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そこのあなた、ちょっと里見弴について知りたくないですか?(完結編)



前回、無事(?)に絶縁した志賀と里見ですが、それからどうなったのでしょうか。
絶縁中にもなかなか面白いエピソードがありますので、いくつか見てみましょう。


絶縁中のふたり


絶縁したばかりだというのに、それからすぐにふたりは顔を合わせてしまいます。
白樺の仲間たちの集まりがあり、そこにふたりとも参加していたのです。
互いに顔を背け、挨拶もせずに、里見はすぐに帰宅。以来、白樺の集まりから距離を置いて、泉鏡花や久米正雄ら、あらたな文壇の友人たちとおもに付き合うようになります。
ただ個別の友人とは会っており、武者小路実篤から復縁を勧められたりもしていたようですが、里見は頑として断りつづけました

里見は、志賀からのハガキを机の引き出しにしまいます。
そして、怠け心が起きたり、くじけそうになるとハガキを取り出し、怒りをかきたてて、「志賀に負けてたまるか」と再び仕事に向かっていたそうです。

対する志賀は、本人の弁では1年から1年半ほどで怒りが落ち着きます。
実は、ハガキから1年半経った時期に、里見はジフテリアから丹毒を発症して危篤におちいっています。このことも志賀の怒りを落ち着かせるのに役立ったかもしれません。

また、この時期、志賀は「暗夜行路」を執筆しています。
ご存じのとおり志賀直哉の生涯唯一の長編で、日本近代文学の金字塔とされる作品です。
この始めのエピソードは、里見との喧嘩を下敷きにしています。実は中村光夫や平野謙らそうそうたる文芸評論家が、「暗夜行路」に対する里見弴の影響を指摘していますが、ほとんど研究が進んでいません。卒論テーマに悩んでいる文学部の学生さんは、ぜひチャレンジしてみられてはいかがでしょうか。

こんなありさまですから、ふたりはさぞかし険悪だったろうと想像されるところですが、意外とそうでもなかったようです。
志賀は絶縁中に、「白樺の仲間の作品とは言え、全員のものを読んでいるわけではないが」としたうえで、里見の作品はほぼすべて読んでいると書いています。

また学習院の後輩は、志賀家に泊まった際、寝る前に「これは里見の新作」と志賀から渡され、翌朝顔を合わせるなり挨拶もそこそこに「どうだった?」と聞かれたと書いています。

里見の方も、一度も志賀の悪口を言ったことはないと、里見の友人が証言しています。

互いに相手の夢を見ることもあったようです。
志賀は里見と仲直りして許し合う夢を見る、だがいつも目が覚めて夢とわかる、と手帳に書いています。里見も志賀と昔のように語り合う夢を見ると書いていますが、こちらは、かつてのように気が引けている自分を感じると腹が立ったりしています。

つまり絶縁したからと言って、犬猿の仲になった……わけではなかったのです。この辺りもふたりの関係の複雑さを感じさせます。

あるとき志賀は、赤坂で観劇して劇場を出たところで、人ごみの中に里見の後姿を発見します。志賀は「あの寂しがり屋の里見が、一人でいる」と胸を突かれ、しばらくその場にたたずんで里見を見送っていたようです。

こうして頑なに時間が過ぎるなかで、里見の怒りもおさまり始めます
ちょうど志賀の「暗夜行路」が出てしばらく経ったころのこと。今度は里見のほうが、志賀を劇場で見かけたのです。

里見は酔いの勢いもあって、気軽に「やあ」と挨拶します。
しかし志賀は顔を背けました
これも実にタイミングで、志賀は「暗夜行路」の評に腹を立てているところだったと言います。里見は久米正雄らと一緒に雑誌を出していたのですが、この誌面で「暗夜行路」を酷評し(おもに久米の意見だったようですが)たため、志賀はそれに怒っていたというのでした。



ついに復縁へ


ところが、人の心というのは不思議なものです。

これが逆に里見の怒りを落ち着かせたのです。というのも、その態度の子どもっぽさを見て、志賀に抱いていた警戒感がうすらいだのだそうです。

絶縁から約6年後のことでした。
和解の話が動き始めます。
ふたりの共通の知人が偶然志賀に会い、里見の心の変化を伝えたのです。
志賀は「いつでも和解したい」と答え、それを伝えられた里見はきちんとした謝罪の手紙を送りました。約束をすっぽかしたうえ、怒られて逆ギレした詫びでした。志賀も返事を送り、和解がなるのですが……。

今度はなかなか会えないのです。
当時、志賀が関西に住んでいたこともあり、気楽に会うわけにはいきません。
ちょっとしたすれ違いが何度かあってから、ふたりはその翌年の暮れ、やっと再会します。
一役買ったのが、かつては二人が会うことに反対していた兄生馬でした。
生馬が昼食に志賀を招き、そこに里見も呼んだのです。なかなかドラマチックです。
里見が〆切直前だったこともあり、ゆっくりはできなかったものの、二人は数年ぶりに和やかに会話しました。一般的には、ここを復縁の時期と見なしているようです。

時間にして7年、足掛け8年の長い絶縁でした。
のちに里見は「よい友は、絶縁してもよい」と書き、志賀は「より安全で、より完全な友になれた」と書いています。

さらにその翌年には、ふたりでじっくり久闊を叙するべく、北陸温泉巡りの旅に出ます。
話題が途切れることはなく、4泊5日の間ほとんど眠らなかったという、楽しい旅行だったようです。

