立川談春独演会~三ヶ月連続 人情噺~その三 「芝浜」他(@フェスティバル・ホール)について
昨日、12月28日(木)、先月の「文七元結」に引き続き、今月は同じ談春の「芝浜」を聴いた。前回は、森ノ宮のピロティホールであったが、今回は、大阪フェスティバル・ホール。座席は真正面、前から4列目であった。
前半、「蜘蛛駕籠」を演った後、「芝浜」についての解説が始まる。過去の「芝浜」、名人と言われた3代目桂三木助のもの、談春の師である談志のもの、そして自身のものについて個々に特徴を解説した後、どうして今回、従来の演り方を改めようと思い至ったかついての話となる。
今までの「芝浜」に登場する女房というのは、男性から見た「良妻」であったり、「可愛げのある妻」であった。モラハラ気味の夫と、献身的に仕える妻という関係性が、もはや現代の若い人たち、特に女性から見て、素直に受け容れられにくいのではないかという談春の思いが、今回の改変の背景にあるのだという。まあ、昨今のような生涯未婚の男女が増えている世の中において、結婚を良いものと素直に思えない人たちから見れば、「芝浜」で描かれるような夫婦のあり方に共感するのは難しいのかもしれない。
休憩を挟んだ後半に語られた、「これからの芝浜」は、そうした談春の考え方を反映してか、登場する夫婦の関係性が、より対等というか、バランスの取れたものとなっているような印象を受けた。
まず、気がつくことは、従来の「芝浜」の「見せ場」であった、主人公の勝が浜辺で財布を拾う場面とか、女房が亭主の勝に嘘をつく場面とかが、まったく省略されていることである。改変するにしても、この辺りのバッサリ具合は見事というか、大胆と言うしかない。過去の大家たちにとっての「聴かせどころ」をアッサリと棄ててしまっているのである。
また、女房と大家さんの語りによって物語が進行する場面が多く、従来と比べると女房の視点をベースに物語を再構成している。その辺りも、男女対等な関係性を観る側に感じさせる。むしろ、この新「芝浜」の主人公は、魚屋の勝ではなくて女房であると言っても良い。
従来の「芝浜」だと、主人公の勝がただただエラそうにしており、女房の方がモラハラ夫に虐げられてもただただ我慢する従順な女性であるのに対して、談春の新「芝浜」においては、女性側のしっかりとした意思が感じられる。元女郎として苦界で血を吐くような思いを味わって来た女房にとっては(女房を元女郎という設定にしたのは、談春のオリジナルである)、現状の貧しい生活でさえ決して不幸とは思わないのだが、店の1つも持ちたいという亭主のささやかな夢を知って、自分もそのために協力したいと思い立つ。10両盗ったら首が飛ぶ時代に、亭主の命を救うため、自分自身の判断で大家を伴って財布を奉行所に届ける。それでも亭主に嘘をついたことをずっと悔やんで申し訳ないと思っている。更生した亭主を見て、もう大丈夫だとすべてを白状したのも自分の判断である。従来のように、単に亭主の許しを請うだけの従属的な女房ではない。自ら主体的に考えて行動する現代的な女性なのである。
ついでに言えば、大晦日のシーンで終わらず、年を越して、正月2日の初売りのところまで物語は続くようになっている。また、従来ならば、主人公の勝は、女房から酒を勧められても、「よそう。また夢になるといけねえ」と言って、酒を飲まないのだが、新「芝浜」では、夫婦で酔いつぶれてしまうのだ。つまり、酒を口にしても、もはや元の飲んだくれに逆戻りしなかった主人公の更生した姿までを見せることで、よりポジティブな結末で物語を締め括っている。
新旧「芝浜」を比較して、どちらに軍配を上げるのかは、好みの分かれるところであろうが、僕には、新「芝浜」の方が旧作よりも好ましく感じられた。過去に、旧来の「芝浜」を同じ談春で聴いたことがあるが、亭主は騙されたことをひたすら怒り、女房を詰り、女房は嘘をついたことをひたすら謝るシーンが延々と続き、正直なところ、ちょっと不快に感じた記憶があったからである。結局のところ、旧来の設定においては、女房は亭主に従属する附属物のようなものであり、亭主に愛想を尽かされたら身の置き場のない存在だという価値観が所与の前提となっている。昔ならば、これで良かったのかもしれないが、今ならば違和感を感じる人の方が多いのではないだろうか。
拾ったおカネをネコババしていたら、命がなかったわけであるから、女房が身を挺して守ってくれたのである。女房のお陰で心を入れ替えて商売に励み、店を持つまでになったのである。冷静に考えれば、女房にいくら感謝しても感謝しきれないくらいの話なのである。にもかかわらず、「正しい」女房がどうにも可愛げがなくて、小面憎く感じる亭主の心情にフォーカスを当てたのが、従来の談志や談春の「芝浜」なのであるが、今の我々の感覚からすれば、こうした亭主の怒りは明らかに不当なものであり、見当違いだと考える方がごく自然なのである。
たぶん、語り手であると同時に、すぐれた批評家であり解説者でもある談春は、世間の価値観の変化を敏感に感じ取り、今回の改変に至ったのであろうが、もっと言えば、今回の「芝浜」とて完成形ではなくて、おそらく引き続き、さらなる微修正を繰り返しながら、より納得のいく姿に練り上げていくのではないだろうか。落語に限らず、古典というものは、時代のフィルターを通して、少しずつ成長し進化していくべきものだからである。そうでなければ、いくら過去の傑作といえども、ずっと生命を保ち続けることは難しい。
数年後、さらに進化を遂げた新「芝浜」を、改めてまた聴いてみたいものである。
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