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志賀直哉×里見弴×暗夜行路⑦



ここで扱う資料の関係を整頓しておこう。


今回の記事では、志賀の「暗夜行路草稿」と里見の作品を対比させていく。
混乱を避けるため、資料を整頓しておこう。

興味のない方は下図だけざっくり見てもらって、上の目次から次の章まで飛ばしてもらって大丈夫です。

ざっくり言うとこう


このうち、「腐合いと蝉脱」は現存しないが、かなり重要だ。
四十年ほど前まで存在すらはっきりしなかった。

志賀、里見二人の作品や日記から、以下のことはわかっていた。

  • 明治四十五年になってから、里見は自叙伝的な作品(A)を書いていた

  • 同年の九月二十一日に、志賀は里見の書きかけの「腐合いと蝉脱」(B)を読んだ

  • 同年の十一月二十七日に、里見は志賀と自分の関係についての作品(C)を書くと言っている


 
Cが「君と私と」であることはあきらかだったが、AとBについては、A=Bともそうでないとも不明だったのである。
しかし昭和五十七年、里見の未発表の初期作品が発見され、そのなかにAと見られる作品が含まれていたことで、やっとそのあたりが把握できるようになった。
AとBは別の作品で、さらにBはCの前身とも言える内容を持っていたのである。

整頓すると、

  • A……「小説二十五歳まで」。明治45年に書き始める。二十五歳までの自叙伝。成長史のようなもので、未完。志賀が怒ったという話は伝わっていない。今回はあまり関係ない。志賀の怒り度☆☆☆☆☆(0)


  • B……「腐合いと蝉脱」。現存せず。明治45年、Aを中断したあとで書き出した。自叙伝的な小説で、志賀に「本当のことを白状しようとし(善心悪心,17)」た。「君と私と」の一部になっているのかもしれない。これを読んだ志賀と一ヶ月絶交。志賀の怒り度★★★☆☆(3)


  • C……「君と私と」。Bのあとで書き始めた。Bで書こうとしたことをさらに突き詰めたものと考えられる。大正二年四月~七月、白樺に連載し、志賀とのケンカで中断。十月に次の原稿を書き上げるが、原稿が印刷所で紛失し、そのまま未完で終わった。現在に至るまで原稿は発見されていない。志賀の怒り度★★★★☆(4)


  • 「善心悪心」……大正五年執筆。Cの続き的なもの。大正四十五年の春からの里見の生活をモデルに書き起こされ、A、Bの執筆についても含む。志賀の絶縁状を受け取ることにもなった。志賀の怒り度★★★★★(5)

Aは『雑記帖』に収録され、出版されている。
しかしBは現在も見つかっていない


にもかかわらずBの存在がわかっているのは、志賀や里見の著作・日記で触れられているからである。Bの内容についてある程度くわしく書知りたければ、おそらく現在のところ志賀の「暗夜行路草稿」にあたるのがいちばんだと思われる。
それによると、Bはかなりの部分で、C=「君と私と」六月号の内容と重なっていると判断できる。

・Bを読んだことで志賀は立腹し、のちに「暗夜行路」につながっていく
・Cについても、志賀が最初に怒りを爆発させたのが六月号=Bと重なる内容

これらからすると、B、Cに対する志賀の怒りには共通したものがあると見ていいだろう。


次に、志賀の作品も見ておこう。
今回の記事で登場するのは、おもに以下の通り。

  • 「廿代一面」……明治四十五年の志賀の生活を、里見との関係を軸に描く。大正十一年の執筆だが、原型は明治四十五年に書かれた。里見はAの執筆期間で、ケンカはしておらず、平和。


  • 「暗夜行路草稿」……かの名作「暗夜行路」の草稿。Bを読んだあと立腹し、里見と一ヶ月ほど絶交。Bを読んだ経緯や心境などが子細に書き込まれている。


  • 「「君と私と」の私に」……「君と私と」に書いた抗議文。未発表。


  • 「モデルの不服」……同抗議文。白樺の大正二年七月号に掲載された。



ここに示したふたりの各作品は密接な関係にあり、同じできごとをそれぞれの筆で描いていることも多い。
最初の衝突は重要なので、流れを追ってきっちり押さえながら読み比べることで、ふたりの実際の関係を見通してみたい

そうすることで、以下の三点が明確になるはずだ。

  • 里見の記述と違って志賀が里見に入れ込んでいたこと

  • その思い入れが具体的にどのような行為となって表出していたか

  • 結果として里見がなにに苦しんでいたか





さて、では次の文章を見ていただきたい。


以下の文は、志賀に立腹している里見の心境をうつしたものである。


あの男は 自身が今まで欺かれていた
ことを怒っているのだ。
ボンモーラリストなのだ! 