ちなみにこの後ふたりは旅行の会を結成し、半年~1年に1回の割合で旅行し続けています。それは、のちに戦争で旅行できなくなるまで、20年近く続きました。



復縁、そして


志賀が昭和46年に88歳で亡くなるまで、二人の友情は続きました。

とは言え、途中で二、三度、短い絶縁をした時期もあるそうです。
そのひとつは、二人で映画雑誌で対談をした時のことです。里見は校正のためにゲラに目を通し、いくつか赤を入れました。この時、実際は話されなかった内容を書き入れたようです。
わかりやすい説明を会話の体で書き入れることは、当時はよくあったようですが、これが志賀の癇に障ります(ここまでで充分伝わっていると思いますが、志賀は短気で有名でした)。
志賀直哉という人は、事実を重視するタイプの作家でした。
志賀は新聞のインタビューでその話をし、
腹が立つというより、まだわかってくれてないことがあると思うと寂しかった
里見の付き合っている友人がよくない
と述べます。

里見も怒ります。
いやならきちんと話をすればすむところ、メディアで発表されたわけですし、友人を悪く言われれば怒るのも無理はありません。こうして半年ほど絶交状態になった、とのちに里見は話しています。
これがいちばん大きな喧嘩だったそうです。

こんなこともあったとはいえ、友情は続きました。
むしろ、「喧嘩するたびに親しくなれた」と里見は書いています。

戦時中、軽井沢に疎開して同居していたこともあります。里見が食事を作り、志賀が皿洗いをするという具合に家事分担もしっかりしていたようです。
里見の最愛の女性が亡くなったとき、里見は志賀の前で泣き、志賀は何も言わずにそんな里見のそばにいてくれたそうです。

志賀が88歳で臨終になったとき、里見は鎌倉の自宅にいました。
彼も高齢ですから、医者から病院へ行くことは禁じられていたようですが、じっとしていられずに駆けつけます。
ふたりは手を取り合い、里見は号泣します。
翌日も里見は病院を訪れ、志賀は里見が病室に入った直後に息を引き取りました。

志賀の葬儀委員長は里見が務め、弔辞も読みました。
それから12年、里見は鎌倉の地で天寿をまっとうし、おだやかに旅立ちました。


名前はどうであっても


ここまで駆け足で、さまざまなエピソードを中心にふたりの交友と絶縁をご紹介してきました。

志賀がおおやけには何も書いていないにもかかわらず、「恋愛関係」と解される理由もお判りいただけたのではないでしょうか。
離れようとする里見に対して志賀が見せた執着は、なかなかです。
経緯を追うかぎり、関係は一方的なものではありません。
里見は志賀に縛られていますが、志賀もまた(認めまいとしても)里見に縛られ、里見を縛ろうとしています。
志賀からの束縛(実際に、後年の里見は『志賀の束縛』と表現しています)があったからこそ里見は苦しみ、離れようとしたことが想像されます。


二人の関係は幼少期から始まりました。
70年以上にわたる友となり、本音をぶつけ合い、ときに喧嘩をし、しかしその縁が切れることはありませんでした。ぶつかるたびに成長し、より深い友となりました。最後には臨終に立ちあい、葬儀の主宰として見送っています。
それほどの友を持てる人が、この世に何人いるでしょうか

改めて触れておきますと、身体の関係はなかったと何度も里見は書いています。
ふたりの学生時代は、社会における男色のポジションが大きく低下していった時期で、身体の関係を持つことが非難されるようになっていました。そのことも影響しているかもしれません。また里見の方も、そこまで踏み込んだら志賀の束縛から逃れられなくなると考えていたふしがありますので、個人的な感情の綾もあったでしょう。
しかし、もしもふたりの間にまったく性愛の要素がなかったのなら、逆に里見がそう断る必要もなかったでしょう。現実にはなにもなかったとしても、意識のなかには何かがあったからこそ、里見はそう断り続けたと考えられます。


なぜ絶縁したのか。
あまりに近くなりすぎ、離れる必要があったのかもしれません。
対立と絶縁の時期は、ふたりがそれぞれの文学的足場を確立し、大人として社会に出てゆく時期に当たっており、それぞれが一人前の大人になり作家になるために、身を切るような思いで体を引き剥がさなければならなかったのかもしれません。

何にせよ、本心をぶつけ合える相手だったからこそ、対立も絶縁も起き、そのなかで自分を見直していったのではないでしょうか。

こうやって二人の関係を眺めていくと、名前は何であっても深い愛を感じられます。それが恋か友情か、分別する必要があるでしょうか。
恋と呼ぼうが、友情と呼ぼうが、そこには愛がありました。それだけでよいではないかと、思わずにはいられません。



関係書籍



よろしければ、ご本人たちの作品で触れてみていただきたいと思います。
里見に関しては、恰好の文庫本が出ています。
以前もご紹介しましたが、こちらです。


この記事でご紹介した里見の作品がほぼ収録されています。
表紙の絵は、里見が描いた志賀のスケッチです。

次は志賀直哉全集。


志賀の書いたものはほぼ収録されています。
里見に関する作品だけがまとめられているわけではないので、探さなくてはいけませんが、里見との関係を書いたものとしては、「暗夜行路草稿」「廿代一面」「正誤」あたりがわかりやすく、おすすめです。

何しろ著名な作家同士ですので、説得力ということになると、二人が書いたものに勝るものはありません。
是非お手に取って読んでみていただきたいと思います。


この記事では掘り下げられませんでしたが、二人の友情は互いの文学にも大きな影響を与えています。互いの存在なくしてそれぞれは成立しえなかったと、私は考えています。
特に志賀直哉については、里見の影響が何度も指摘されながら、「暗夜行路」などの文学面における研究が進んでいないのは非常に残念なことです。里見の知名度もそうですが、二人の関係が単純に感情的なつながり――はっきり言ってしまえば「ただの恋愛関係」でしかない、という先入観があるのではないでしょうか。


こうやって注目が集まった機会に、二人の関係に興味を持ってくださる方が増えることを期待しています。


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