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大学の学費について

「国立大の学費を年150万円に上げるべきだ」という趣旨の、慶応義塾の塾長の提言に対して、世間が騒がしい。もちろん、その多くは、批判的な声である。

私学の雄である慶應の塾長の発言であることが却って災いしたのか、「国立大学のことを、あれこれ言う前に、お前のところの学費を値下げしろや」といった、感情的なリアクションも少なくないようだ。

だが、この記事などをよく読むと、彼の言うことにも一理あるなあと思ったので、この記事を書いてみることにした。

彼の話の趣旨を要約するならば、概略、以下のような内容になる。

  • 高度な大学教育を実施するには、おカネがかかる。理系学部を持ち、スポーツ施設も備えるならば、学生1人当たり年間300万円くらいは必要である。

  • 国立大の学費は年間およそ53万円で、国から平均して年間230万円程度の公費支援があから、1人当たり約290万円ということになる。

  • 国立大の学部生は全体の16%にすぎない。受益者負担の原則からすれば、負担能力のある人は、ちゃんと自分で費用負担してもらいたい。

  • 一方で、経済的に少しでも困る人に対しては、給付型奨学金を充実させることを検討すれば良い。

  • 国公立大に公費が投入されるのは当然であるが、問題は自己負担の額に(国公私立で)差があることである。これが平準化されることで、国公私立を問わず、健全な協調と競争が促される。競争の過程で生き残れない大学は淘汰されるのもやむを得ない。

  • 地方の空洞化を避けるために、地方国立大の学費を首都圏国立大よりも安価に設定するとか、進学率が低い県や、若者の流出が激しい県には、優遇措置を講じる等、国による学費のコントロールは重要。

こう書くと、別に無茶苦茶なことを主張しているわけではない。むしろ、きわめて常識的なことを言っているに過ぎないという印象である。「国立大学の学費を150万円に」という部分だけを意図的に切り取って、マスコミが悪意をもって煽っているような印象さえ持ってしまう。

国立大学の現在の学費(年間50万円強)が、高いか安いかについては、各家庭の経済状況によって、判断に差が出るのは仕方がない。私立大学との比較とか、国際的な比較においては、まだまだ安いということになるし、大昔の国立大学の学費の水準と比べたら、ずいぶんと高くなったと言うこともできる。

ちなみに、僕が大学生の頃の国立大学の学費は、年間18万円であった。当時の物価感覚でも、これはかなり安かったのは事実で、なんと月額15千円である。だが、これでさえも当時としては、「ずいぶんと高くなった」と言われていたものである。僕よりも5年くらい前に入学した先輩は、実に年間36千円しか払っていなかった。さすがにこれではあまりに安すぎるということで、少しずつ値上げするようになったと聞いている。曖昧な記憶であるが、この当時の私大文系の学費は、年間50~60万円くらいだったと思う。

質の高い教育を実現するためには、おカネがかかるという意見には全面的に同意する。慶應の塾長の、「学生1人当たり年間300万円くらい」という主張は、文系も理系も平均した数字であるから、理工系や医学部などは、これよりも遥かにおカネがかかるに決まっている。日本の大学が海外と比べて地盤沈下しているのは、文科省が大学教育とか研究に対する予算をケチっているのと無関係ではない。教育や学術研究というのは、将来の国力を下支えする基盤であるから、いくら国の財政が赤字であるとはいえ、そこは支出を絞れば良いというものではないと思う。「米百俵の精神」なんてキーワードを使った首相もいたが、本来のありようとしては、今の生活を切り詰めてでも、未来を担う若者への教育に対しては投資するべきなのだ。

一方で、受益者負担の原則というのも理解できる。経済的に余裕のある家庭出身の学生には、しっかりと応分の負担をしてもらうべきである。有名大学に進学するには、幼少期からの受験勉強の積み上げが不可欠であり、難関大学になるほど、学生の出身家庭の世帯年収は高いというデータも示されている。国立大学だからと、全員一律で学費を低水準に抑える必要はないのかもしれない。