然しそれはお前だけの
もう古いモーラルなんだろう? 

私までを 同じモーラルの中に
ウジウジさせようというのは
それは僭越な心じゃないか? 

お前は お前の狭い小さなモーラルを
どれだけ離れて純粋に 
私の作物(※腐合いと蝉脱)を、芸術として
味わう事が出来たのだ? 

「つまらない問題とは思わない」
イヤな評で、不快だけを見せて黙って了った。

そうしといて、あとは又いつもの身勝手で、
イヤだという私を無理に
こんな所まで引っぱってきた。

あの男は自身 不愉快を与えて置きながら、
それで、私を離して了うのが不安なんだ。

それでいて 何処までも脱ごうとはしない
あの兄貴顔の面。

もうあの面には飽き飽きだ。
単純な よきモーラリストよ、
お前は何処までも
私の手を離そうとはしまいが
この腐れ縁は もう私には
進歩に邪魔になっているんだ

志賀直哉「暗夜行路草稿」『志賀直哉全集 補巻3』岩波書店,2001
141-142


なかなか強烈な批判である。

「ボンモーラリスト」がちょっとわかりづらいが、前後の使われ方からすると、フランス語で「良き道徳家」、実際は皮肉で「旧来の道徳観に縛られた古い男」という意味だと思われる。
 
実は、これを書いたのは里見ではない。
志賀だ
「暗夜行路草稿」の一部なのである。
自分で里見になったつもりで、里見の不満を想像して書いているのだ。

それは大正元年9月、里見の「腐合いと蝉脱」を読んだあとのことだ。
このあとで二人の間にいさかいが起き、それが大正5年の絶縁に至る長い長いケンカの幕開けとなるのである。

どうしてそういうことになったのか。
「善心悪心」や「暗夜行路草稿」で、なりゆきを確認してみよう。
 




①里見が「腐合いと蝉脱」を持って志賀の部屋へ来る。


時系列としては、この記事の第三回の続きとなる。
明治45年、のっぴきならないものになっていた志賀との関係に向かい合うため、里見は「腐合いと蝉脱」という作品に着手した。

推測だが、「小説二十五歳まで」を書きあぐむうちに、志賀との関係が焦点として浮かび上がってきたのかもしれない。
八重との関係を隠そうと志賀をだましているかぎり、志賀と真っ直ぐに向かい合うことはできず、自由に小説を書くこともできない。
そう考えたのではないか。

たったこれだけの嘘で、なぜそこまで気に病むのか、と疑問に感じるかたもおられるかもしれない。とてもよくわかる。
しかし、悩むだけの理由があったことは、のちほど判明する。

さて、里見は、のっぴきならない現状を打破する一助にしようと、「腐れ縁と蝉脱」を執筆する。
そして、大正元年(明治45年)9月21日、志賀に読ませるために志賀邸へ向かった。


ここですでに、「善心悪心」と「暗夜行路草稿」には小さな食い違いがある。
どちらも、里見は電話で約束をしてから志賀家に行ったことになっている。
だが、かけた側と内容が違うのである。

里見によると、電話をかけたのは里見のほうだ
原稿を読んでほしいと伝えると、他の友人が来ているからと志賀に渋られるが、里見はあえて「腐合いと蝉脱」を抱えて出かけていく。

一方、志賀によれば、志賀の方から電話をかけ、渋る里見を熱心に誘ったことになっている。

信行(※志賀)よりは五つ年下の友達(※里見)が
入って来ないと 何となく
物足らない気がされたのである

信行は電話口へ行った。
其所へ出てきた坂口(※里見)は
いかにも勢いのない声をしていた。

「今、少し長いものを
書きかけて居るんだ。
それで昨夜も夜明かしをした」

彼はこんなことを云って
出かけることを渋った

信行は、
「無理には勧められないが」と
云いながら、もし坂口が来ないと
自分達の一日が如何にも半端なものに
なりそうな気がする
ので
矢張り我儘な調子で来ることを勧めた

