見出し画像

『自分を知る』~始まる~

皆さん、こんにちは。楽しく過ごせていらっしゃいますか?

なんて言ってみたが、このような品のある言葉を日常では、まるで発しない人間であることを、初めにお伝えしておきたい。なのに文章にすると、つい出てしまう不思議がある。

と、いうことで「心の先生」である、人生を大きく変えることになった先生と出逢い、なんとか自分の住む町にも先生は来てくださることになった。もともと、先生は人に何かを教えることが嫌いだと言われていた。それは、

「みな、完璧な存在なのに、誰が、誰に教えることがあるの?」

ということを言われていた。また、自分を知りたいのであって、今も尚、自分がなりたい自分になるために、学べる人を探しているし、どんな方も先生であること。

そこに年齢も性別も関係がないこと。自分がどこまでやれるのか、常に挑戦されていた。そんな考えの人間を見たことがなかったし、先生の感覚や考えというのか、先生の感じている中身の話は、どれも衝撃的であったし、驚きとワクワクで、私は本当に高揚した。

先生と出逢うまでの自分の事も、お伝えしようと思う。10代の頃の私は、アリを見ると、同じ時を生きているのに、明らかに人間とは違う生き物や昆虫を見ては、思うことがあった。

人間に簡単に住みかを壊されたり、殺されたり、オモチャのように扱われる姿は、ふびんに思えたし、かわいそうだし、こんな小さな存在に対して、自分が人間として生きていることの境遇の差を感じていた。

「ではなぜ、私はアリではないのか?もしかしたら、アリになる可能性もあったのではないか?では、なぜ、人間として生まれているのか。では、アリは不幸な生き物なのか?といって、悩んでるようにも見えない。

感情もないだろうから、苦しくもないのか?とにかく、ここまでの境遇の差はどこから来ていて、なぜ、私は人間として生まれているのか?誰かが私を人間として生まれていいと許可したのか?

とにかく、どういう理由があって私は生きているのか?たまたま生まれて来たのか?いや、そんな簡単な理由ではないはずだがな。」

こう考え出すと、あるところで、思考が停止していた。これも不思議だった。意図的に、これ以上考えられないように、急にストップがかかるようであったし、私は私であることを認識できなくなる感覚になり、

「え?私は誰だっけ?私は、え~っと、名前は何だっけ?」

みたいになっていた。だから、この疑問を考えないようにしたら、日常に戻れた。だが、この疑問は消えることがなく、ずっと知りたかった。そして、この繰り返す疑問に答えてくれる人も、本も、教科書にも出会えなかった。

当時の私は、幸せになるためなら、なんでもしていた。こんなこともあった。

幸せになるために『ありがとう』と、ものすごい数を言っていくと、人生がどんどん変わる。みたいなことを伝えている本があり実践してみた。確か、何千回か、一万回だったかは忘れたが、まず、数百回目で、

「何をやっているのだろう?」

と、急に冷静になってしまうのだ。それでも気を取り直してブツブツ言っていくのだが、一万回には、ほど遠く、

「そこまで行ってないから、邪念などがよぎるのだ。その回数を超えたら、私の何かが変わるかもしれない。素晴らしい人間、美しい考え、人格、感謝しかしないような自分になるんじゃないのか!」

みたいな期待があったが、実際に感謝する内容もないのに、ただ「ありがとうございます。」などをつぶやいていても、

「そもそも、ありがとうございます。とか、思ってないよな。」

と、冷静になったりしてしまう。

「いや、その数に到達してないからだ!」

と、自分への𠮟咤を繰り返し、続けていくうちに、一向に変わらない現状と、果てしない数の「ありがとうございます。」に、果てしない道のりを感じ、道、半ばで断念した。

当時、流行っていた「ありがとうオジサン」ならぬ方が提唱していた「ありがとう」を言うだけの壁は、非常に厚いことを知っただけで終わった。当時はまだ、それを言っただけで変わるはずがないことも知らずにいたので、ただ自分の根性のなさに嘆くだけだった。だが、心の奥底では

「こんなことを言うだけで人生が変わるか?そんなはずがないだろう?」

と全く信じてない自分がいたのに、その心の声を押さえつけて、実践していた。あらゆるスピリチュアル系の本を読んできたし、般若心経を空で読み、墓参りをし、手を合わせまくり、玄関に塩を盛り、町では大きめの通りに面した仕事場だったにも関わらず、白衣のまま玄関前で柏手を打ち、仕事に臨んでいた。

今、考えたら、20代の白衣を着た者が、塩を盛って、真剣な表情で柏手を大通りで打っている姿は、当時、通勤時で車から見ていた人からしたら、

「よほどの不幸事があったんだろうな。」とか、「気が病んでいるんだな」としか見られない。

神社の前で巫女の姿をしている方が行うものとは、まるで違う状況である。それを毎朝、皆から見られる玄関先で、せっせとやっていたのである。間違いなく、おかしい人だったのである。

