかような人物である。でも、多々羅の杏に対する献身的なサポートは、ヘンな下心なしの真心によるものであったと信じたい。

桐野役の稲垣吾郎は、こういう何を考えているのかよくわからない人物を演じるのが巧い。桐野はジャーナリストとしては正しいことをしたのだろうが、1人の人間としては自身の行動が引き金となって、杏の身に降りかかった過酷な運命を受けとめ切れず、果たして自分はどうするべきだったのか、この先も迷い続けるのだろう。

杏の祖母を演じた広岡由里子は、先日観た「ハムレットQ1」という芝居にも出演していた。孫とは仲良しのようだが、彼女が毅然としないこと、娘をちゃんと育てられなかったことが、孫を不幸に追いやったのだというところまで含めて、陰影ある人物になっていた。

杏の母親役の河井青葉は、本当にリアリティあるクズっぷりであった。学歴もなく、幾つになっても、女であることしか売れるものがなく、男はカネを巻き上げる対象としか見れず、日々、単に生きているだけの人物。彼女にとっては、娘は都合よく利用して搾取する対象でしかない。でも、彼女は未来の杏の姿でもあるのだ。

身勝手な隣人役の早見あかりは、映画の終盤で良い母親ぶりを演じていたが、あれは単に警察官に対する演技にすぎず、所詮は、杏の母親同様にどうしようもない母親なのであろう。そうでなければ、どんな事情があるとはいえ、赤の他人にわが子を押しつけたりはしない。

やはり、ここでも親から子への不幸の連鎖を断ち切らない限りは、子どもの幸せは望めないということを、この映画は示唆しているように思われた。

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