坂口も仕舞に、
「そんなら出来ただけ持って行って
読んでもらおうかな」
と云った。

志賀直哉「暗夜行路草稿」『志賀直哉全集 補巻3』岩波書店,2001、333


「暗夜行路草稿」では、里見を呼ぶ場面は稿を改めて何度か書かれている。
稿によって切り口は変わるが、いずれにしても、志賀が誘い、里見が渋るという構図は常に変わらない

どちらが正しいか、これだけでは決められないが、執筆時期は里見が4年後、志賀が数ヶ月後~翌年なので、志賀の記憶のほうが正確に近いのではないだろうか。

前回指摘したように、里見が志賀の側の干渉を捨象して書こうとしていたとすれば、この場面もそうかもしれない。
とにかくいずれにしても、この時点では些細な違いだが、ふたりの認識のズレは衝突に向かって徐々に大きくなっていく。



②志賀が「腐合いと蝉脱」を読む



このとき里見が持参した作品は、
・「蝉脱とずるずるべったり」(「善心悪心」)
・「蝉脱」(「暗夜行路草稿」)
と、作品によってタイトルがアレンジされているが、同日の志賀の日記には「腐合いと蝉脱」とはっきり記されている。

志賀は原稿を受け取ると、友人たちを置いて隣室で一人になり、さっそく「腐合いと蝉脱」を読みはじめる。
描かれているのは、志賀も関わった数年前の出来事だった。
志賀は読みながら自分でも記憶を蘇らせていく。

作中に、八重の妊娠がわかり、里見が志賀に相談する場面がある。
「君と私と」にもそのできごとが描かれているのだが、「暗夜行路草稿」と微妙な違いがあるため、比べてみよう。


まず里見の文を引用する。

午後 俊之助兄(※生馬)を
尋ねて来た君(※志賀)を
廊下で待ち受けた。

一寸ちょっと
「用?」
一寸ちょっと

君は 兄に あとからそっちに行くからと断って
私と一緒に洋館の応接間へ這入った。

火の気がなく氷室のように
冷え切って居た。
君の目が訊ねるように私の目を見た。

「子供が出来ちゃった」
「何時解ったの?」
「今朝」

(……)
君は、違う原因で同じような徴候を
現わすこともあるが
確かにそうだろうかと云って危ぶんだ。

もう仕方がない。
子供一人ぐらいどうにもして行ける。
こうも云った。(……)

「まァ悪いことじゃァないんだから
安心して居たまい。
なり行きに委せるサ」

こう云って君は 兄の待って居る方へ行った。

里見弴「君と私と」『明治文学全集76 初期白樺派文学集』筑摩書房,1973
,246


続いて「暗夜行路草稿」。
数パターンあるが、最もよくまとまっていると思われる、最後の稿を紹介する。

(……)
信行(※志賀)が後になって(※生馬と一緒に)
中程で折れ曲がった細い段々を降りて来ると、
段の下に通路をよけて
坂口(※里見)がボンヤリと立って居た。

坂口は先に立った兄をやり過ごした所で、
眼も一緒に使って
小声で「ちょっと」と云った。

其時 信行は
何か只事ではない事が起ったと思った。

彼は俊夫(※生馬)に
直ぐ行くからと断って
自ら先に立って 傍の応接間へ入って行った。(……)

坂口は青い顔をしていた。
彼は窓を背にしたソーファに
沈むように腰を下ろした。
信行も並んでそれへ腰を下ろした。

坂口は青い顔に絶望的な微笑を浮かべて、
「例の奴に子供が出来たらしいよ」と云った。

信行は直ぐ返事が出来なかった。(……)

而して 其女が未だ
子を生んだ経験がないのかとか、
そうとすると、他の原因を
そう思い込んだのではないかしら、と
いうような事を訊いて見た。(……)

坂口は黙って一間ばかり先の床に
焦点のない視線をやっていた。
信行もソーファに背をつけたまま、
眼の隅から其の様子を見て 黙って居た。

彼は心から坂口が可哀相になった。

「兎も角ももう少し確かめ玉えよ。
それからの事だ」
といった。

彼はそれを
慰めるようにいう気だったが、
反って荒々しい怒ったような語気でいった、
「医者に診て貰うのさ」と附加えた。

坂口は返事をしなかった。

其時 信行は側の壁の、丁度
坂口の居る上に高く懸けられた
能の面を見ていた。

口を開いて意地悪るそうな表情をした面で
薄暗い中から
ギョロリとした恐ろしい眼で
坂口の頭を見下ろしているのが
坂口の罪を責めてでもいるような気が
信行にはした。

