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志賀直哉×里見弴×暗夜行路⑮


絶縁してからのふたり




大正5年、志賀直哉のハガキを決定打として、志賀と里見は絶交に至った。

絶縁してしばらく後、「白樺」の集まりがあった。
メンバーの中には志賀と里見もいた。
互いに気付いたふたりは顔を背け合い、里見は不愉快だからと早々に帰宅した

これを皮切りに、ふたりは数年にわたって関係を絶つことになる。
時おり道で行き違うのがせいぜいで、それも知らん顔をして行き過ぎていたという。

絶縁している間に、ふたりの人付き合いや文学的立場も変わっていく
その少し前から雑誌「白樺」が人道主義的傾向を強めていたことから、思想の違うふたりは雑誌としての白樺からは離れていた。
志賀は仲間との付き合いは継続していたが、里見は絶縁を機に、グループからも分かれていく

自らを眺め直すために距離を取る必要もあったろうし、商業誌から依頼を受けるようになったためもあったろうが、とにかく志賀と会いたくなかったのだと言う。
他の仲間たちと個別に会ったりはしていたようだが、雑誌から離れたことで、どうしても以前よりは距離が開くことになった。

その間、里見は志賀の絶縁状を机の引き出しに入れていた。
怠け心が起きるとハガキを取り出し、「負けてたまるか」とガッツを奮い起こしていたという。のちには「机の前に貼っていた」ともしているが、大正6年の「幸福人」では「机の引き出し」になっている。

そんな里見は、白樺とは違う人間関係を作り上げていった。
有島家のほぼ斜め向かいに、かの泉鏡花が住んでいた。
こちらは近所と言っても幼少期からというわけではなく、里見22、3歳のころにたまたま鏡花が転居してきたのだ。
里見は少年時代から鏡花の大ファンだったものの、すでに大家である鏡花に話しかけにいく勇気はない。そのうち鏡花が白樺派の展示会を訪れたのがきっかけでつきあいがはじまっていた。


泉鏡花 国立国会図書館「近代日本人の肖像」より

白樺から離れた里見を何かと気遣い、声をかけて文壇に引き入れてくれたのが、この鏡花だった。里見は深く感謝したという。

近所づきあいというだけではなく、作家として認めていたのだろう。
里見と知り合う前の鏡花が、作者を知らずに「白樺」を読んで気に入っていた数本の作品のなかに、里見のものも入っていた。

大正9年頃からは、特に師弟の約束をしたわけでもないものの、里見は鏡花を「先生」と呼び、鏡花は里見の作品に意見をするというかたちで、師匠と弟子のような交友を続けていく

また、歌人の吉井勇、作家の久米正雄、田中純と親しく付き合い、雑誌「人間」を始めた。田中はのちに随筆「「人間」を出した頃」で当時を回想し、
自分たちはもう発表の場を持っていたので雑誌をつくる必要はなかったのだが、友情の記念になにかしたかった
と述べている。


久米正雄 国立国会図書館「近代日本人の肖像」より


こうして志賀から離れた里見は、飛ぶ鳥を落とす勢いで当代きっての人気作家になっていく。文体も、志賀直哉的な短文をつらねるものから、流れるように話し言葉を写し取った、饒舌な文章へと変わっていった。
「まごころ哲学」などとも呼ばれる独特のテーマを確立していったのもこの時期だ。
長与善郎は「白樺の仲間の中でもっとも文壇に顔が広いのが里見」と述べている。
里見はみごとに志賀から自立したのである。

久米正雄の私小説「良友悪友」は大正8年を舞台にしていると見られるが、里見と見られる登場人物がこのように語るくだりがある。


それあ友だちが
なければ、
ほんとに淋しいと
思うこともあるさ。

僕だって Sやなんか
白樺の連中と別れた時は、
堪らない位 淋しかった
もんだ。

然しその位の事に
堪えられない位じゃ、
とてもいい作家になれない
思ったから、
歯を喰いしばって我慢した。

そしたらいつの間にか
馴れて了って、
今では却って
サバサバしたいい気持だ

久米正雄「良友悪友」青空文庫より


一方、志賀も「後期」の志賀文学を確立させていく。
スランプは続いていたが、近所には白樺派の武者小路実篤、柳宗悦や、白樺派と近かったイギリス人陶芸家バーナード・リーチもおり、父との関係も回復させた
志賀を生涯敬愛した後輩作家瀧井孝作も我孫子に転居してきている。
志賀は、青年時代に友人たちとやっていたような回覧雑誌を彼らと始め、ついに復活の作品を書き上げた。
このとき白樺に掲載したのが「城の崎にて」だ。

後期の志賀文学は、静謐な調和のなかにあった。
ここでの志賀は、異なる者を切り捨てはしない。前期の張り詰めた緊張の英雄よりも、普通の生活を送るおだやかな人々を好んで描いた。

里見が東京や鎌倉でにぎやかに仲間たちに囲まれている一方で、志賀は自然のある落ち着いた環境を好み、彼を尊敬する作家たちが多く出入りした。
志賀詣で」とも呼ばれ、志賀のカリスマ的な人気をあらわすものとされている。

