女性作家へのインタビューにおける記者による外見の描写について
作家のインタビューを読んでいると気付くことがある。女性作家はしばしその佇まいや外見について文中で触れられるのである。写真があるからそういう記述は必要ないわけだし、写真がないからといって、文章を商売道具にする作家には身だしなみを整えたり見栄を気にしたりする必要はない。
女性作家がそうした好奇の目線にさらされるのにはどのような理由があるのか。具体例にあたりながら、考えてみたい。
こちらは言わずと知れた人気作家である宮部みゆき氏へのYahoo! ニュースによる取材である。記者はYahoo!から依頼された独立の人物であるようだ。インタビューでは宮部みゆき氏に作品を通した社会への繋がり方や訴え方について問いかけている。大衆小説はもちろん、社会的に深刻なテーマを扱う宮部氏の作家性を知るのにはとても助かるインタビューとなっている。
私が着目したのは、途中に出てくる記者の次のコメントである。
目の前にいる宮部さんは、小柄で上品な女性だった。穏やかな雰囲気で、時折、コロコロと笑いながら話す。その姿と、ときに社会の重いテーマを題材に人間のどす黒い感情を描く作品性は、すぐに結びつかない。
記者はインタビューの臨場感を記事に持たせようとしたのであろうか。宮部みゆき氏はインタビュアーを通して読者にも語り掛けてくるのだから、彼女風貌を描くことでその効果を高めることはできるだろう。
また、「小柄で上品な女性」が「社会の重いテーマ」や「どす黒い感情」を描くという対比により意外性や驚きを演出し、宮部氏の作家としての偉大性を演出したいのかもしれない。まさか小柄な女性が重厚なテーマを描けるとは。
この「驚き」が成立するためには、読者と記者との間に「女性」が社会的に深刻なテーマを扱うことはあまりないという共通認識があることが前提となる。つまり、筆者は暗に、「宮部氏は女性であるにも関わらず、重厚なテーマを取り扱うことができる」というメッセージを、それをすんなり受け入れるであろう読者へと発信しているのでる。「小柄で上品」な女性となれば、なおさらその意外性は驚きを持って読者によって迎えられる。
反対に、男性作家は重厚なテーマを取り扱うことが多い、あるいはそうすることに秀でいているという読者と記者の共通認識もまた透けてくる。ドストエフスキーのように深刻な顔をして男性の象徴たる髭を蓄えている作家なら、あるいは夏目漱石のように微妙な表情を浮かべて片肘を机に付いているような作家ならば、社会的問題について熟慮しているとしても不自然ではない、といったところだろうか。
私たちは確かにこうした前提を共有しているように思う。男性作家の方が社会的問題を取り扱うのにより秀でいていると。しかしその前提が真実であると信じる必要はない。それはあくまで認識なのであって、事実かどうかは分からない。
単純にこの問題を量的なものでとらえるのであれば、それは事実である。なぜなら、そもそも男性作家の方が社会的にその作品を認知されることが多いのであるから、結果として作家として大成するチャンスも増え、より多くの作品を出版できるのだから。
しかし、「小柄で上品な女性」が深刻な作品を書くことは「意外」なことであるかどうか、これには絶対的な判定を下すことはできないはずである。作家はその頭脳で作品を創作する。私たちの身体が、創作という重労働のストレスによって、顔に皺をより多く刻んだり、髭を生やしたり、佇まいをどこか近寄りがたいものにするのであれば、確かに「小柄で上品な女性」が深刻な文学作品を生み出すことは「意外」である。だがしかし、私たちの外見はそう簡単に変わったりはしない。誰も作家の頭脳の働きをその外見から知ることはできない。外見も、そして性別も、作家性を物語るものではない。
こうした「作家の素顔」に関する記述に私たちが出くわすのは、結局のところ先述した思い込みが私たちの認識を歪ませているからに他ならない。
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