こうやって、幸せになるために、あらゆることを実践してきたが、ことごとく、うまくいかなかった。

「もう、無理だな。結婚相手も見つからないし、仕事も限界だ。もう、やめるしかないな。ふぅっ。両親に、なんて言えばいいのだろうか。」

と、人生を諦めた時に先生と出逢った。私は仕事柄、多くの人間と接してきた。大金持ちから、スポーツ選手、社長に、芸能人から、低所得で、孤独に生きているおばあちゃんから、男性だが、女性の心を持つ方。当時は「ゲイ」と呼ばれていたが、どの方も色んな事を教えて下さったし、色んな人生を見せて頂いた。

ただ、なぜ生きているのかに、疑問を持つ方が、まず、いなかったし、そんな話が出来る方とも出会えなかった。だからこそ先生に出逢え、中身を聞いたときに「この人だっ!」と、私の中にある嗅覚が「間違いない」と叫んでいた。

「嫌い、嫌い、大嫌い。」

と言われただけで、引き下がるような私ではなかったのは、ずっと探していた人だったからだと、今ならよく分かる。それから、このお話し会のようなものをすることになったのは、先生が始めようとしたのではない。

若い頃の先生と、たまたま出会い、それ以降、先生を追いかけ、何かにつけて、そばで先生を見ていた方が「悩んでいる方が沢山いるから、そんな方々に教えてください!」と、頼み込んでいた方がいた。

先生は、そもそも人に何かを教えることが大嫌いだったから、断り続けていたそうだ。そして48歳の時、「自分は、本当に何もできない」と気づき、仕事をやめ、今後をどうしようかと思っていたか、模索していたと聞いた記憶がある。

そして、ずっと誘い続けている方のオファーを、自分が本当に出来るのかや、人の人生に介入することに関して1年以上考え、両親への説得も1年以上やり「では、3年だけならやりましょう」と「3年間だけ」の約束で始まったのである。

そして私は、その3年目の7月頃に出逢えた。その「お話し会」では、当時、先生は参加者から参加費も頂かず、宿泊や交通費も自腹で支払い、毎週、通っていたと聞いている。

今、思えば、「わざわざ、遠方から来ていただくのだから、交通費だけでも支払おうよ」と言う声が出ない人間の集まりにも驚くが、実際は、そんな方々が集まっていた。

そのうち「先生には、会費を取って貰った方がいい」という話になり、月に5,000円だけ徴収する事になり、1ヵ月に何回、参加してもいいという激安価格で、お話し会は続けて下さっていた。

「もう、みんなは、2年以上経っているから、質問もないんだよ。」

みたいに話されたときに、飛びついた。

「だったら、質問だらけの私なのだから、私に質問させてくれ!皆、質問もなくて、話してるだけなら、私が質問をしまくっても問題ないだろう?絶対に、その会に参加したい!」だった。

開催される場所は、私には県外になるが、私には、どうしても必要だった。3年間という約束の期日が来るまでの、残り全てに参加したかった。土日など、仕事が休みの日は行けたが、平日に2泊3日で、開催されることがあった。

どうしても行きたくて、平日に仕事を休んだことのない私だったが、仕事は父に雇われる形でもあり、責任者の立場でもあったので、父の承諾を得なければならなかった。

父は真面目に仕事をしてきた方だったし、簡単に仕事を休むことを承諾するタイプでもなかった。またゴリゴリの亭主関白だったので、小さい頃から、父は怖い存在でもあり、休むことに非常に抵抗がある自分でもあった。

だが、先生と出逢い、このチャンスを逃すわけにはいかなかった私は、初めて、父に土下座をして頭を下げた。当然、なぜ、仕事を休んでまで行くのかと、問い詰められるが、納得させられる理由も、当時の私は出せなかった。「行かせてください」と頼むしかなかった。

私は、ただ先生に会いたかった。なぜかは分からないが、どうしようもなく惹きつけられてしまう、この衝動を抑えることが出来なかった。プライドの高い私が、正座をし、頭を下げてまで「行かせてください!」と言うわけなので、父も驚いたことだろうと思う。

頭を下げることのなかった私が、こんな態度をとる自分にも驚いた。今、思えば、私は自分がしたいと思うことは、反対されても、やり通してしまうクセがある。

これは、周りに多大な迷惑もかけてしまいがちだが、自分に正直に生きるために、自分が欲するものは、まず、やってみなけりゃ分からないし、やって後悔したほうがいい。そうして動いた事に対して、後悔することは何もなかった。

先生は「バカなほうがいいんだよ。」と、よく言われていた。私は間違いなく「バカ」だった。でも今は、そんな当時の私を、自分で認められるようになった。「バカで良かった。感じたまま、動いて本当に良かった。」と思える。

そして、父の承諾を無理やり得てから、2年以上前から参加していた方々とも出逢っていくことになる。そして、ここでも衝撃的な出逢いが待っているのだった。

私は、意気揚々と参加し、先生が座る、なるべく、ど真ん中を陣取り、ブリブリのスカートと、ネチネチの女女全開で参加していく。そして、私は、そこにいた参加者全員に嫌われていくことになる。

こうして、私の「自分を知る」が始まったのである。

世の中には、様々な人間がいること。その中で先生は、何を伝えてくださり、私は何を知っていったのかを記憶をたどりながら、お伝えしたいと思います。

今回は、このへんで。
それでは、また。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?