ただし、学費を負担する余裕のない学生に対しては、給付型奨学金を充実させなければならない。既に、東大では、親の年収がおよそ400万円未満ならば、授業料を全額免除する制度が導入されているという。同じような制度を、他大学にも導入すれば良いのだ。

ただし、「給付型奨学金」であるというのが重要なポイントである。前にも書いたように、日本の現行の奨学金制度は、実態は「奨学金」ではなくて、「学費ローン」である。支給対象者の資質や資格要件については、厳しく審査すべきだあるが、優秀で学ぶ意欲も旺盛でありながら、経済的に恵まれないような学生については、きちんと救済できるような制度は絶対に不可欠であろう。

併せて、国の政策的な判断に基づいた、学費のコントロールを行なっていくという考え方も重要なポイントである。

慶應の塾長の言うように、「地方の空洞化を避けるために、地方国立大の学費を首都圏国立大よりも安価に設定する」とか、「進学率が低い県や、若者の流出が激しい県には、優遇措置を講じる」といった施策も、着眼としては悪くはないのだが、地方国立大学医学部を卒業したって、都会の病院で研修医になる若手医師は多い。臨床研修から専門医という後々のキャリアパスを考えれば、多くの症例に触れられる都市部の大病院に籍を置くメリットは大きい。同じように、学費に釣られて地方大学に進学したところで、就業機会が乏しければ、結局、若者をそのままその土地に定着させることは難しい。

したがって、学費を下げれば、地方大学に進学する若者が増えて、地方に定着する若者が増えるだろうから、地方が活性化するというような発想は、ちょっと単純素朴すぎるような気がする。この辺りは、もっとよく考えるべきだろう。

一方で、国として優秀な人材を育成したいと考えているような分野、たとえば、データサイエンスや、IT分野、基礎研究等に関しては、学費を思い切って格安あるいは無料にするとか、それどころか奨学金を付与して、大学院博士課程まで進学したら返済を免除するとか、もっと大胆な政策があっても良い。

戦前の学校制度では、師範学校や軍関係の学校は、学費は無料で、それどころか諸手当が支給されたという。貧しい家庭の子弟が、身を立てるために、そうした学校に進学したという話はよくある。司馬遼太郎の『坂の上の雲』にも、秋山兄弟の兄、秋山好古が、最初、師範学校に入ってから、さらに陸軍士官学校に進んだというエピソードが書かれていた。

現状では、理系の優等生がこぞって医学部に進学してしまっているが、数学や物理が得意な人材が医学部ばかりに進学するのは、ハッキリ言えば、人材の無駄遣いである。もちろん、誰にでも医者が務まるとは思わないが、こうした風潮と、日本の産業界や科学分野での国際的な地位低下とは無関係とは言えないような気がする。

ただし、どういう分野に重点的に予算を投入するのかという判断を、文科省の役人に委ねるのは大反対である。文科省の役人に中長期的なビジョンや見識があるとは思えないからである。かと言って、有名大学の先生たちを集めた諮問委員会みたいなところで議論して決めるのも、いかがなものかと思う。どうせ、声の大きなボス的な学者の意見ばかりが尊重されて、我田引水的な利益誘導が行なわれるに決まっているからである。

今の大学生が世に出て、社会で活躍するようになるのは、10年先、20年先の話である。現在の時点で社会で大いに需要のある分野が、その頃も同様である保証はない。結局のところ、どういう分野に「鉱脈」が転がっているのかなんて、誰にも予測できないのだ。

であれば、いっそのこと、いろいろな分野の先生方に集まってもらって、公開プレゼンをやってもらい、その光景をYouTubeで流して、「高評価」の数で決めるというような、思い切ったやり方の方が、むしろ健全かもしれないし、そういうやり方で浮かび上がる「集合知」というものは、あながち馬鹿にはできないという気がするのだが、いかがなものであろうか。

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