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そこのあなた、ちょっと里見弴について知りたくないですか?(志賀直哉編2)


旅行で距離が近づく


志賀直哉に恋ごころを持っていた」。
里見弴が何度かそう書いている、と前回ご紹介しました。

里見はその時期を、13歳前後と記しています。
前回、少年時代の里見がスポーツ万能の志賀に憧れ、お稚児さんにしてほしいと願っていたエピソードをご紹介しましたが、ちょうどそのころのことだと思われます。
志賀は実際かなり運動神経がよかったようで、そのころ学習院の棒高跳びの記録保持者だったそうです。

里見の話によれば、志賀は棒高跳びの跳び方も独特でした。
通常は、バーの高さに合わせてポールをグリップしてから走り出すものですが、志賀はちがうのです。無造作に助走し、ポールを地面についてジャンプすると、空中でポールを軸にして、ひょいと身体の位置を修正し、楽にバーを越えていたそうです。志賀のずば抜けた身体能力をうかがわせる話です。

長身のイケメンで運動神経も抜群。
となると、里見少年が憧れを抱くのも納得ではないでしょうか。

そして同時に、里見が作中に書けたのも納得するのです。
現代では、同性に恋ごころを持っていたということはなかなか公表しづらいでしょうし、わざわざそんなことを言わなくても……という感じでしょうが、なにしろ学生男色が普通だった時代の作品です。
まだ13歳の幼い恋心――ということであれば、当時の人々には学生ならではのほのぼのとした思い出、と見えたのではないでしょうか。
里見にとっても読者にとっても、現代そうであるような、「特別」な告白ではなかったのかもしれません。

もちろんそれを抜きにしても、誰それに恋していた、というような個人的な事柄を告白するのは勇気がいることです。なのになぜ里見が作品に書いたのかというのを、このあとお話していきましょう。

かっこいい先輩に対するほのかな憧れ。そんなかわいい話のはずが、これから事態はどんどん深みにはまってゆきます

さて、生馬が留学した翌年、志賀は学習院高等科を卒業しました。
このころに、それまで付き合っていた後輩と別れたようです。
理由ははっきりしませんが、おそらく志賀の学習院卒業も関係あったでしょう。学生の間だからこそ、男同士の恋は許されていた部分もあるからです。

そこから志賀は二つほど女性との恋を経験します。
本題からそれるのでここでは触れませんが、そのようすは「大津順吉」などで読むことができます。
この当時の志賀にとって、里見はかわいい弟的存在ではあっても、難しい相談をする相手ではなかったようです。

状況が変わったのはその翌年
高等科に進んでいた里見は、志賀とともに関西徒歩旅行に出発します。
のちに一緒に白樺を立ち上げる木下利玄をまじえ、三人で半月ほど大阪や京都、高野山などをめぐって歩く旅です。

ねんねこばんてんを引きずって歩いていた小さな里見も、もう20歳
大人になっていました。

ところで、年齢が合わないのでは? と思う方がおられるかもしれませんが、明治時代の学習院の高等科は年齢的に今の大学1、2年生くらいにあたり、在学中に20歳を迎えることになります。
さらに志賀は、学業の成績は悪くなかったのですが生活態度がよろしくない(授業中、勝手に教室を出て行ったりしていたため)ということで2年留年していましたので、二人の学年上の差は3歳差に縮まっていました。

この旅行中、志賀は里見の成長に気付いたようです。
それまでの、子どもを扱うようだった態度が変わり、対等に扱い始めます。二人の距離は今まで以上に近くなり、「兄弟」から「親友」へと変化します。
里見はふたりの変化を、「君と私と」という作品でこう書いています。

――いつの間にか
齢にしては怜悧な言を云うようになった
「親友の弟」の顔を、
驚嘆と愛好と満足とを現して
余りに率直な君の眼が見た。

(里見弴「君と私と」)

旧仮名遣いや旧字は現代のものにあらためてあります。
「君」は志賀のことです。
里見の成長に気付いたあと、志賀の好意が増していったことがうかがえます。

また、二人のあいだには「心がピッタリと合って共に呼動するような瞬間」もしばしばありました。
「世界一」という短編には、志賀と里見が鳥取砂丘であそんだことが書かれています。二人は手をつないでジャンプしたり、砂の上にひっくり返って声をそろえて大笑いしたりと、子どものように無邪気にはしゃいでいます。
まるで心がひとつになったような強烈な幸福感が伝わってくる作品です。