信行は反抗するような心持になって、
下からそれをにらんでいた。

「君は今晩 美音会に往ってるネ?」

と坂口は急に身を起こした。

「往ってる」
「じゃあ其の時
もう少しハッキリした事を知らせよう」

こういって彼は立ち上がった。

志賀直哉「暗夜行路草稿」『志賀直哉全集 補巻3』岩波書店,2001
,345-347


読み比べると、ふたりの描写には違いがあるのがわかる。

里見の書いた方では、志賀は他人事のような反応をしている

一方、志賀の認識では志賀なりの同情もし、助けようという気もある。「意地悪るそうな」能面が「坂口の罪を責めてでもいるよう」に「恐ろしい眼で坂口の頭を見下ろしている」のを、「反抗するよう」に睨み返したりもしている。

能面や、冷たい応接室は、里見の父の好みで固められているわけで、能面の眼は里見の父、ひいては世間の「目」の象徴とも言えるだろう。

未婚の女性を妊娠させるのは、当然、今以上に不品行と見なされる時代だった。
その相手が八重である以上、通常のなりゆきとは違うが、その事情は人々の知るところではない。里見が「罪」を責められるだろう予測はついた。

その眼を、志賀は「反抗する」ような気持ちで睨み返しているわけで、ここには他人事という雰囲気はない

里見としては悩みで頭がいっぱいで、志賀の気遣いが見えなかったのかもしれないし、志賀がうまく優しくできなかったということもあるのかもしれない。または実際は理解していながら、他の部分での書き方に合わせてあえて書かなかった可能性もある。

どれが正しいとは言えないが、少なくとも志賀が里見に対して思いやりと心配りを抱いていること、それは指摘できるのである。


③志賀はウソを告白される


赤ん坊は流産だった。
八重は里見にそう告げ、ちいさな遺体を託す。里見は遺体を家墓におさめることとし、その場は一段落ついた。
作品に書かれたそれらの事実は、志賀もすでに知っていたことだったが、聞いていなかった事柄もそこにはあった。

志賀は初めて、関係を持っている相手が女中の八重だったこと、あざむかれていたことを知る

志賀は、「気が沈」み、「立腹」し、「不愉快」と「侮辱」を感じる。
そして思い出す。
以前里見に連絡せず、駆け込むように里見の部屋を訪れたさい、部屋の中で何か話していた里見と八重とが口をつぐんでサッと振り返り、そのときに「自らを侵入者として感じた」ことがあった。

あの時から気がついていたのだ
そうでなく云ったから(……)信じていた

なのに……と、「愚痴っぽいような心持」で志賀は思いを巡らす。(暗夜行路草稿137)

ところで、友人から騙されていたとわかって良い気持ちがしないのは理解できるのだが、志賀の反応はなかなかウェットではないだろうか

ウソと言っても、いわばセフレを「いやいや、君の知らない人だよ」とごまかされていたという中身で、害意のあるものではない。
志賀自身、事情は知らないにせよそりゃ言いにくいだろう……とそれなりに想像も付けているし、しかも当人は強い罪悪感を示しているのだ。

しかし、志賀はグチグチと悩む。
「愚痴っぽさ」は、志賀が傷ついて、事実と感情を処理するのに時間がかかっていることを示している。

志賀は「暗夜行路草稿」で、ふたりの関係を「特別な関係として考えていた」からショックだった、と書いている。
仲間の内でも特に、里見との関係には「決してウソはないという前提が、何故か動かし難いものとしてあった」(暗夜行路草稿137)。

そして「イリュージョンが破れた」と書く。
以前もご紹介したが、志賀は若いころの思い出として、
里見に重すぎるイリュージョンを持っていた
と書いている(「正誤」)。

里見の告白は、志賀にとっては単なるセフレの話などにとどまるものではなく、里見に対して抱いていた全的な信頼と絆の感覚を、根っこから揺るがすものだったということになる。

