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寅さん映画について

先日、テレビのチャンネルを回していたら、BSで「男はつらいよ」シリーズの第47作目、「拝啓車寅次郎様」というのが放映されていた。

僕は、「男はつらいよ」シリーズの映画の全48作品について、最初から終わりまで通して見たものは、おそらく1本もない。この日も、終盤の部分を見ただけである。通して見れない理由は明らかである。彼は他人に対しては親切だが、身内に対しては、とてもワガママである。単に外面が良いだけなのだ。一方、柴又の実家に帰ると、言いたい放題、やりたい放題で、見ていて不愉快になる。

この第47作が制作された頃になると、主演の渥美清の病状はかなり深刻であり、彼の負担を軽減するため、第42作(『ぼくの伯父さん』)以降の流れに沿って、甥の満男役の吉岡秀隆がメインとなるような設定になっている。

僕が、どうして、「男はつらいよ」シリーズの熱心なファンではないのかについては、先ほど書いた、外面の良さ以外にも、いろいろと理由がある。

1つには、予定調和的な世界観が嫌いだからである。毎回毎回、驚くべきほどのワンパターンで、意外性ゼロ。「釣りバカ日誌」も同様であるが、こういう映画に客が入ることに図に乗った結果、松竹映画は往時の勢いを失ってしまったのではないだろうか。

2つめの理由を言えば、(こちらの方が、より重要だが)そもそも、車寅次郎という人物が好きになれないことである。

彼は、いい年をして、ずっとモラトリアムを続けている。引きこもっていない「引きこもり」であり、家族の善意と負担の上に寄り掛かった「子ども部屋おじさん(おばさん)」と同じである。

ヒロインと良い感じになっても、必ず自分の方から身を引いてしまうのは、身を固めることによって、世間的な諸々の責任を果たしていく覚悟がないからである。

かと言って、彼は孤独ではない。カネはないが、貧困状態ではない。なぜならば、彼には、葛飾柴又に帰ろうと思えばいつでも帰れる実家がある。温かく迎えてくれる家族もいる。いわゆる「社会的包摂性」から切り離された、本当の意味での天涯孤独な社会的貧困層ではない。

要するに、恵まれた立場を温存しつつ、自分自身は何の責任も果たさぬまま、いい年になってしまった「甘えん坊」にすぎない。こんな奴が、身内にいたら、家族は本当に困ったことになると思う。

おいちゃん、おばちゃんは、いずれ亡くなる。亡くなる前に介護状態になったとしても、そうした厄介ごとは、すべて妹のさくらに任せきりであろう。

そうこうしているうちに、寅さん自身も身体の言うことが利かなくなり、フーテン生活もピリオドを打つ時が来る。そうなると、妹夫婦の厄介者になるしかない。彼は個人事業主であるが、ちゃんと国民年金や国民健康保険を納付しているかどうかさえ怪しいものである。

「おかえり寅さん」という映画があった。渥美清が亡くなってから20年以上が経過した、19年になって公開された映画である。おいちゃん、おばちゃん、タコ社長は既に亡く、さくら夫婦もすっかり老いて、満男はヤモメの子持ちである。寅さんの生死は不明であるが、さくらの「お兄ちゃんがいつ帰って来てもいいように……」というセリフがあったから、現在も放浪中、消息不明、生死不明という設定なのであろう。

しかしながら、「くるまや」もない状況で、年老いた寅さんに帰って来られても、家族の負担が増えるだけである。死んでくれていた方が良い。

少子高齢化、核家族化が進んだ現在、こういうフラフラした人物の面倒を見る余裕は、どこの家庭にもなくなってしまっている。こういう人物を主人公にした映画が、30年近くにわたり、48作品も制作されたこと自体、今となっては奇跡みたいな話である。

そもそも、テキヤのような反社会的勢力と見なされかねない職業で、しかも住所不定の人物を主人公に設定すること自体、コンプライアンス的にあれこれと叩かれてしまいそうである。

経済的にも精神的にも、何もしない人を受け容れるだけの余裕が、世の中から失われてしまったと言えそうである。

「トリックスター」というものがある。Wikipediaによれば、<神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者である。往々にしていたずら好きとして描かれる。善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、異なる二面性を持つのが特徴である>とある。文化人類学的な知見によれば、既存の秩序の外部に存在して、既存概念とか社会的規範を破壊したりすることもあるが、社会に活力を与えたり、変革を促したり等、一定の重要な役割を果たしているとされる。

車寅次郎は、一種の「トリックスター」であると言えよう。つまり、自分の身内としては決して歓迎できるものではないが、世の中全体としては、こういう人物も何らかの役割を果たしているのだと考えるならば、そうした社会のはみだし者を飼っておく余裕がなくなってしまったことからも、閉塞感が漂う、生きづらい世の中になってしまったと言い換えることができるのかもしれない。

そう考えると、この「男はつらいよ」シリーズの映画が製作されたいた時代、つまり高度成長期からバブル期を経て、バブル崩壊に至る頃の日本は、現代に比べると、まだまだいろいろな意味で世の中に余裕があったと言えるのかもしれない。

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