「世界一」は、時系列的にはもう少しあとのできごとです。
しかしこのような「共に呼動する」体験によって、ふたりの間がどんどん近づいていったと考えられます。
実際、志賀の日記を調べると、この旅行のあとあたりから、里見とそれまで以上にひんぱんに会うようになっています。ときにはほぼ毎日。
白樺を創刊する仲間たちが大勢いるなかでも、里見と最も会っていたことがわかります。
この状況を指して、二人は「友達耽溺」と呼びました。


共依存の迷路に


さて、ここまでの期間で、二人は白樺の仲間たちと出会い、親しく付き合い、文学について語り合うようになっています。漠然としていた将来の夢も、文学へ向かうようになっていきます。

志賀と里見は、遊郭へも足を運ぶようになります。遊郭というと風俗遊びのようですが、今の風俗とは違い、男女の出会いが限定されていた時代の遊郭は、恋愛の感覚を提供してくれる場所でもありました。
当時の小説において、性愛の問題は避けては通れなかったのです。

小説を書き、友人たちと白樺を創刊する。
夢と希望、喜びを抱いた青春の日々。そのはずでした。
しかし、次第にふたりはにっちもさっちもいかない泥沼におちいっていきます

二人は毎晩のように、別れがたく街をさまよい歩くようになります。
ふたりのあいだには、会うと離れがたく、その引力を自分の意思ではコントロールできないという「化学作用」がありました。

何時間も歩いたあげく、深夜になって、行く場所もなくなる。互いに疲れ切って不機嫌になっても離れることができない。
やがて志賀は「うちへ行こう」と言い出すのですが、あまり頻繁に志賀の家に泊まるために、有島家は里見が志賀と会うことにいい顔をしなくなっていました
それがわかっているから、里見としては家に帰りたいのですが、志賀はしつこく食い下がる。しまいに里見の腕や肩を抱きこむようにして、志賀家へ連れて行くのです。そうなると里見には、もう逆らうことができません。
これがお決まりのパターンでした。
自分で自分をコントロールできず相手にとらわれてしまうその感覚を、ふたりは、女郎蜘蛛の巣にからめとられた状態にたとえています。

実は、このあたりのことは里見の小説「君と私と」にくわしく書かれています。


今年の5月に、中公文庫から新刊(!)で出ています(私も解説を書かせていただきました)ので、できればこちらで実際に読んでいただきたいのですが、里見が精神的に志賀に強く束縛されていたようすがうかがわれます。

やがて里見は、「このままでは精神的に志賀に殺されてしまう。それくらいなら、志賀を殺して自由になりたい」とすら願うようになりました。

二人の関係は、もはや共依存と言っていい状態でした。

「どうしてそうなったのか」は掘り下げるときりがなく、様々な意見もあるでしょう。
のちに志賀は、当時里見に「重すぎるイリュージョン」を抱いていたと書いています。
私はこれは、志賀の苛烈な自我から発していたもので、ともに生きる相手と一体化するという欲望や理想を里見に押し付け、結果として里見を束縛していた、というような意味合いに解釈していますが、このへんはぜひ、二人の著作を読んで読者の皆さんそれぞれに想像していただければ嬉しいところです。


生馬が反対する


明治43年、白樺を創刊した年。生馬が帰国してきます。

志賀は再び生馬とべったりに帰るかと思われましたが、そうはなりませんでした。離れていた間にそれぞれの個性がはっきりしてきたためか、志賀は生馬とは合わないと感じていました。次第に生馬とは距離を置き、反発すらするようになります。

それは生馬も同じでした。
焦点の一つが里見との関係でした。

元気な弟と会えると思って帰ってきた生馬が目にしたのは、鬱々として不健康な里見の様子でした。遊郭へ通い、志賀と連れ立って行動することで、生活のリズムもすっかり狂って体調も悪くしていたのです。

生馬は志賀を責めます。
弟の面倒を見てやってくれと頼んだのに、志賀が連れまわして弟をダメにしている、というのです。
一方の志賀は「自分たちには自分たちの考えがある」と言い返し、口論も起きるようになります。

さらに里見の目には、生馬の心配は、自分に対する子ども扱いと映りました
そのため里見も生馬に反発するようになります。とは言え、そこは明治の士族の家で上下関係がはっきりあるからでしょうか、正面切って兄とけんかすることはなかったようです。

志賀の束縛、家族との軋轢、放蕩からくる不健康。
それらが絡まって、里見の苦しみは深くなっていきました。
志賀との関係を何とかしたい。もう絶縁することになったとしてもかまわない。
その思いを、里見は文学に賭けます
小説ですべてを告白しようとしたのです。

この小説によって、志賀は「絶縁してもかまわない」という里見の思いを感じ取り、激怒することになります。
続きは次回。


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