であるなら、里見が「君と私と」で志賀に対して見せた罪悪感の根深さも理解できる。

志賀はそれほどに里見を思い、信じている。里見はそれを理解している。
そのすべてを裏切ることになってしまう。だから悩みは深かった。
結果として、里見は自分を「生一本な君(※志賀)」をたくみに「綾なして居る手練女ではあるまいか」とおもうほどの罪悪感を抱き、志賀に真っ直ぐ向かい合えなくなったのである。

もうひとつ、このとき里見は重要な事実を伏せていた。
里見は、相手が八重であるとだけ伝え、経緯は書かなかったようだ。
嘘をついた理由も、「みっともない相手だから言えなかった」と説明した。
そのため、志賀は裏切られた気持ちが強く残ったようだ。

ここで本当のことを言えていたなら、そのあと、なにかが違っていたのかもしれない。
 

さて、志賀の耳には、隣室の里見が将棋を指しているのがふすま越しに聞こえている。友人たちと冗談を言い合う声に、志賀は苛立たしさを感じる。
「俺が怒ることがわかっていて、落ち着かなくてああしているんだろう」

しかし、志賀によれば、ふすまを開けて隣室の友人たちの顔を見ると、気持ちが切り替わったという。

志賀は、「ああ、寒かった」と微笑して肩をすぼめながら、里見に原稿を返した。
「どうだった?」
と不安げに上目遣いで聞かれ、言いにくそうに、
「あれだけじゃ、まだ、一寸云いにくいね。全体出来た時云おうか」

それは作品への肯定を期待していた里見にとって、残酷な言葉だった、と志賀は書いている。
「云う事はあるんだ。今度いおう」
志賀は褒められない気持ちを顔に出し、里見はうなずいた、という(暗夜行路草稿138-139)。


では里見のほうはどうか。

(※志賀が原稿を読み終わるのを待つ間、
その怒りを予想して落ち着かず、
気を紛らわそうとして過ごしている)

四年の間 親しい友達に
偽られていたことを知った時には、
人を信じることの厚い佐々(※志賀)は
可なり不愉快な心持にされた。

その上、読み終ってから
もとの座敷へ帰ってみると、
そこでは昌造(※里見)が
だらけ切った冗口むだぐちをたたいていて、
てんとして恥じる色もなかった。

佐々は大抵の場合
この年下の友達に対して
兄貴らしい愛情や寛大や、
尚また相応の尊重をも失ったことはなかったが、
この時には彼を下等だと思った。

「どうだったい?」

と昌造が殊更
平気を装って訊いた時に、

「そのうち、ゆっくり話そう」

とただ一言いっただけで、
あらわに苦り切った顔をしていた。
(……)

昌造は(……)しきりにはしゃぎ始めた。

「蝉脱とずるずるべったり」を読んだ後で、
佐々がさして不機嫌でもないのが
昌造には嬉しかった。


と同時に、友達の目色を窺うような己の態度に
はげしい不快をも感じた


酒がその不愉快に働いて、
ガサツな無神経な
酔漢をこしらえた。

里見弴「善心悪心」『日本現代文学全集50』講談社,1963,17



志賀の怒りがどれくらい顔に出ていたかは、それぞれ主観の違いだろうが、しかし、ここでもやはり里見は自分に対してかなり手厳しい評価を加えていることがわかる。

少なくとも、志賀は苛立ってはいるが、里見の態度に落ち着かない気持ちがあることを察し、特にそのことへの不快感は示していない

一方、里見の書くところによれば、志賀は里見の態度を「だらけた」と評し、内面を察することなく軽蔑している

このように、里見の視点は一定して、志賀の目を通して自分を厳しく評価しているといえる

そしてこのあたりから、二人の認識の違いもだんだん大きくなっていく。
ギャップは、次のくだりで決定的になる。



④友人たちと吉原へ行く


さて、この後ふたりは何も知らない友人たちと酒を飲みに出かけ、吉原見物へ向かう。 
ここから、先ほどの「ボンモーラリスト」の引用場面に続く。


雨もよいの暗い夕方だった。志賀と里見は、友人たちと四人で吉原の通りを歩いて行く。
吉原の通りには灯がついている。木格子の向こうはけばけばしくあかるく、華やかに着飾った花魁たちが声をかけてくる。
里見もその光に照らされながら、木格子の前をゆっくり歩いて、花魁たちに軽口を返している。

吉原のようす。葛飾応為 吉原格子先之図

志賀は暗い場所で立ち止まり、なかなか追いついてこない里見を振り返って待っている。
どうしようもなくイライラしている。そして思う。
里見はいま頭の中で、志賀にイライラしている。
だからあんな態度を取るのだ。きっとこう思っているのだろう。

あの男は 自身が今まで欺かれていた
ことを怒っているのだ。
ボンモーラリストなのだ! 

然しそれはお前だけの
もう古いモーラルなんだろう? 

私までを 同じモーラルの中に
ウジウジさせようというのは
それは僭越な心じゃないか? 

お前は お前の狭い小さなモーラルを
どれだけ離れて純粋に 
私の作物を、芸術として
味わう事が出来たのだ? 

「つまらない問題とは思わない」
イヤな評で、不快だけを見せて黙って了った。

そうしといて、あとは又いつもの身勝手で、
イヤだという私を無理に
こんな所まで引っぱってきた。

あの男は自身 不愉快を与えて置きながら、
それで、私を離して了うのが不安なんだ。

それでいて 何処までも脱ごうとはしない
あの兄貴顔の面。

もうあの面には飽き飽きだ。
単純な よきモーラリストよ、
お前は何処までも
私の手を離そうとはしまいが
この腐れ縁は もう私には
進歩に邪魔になっているんだ

志賀直哉「暗夜行路草稿」『志賀直哉全集 補巻3』岩波書店,2001
141-142


そう、この文章は、志賀による「イライラしている里見の頭の中」の想像なのである。

実はここには、重要な記述がある。
この時点で、志賀は、「里見にとって志賀は邪魔になってきて、捨てようとしている」と感じているのだ。
このあたりはまた別に章をもうけて掘り下げていくが、ともかく里見からのウソの告白に、自分との関係を清算しようとしている気配を感じ取ったということだろう。

長い目で見ると、志賀の予感は正しかった
しかし、このときはまだ里見自身も、まだそこまではっきり意識していたわけではなかったのではないか。

「善心悪心」によれば、実はこのとき里見は志賀への苛立ちを感じていたわけでもなく、また「志賀を捨てる」というほど明確な意図を持っていたわけでもなかった。

里見は、ただ単純に志賀が「さして不機嫌でもないのが」「嬉し」く、同時に、志賀の感情をうかがうような自分が腹立たしくて、悪酔いではしゃがずにはいられなかった。それだけだった。


里見は、安堵と自己嫌悪のイライラを抱えている。
着飾った遊女たちに酔い紛れのむだぐちを投げつけながら、ふらふらと、格子に身体をすり寄せるようにして、明るく華やかなあかりの中を歩いている。

一方、小暗い場所に立つ志賀は、里見の嘘に傷つき、怒り、それを腹の底に秘めて、格子の前にいる里見を見つめている。
里見が自分を捨てようとしていると考えながら。
志賀自身はどこまでも里見の手を離そうとしないつもりだというのに、里見からは捨てられようとしている……。

先達としての志賀にコンプレックスを持ち、追いつけない里見、という図は「暗夜行路草稿」にはない。
ここでの里見はもはや志賀を追い抜こうとしている。関係に見切りをつけようとしている。志賀はそのことに激しく苛立つ。
里見にこだわり、離すまいとしている者としての志賀の姿が、志賀の文章からは現れてくるのだ。

志賀の煩悶は、鏡の中の迷路のような、出口のない煩悶である。

兄貴分という顔で里見を振り回し、里見に見切りをつけられかけてなお、里見の手を離すことができない男。
それが志賀本人の見ている志賀の姿なのである。
そのことが、志賀をどうしようもなくイライラさせる。

個人的に、ここのエモさはゆうに米十年ぶんくらいはある。
これだけで、恋か恋でないかなどもうどうでもよくなるのだが、一応書き始めてしまったので話を続けよう。
このあと、志賀の鬱屈はさらに高まり続ける。


⑤「熊みたいな手」



彼らは雨を避けて茶屋の座敷に上がり、芸者を呼んで遊ぶことにする。
あるゲームの最中に、ついに志賀のイライラが頂点に達してしまう。

ゲームというのは、「白銅渡し」とか「銀貨隠し」などという、お座敷遊びの一種らしい。
一口で言えば、誰が手の中にコインを隠しているかを当てるゲームだ。

このゲームの最中に、里見が志賀の手をさして、「その熊のような手!」と言ったのである。

「登喜ちゃんの左り、――へえ。右、――へえ」

坂口(※里見)はこういって自分の指を二つ折った。

「大津(※志賀)にもどうせないネ」
と(……)いって、また

「へえ、其の熊のような手を両方(開いてみせて)」
といった。

順吉(※志賀)は黙って
無骨な大きい手を
膝の上で両方とも開けた。

志賀直哉「暗夜行路草稿」『志賀直哉全集 補巻3』岩波書店,2001
,150


この場面だけでも、志賀は何度も書き直している。
稿によっては里見の手を「小さい器用な手」や「白い手」とも書いており、とにかく「熊の手」発言の印象を強調し、自分の感覚を説明するためにこだわって推敲していることがうかがえる。
よほど不快だったのだろう。

里見の「熊の手」という一言は、この華やかな席で、わざと志賀をみじめな気持にさせようとして言ったのだ、と志賀は受け取った。

その晩、志賀は気に入った芸妓がいた。
登喜子という。
「登喜子に対する甘ったるい気持ちと、坂口に対する苦い気持ち」が同時にあった、と志賀は書く。
もう恋はしないだろうと思っていた志賀にとって、それは数年ぶりの恋に似た感情だった。里見に見抜かれ嘲笑されて、志賀を馬鹿にする目的で「熊の手」と言われたように思い、それもまた志賀の不快をあおった。

数日後には登喜子への甘い感情もイリュージョンだったと気付くのだが、里見へのイリュージョンが破れたその日の夜に、新しく出会った女性へ数年ぶりの甘いイリュージョンを抱いたことは果たして偶然だっただろうか。

想像ではあるが、登喜子への甘い気持ちと里見への苦い気持ちは、実は表裏一体だったのではないだろうか。

ところで、里見のほうは本当に志賀への悪意を抱いていたのだろうか。
実は志賀の思うような底意は何もなかったらしい

登喜子を気に入っているらしいとは感じながらも、せいぜいふたりをくっつけて坐らせようとするなど、中学生のようなからかいかたをしたくらいで、嘲笑する意図はなかった。
悪酔いではしゃいでいただけだった。

銀貨隠しの遊びをしていた時に、
佐々の拳固を指して、
その熊のような手!」
と言ったのも、(……)

昌造の心持には、無遠慮すぎたという以外には、
全く咎められるべき
何の他意もなかった

里見弴「善心悪心」『日本現代文学全集50』講談社,1963,18


前述したとおり、里見にあったのは安堵と自己嫌悪だったから、志賀に攻撃を向ける必然性はなかったのだろう。

こうして、「腐合いと蝉脱」を読んでから志賀の中に高まりつつあった不快感は、「熊の手」でさらに深まることになる。

しかし、この場でケンカが始まったわけではなかった。
志賀はこの後、理解できない心理状態にとらえられることになる。

ところで、「暗夜行路草稿」中で主人公の名が「大津順吉」だったことにお気づきだろうか。
最初のアイディアとしては、志賀は、私小説「大津順吉」の続編として里見との対立を書こうとしていたのかもしれない。




⑥離れられない心情



そのままお座敷でにぎやかに遊んだ翌朝も、志賀は苛立ちの中にいた。
こういうときは、酒と縁のない真面目な武者小路実篤のところに遊びに行けば気分も変わるだろう。
そう考えついた志賀は、武者小路に電話をかけて居場所を確認する。
「今すぐ来てもかまわないよ」
と言われるが、志賀は断った。

なぜか。
里見がまだいるからだ。

志賀は苛立ちを抱えながら、座敷に戻る。

信行(※志賀)は一刻も早く
坂口(※里見)と別れたかった。
 (略)
左う思いながら、彼には何故か
「別れよう」と云い出す気がしなかった


これ程の気分でいて、又それを
カナリ露骨に現わして居ながら
何よりも早い「別れる」という事が
何故こうも困難なのか自分でも解らなかった


彼はこれまでも坂口との関係で
殊にこういうことの
多かった事を想い浮かべた


腐縁と二人はそれを云っていた
ことなどを想った。

(志賀直哉「暗夜行路草稿20」『志賀直哉全集補巻3』岩波書店、2001,375)


結局、解散して里見が帰宅するまで、志賀は惨めささえ感じながら、一緒に過ごした。

里見にとってみれば、その夜の里見は、悪酔いしてはしゃぎ、無遠慮すぎた。ただ、志賀の思っているような悪意はなく、志賀の味わっていた苦痛も気付いてはいなかったようだ。

ここまで来ると、振り回しているのは里見の方になる。
あいてへの感情で身動きできなくなっているのは志賀のほうだ。


二、三日後、志賀から手紙が届いた。


あの晩 君が僕に対して為た
下劣な『心の遊戯』で
僕は君に対して
可なり不愉快を感じている。

そしてその心持を今
小説に書きかけているから、
当分 君とは会いたくない

里見弴「善心悪心」『日本現代文学全集50』講談社,1963,18)

そんなふうなことが書かれていたという。
「暗夜行路草稿」によると、それは「一ト月の生活」というわりあい長めの作品だったという(「暗夜行路草稿」241)。

しかし里見は、志賀との関係に変化が来ることはどんなものであれ望むところだったから、「さしてそれを苦にもせず」、日常生活を続けた。

ここもまた、里見との関係について考え続けている志賀と、さして苦にしていない里見の姿が見られる。

そのときの絶縁は、志賀の大正元年の日記で、

  • 9/21「腐合いと蝉脱」を読む

  • 10/19 ほとんど一ト月ぶりで会う

ということを確認でき、およそ一ヶ月ほどだったことがわかる。

この数日後にはまた、「行きたくない」とぐずる里見を志賀が強引に連れ出して横浜に行ったりしており、関係は復調している。
だが、ふたりの問題は解決していなかった。
だからこそ、里見はこの翌年、「君と私と」に着手することになるのである。

十一月、志賀は東京を出て尾道へ移った。
この尾道で、志賀は「暗夜行路草稿」を書き始める。
内容から、「今書きつつある」と里見へ告げた試みが反映されていると見ることができる。
のちに、評論家の中村光夫は、「暗夜行路」の構想を「君と私と」に対する反論、反駁と見ることができる、と述べている。

推測ながら、「一ト月の生活」と、その後の父との衝突を合わせて、さらに深めていこうとしたのが「暗夜行路草稿」だったのではないだろうか。
始めは主人公の名前が「大津順吉」となっていたところからすると、私小説「大津順吉」の続編として構想されていたのかもしれない。


こうして、1937年の完成に至るまで、約25年にわたる志賀の「暗夜行路」は始まった。
同様に、大正5年の絶縁に至るまでの、二人の長い長い「暗夜」行路も、始まったのである。

これが、明治45年(大正元年)に二人の間で起きたことだった。
大正元年は、里見が変化のための第一歩を踏み出した年であるとともに、志賀がそれまでのありかたに行き詰まりを見出した、重要な年にもなった。
そのためか、この時期を舞台にした二人の作品は多い。

相手の変化が自分にも影響せずにはいられない。ふたりの距離がいかに近かったかも察せられるのである。


ここまで来ると、二人の関係について、イメージがだいぶ変わってしまった方もおられるのではないだろうか。

里見による志賀の感情の記述に反し、志賀自身は里見に強い思い入れと執着を抱いている

志賀は里見を特別な相手として信頼し、手を離すつもりはなく、どんなに不愉快でみじめな思いをしても、里見から離れることができずにいる
しかし、里見は志賀を古い価値観の持ち主として見下し離れることを望み、志賀を不愉快にさせようと心のゲームを仕掛けてくる

志賀は、里見から離れられない自分の行動を自分でコントロールすることができずにいる。志賀にしてみれば、里見こそ自分を振り回していると思えただろう。

実は、二人の間のこの認識のギャップが、絶縁に至るケンカの大きな理由にもなっている。そして「イリュージョン」。
二人の絶縁の理由は、大正元年、いちばん最初の時点ですでに形になってあらわれていた。
それがどういうことかは、「暗夜行路草稿」のもっと後ろでわかることなので、そのときに検証しよう。
とにかく言えるのは、二人の抱えていた問題は、この最初の小さな衝突の時点で、すでにその形があらわになっていたということだ。

今は、この志賀の思い入れと執着が、どのように二人の間に表出していたかを見ていきたい。
実はそれこそが里見を苦しめていたのである

ひとまとめに紹介したかったが、だいぶ長くなったので、次に回そう。
次回は志賀のわがままのようすと、里見の悩みの実態を見ていく。


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