こうして二人は離れ、それぞれの道をあゆみはじめた。
しかしその道は、ふたりが真剣にぶつかりあった時間のうちに用意されていたと言える。
絶縁はそのための最後の仕上げだったのかもしれない

絶縁から約1年後、大正6年3月31日。
ふたりは赤坂ローヤル館という芝居小屋にいあわせる。
里見は志賀に気付かなかった。
しかし志賀は気付いた。「正誤」によれば、雑踏を一人で帰って行く里見に気付き、感慨をもよおしてしばらくじっと見送っていたという。


赤坂ローヤル館 出典:三井住友トラスト不動産 この町アーカイブス 麻布・赤坂より




このときの里見は、実際は武者小路が一緒で、感想を話しながら帰宅していたらしい。
里見はずば抜けて小柄だが、武者小路は志賀とそう変わらないくらいの体格だ。にもかかわらず武者に気付かなかったというのだから、よほどのことだろう。

志賀の「正誤」によれば、彼の怒りは1年半から2年程度でおさまったのだという。
実はその1年半目あたりの時期、大正7年の正月に里見は入院している。
ジフテリアから丹毒を起こして危篤におちいったのだった。

里見は危険な状態だったにもかかわらず、見舞客が来るときちんと対応して客を安堵させたそうだが、実際は長兄武郎がひそかに訃報の電報を用意していたほどあぶなかったらしい。気遣いやの里見らしいエピソードだ。
この危篤も、志賀の怒りを和らげるのに影響しただろうか。

どうかはわからないが、志賀のほうが先に怒りをおさめたのは事実のようだ。
里見も、武者小路から「志賀は落ち着いたから」と和解を勧められたという。しかし考えてみると怒りがあまりになまなましく、里見はその話を断った。

ただ、里見のところに出入りしていた若い作家中戸川吉二は、当時の里見について「一度も志賀さんの悪口を言うのを聞いたことがない」と書いている。感情的に憎んだわけではなく、そこにはさまざまな屈折があったのだろう。

復縁の芽はあった



「会わなかった」と言うが、しかしふたりは相手の動静を気にかけていたようだ。

絶縁中、ふたりは互いの夢を見ていることを書き残している。

里見によれば、昔のままに笑い合う夢を見たりしたが、当時の志賀への複雑な感情を夢の中でもそのまま感じたりして不愉快になることもあった。

丹毒で入院していた時期の記録には、志賀にまつわる夢もある
中戸川が「近所の家に志賀さんが引っ越してきて、二階から外を見ていた」と話すので、里見は「あの人はあんな安普請の家に住むような人じゃないよ」と答えたのだという。

志賀のほうも、夢の中ではわだかまりなく接することができたようだ。
全集中の「手帳」の巻に、目覚めて夢だと知ってがっかりしたり、しかし夢の中の相手は現実の相手のなかにもそのままいるのではないか……と想像したりする心情を書き留めている。

夢以外にも、相手を気にしていたことが察せられる話がある。
学習院の後輩が志賀全集によせた月報には、志賀宅を訪問した際の思い出が綴られている。それによれば、寝る前に志賀から「これ里見の新作」と雑誌を押しつけられ、朝は挨拶もすっ飛ばして「どうだった!?」と聞かれたのだという。

志賀は絶縁中も、里見の作品は読んでいたらしい。
たとえ白樺の仲間であっても好みではない作品は読まなかった志賀が、献本を受けていないのに読んでいたとなると、気にしてちゃんとチェックしていたことがわかる。
 
こうして5年が過ぎた。
大正10年、「暗夜行路」の連載が始まる。
当時、里見と久米正雄らが「人間」という雑誌を発行していたことは上で触れた。「人間」では、座談会でさまざまな小説を批評していたが、参加者の名はA、B、Cなどとして覆面形式になっていた。
この月評で「暗夜行路」もやり玉に挙がった。
「A」と表記されている人物の発言を紹介しよう。

兎に角
時任謙作と云う男の生活は(……)
善いと云う感じ、
美しいと云う感じ、
更に少し誇張して云えば、
正しいと云う感じすらしない。

どうもこう、すなおに
対者に向い合わないで、
すぐ妙な底意をもったりするのが
いけない。
(……)
道具屋だとか、つまらない
仕出の人物に対してまで、
一々つまらない反感や底意を
もつのなんぞは、
殆ど不愉快になる。

小山内薰、久保田万太郞、中戶川吉二、吉井勇、久米正雄、里見弴「人間合評 正月號創作」
『人間 3(2)』人間社出版部、1921-02、p54~66

かなり手厳しい。
志賀は腹を立てて、里見を含めた「人間」のメンバーをかなりきつく批判、というか有り体に言うとけなす抗議文を書いた。
志賀に言わせれば、毎回こんなことを言われては安心して連載できないと考えてかなり厳しめに書いたらしい。

ここに、匿名で好き放題言っているのを非難して、
BだかAだかKだかAだか知らないが
と書かれている。これを里見も読んでいた。
Kなんていたかな……?
不思議に思い、よくよく見直してみると「BAKA」だったので肝を潰した、と「証言 里見弴」で語っている。

ところでAは久米正雄だったらしい。
厳しい批評をしたのは久米と中戸川が中心だったようだ。

このあと、里見も「世界一」を発表している。
かつて志賀と鳥取砂丘を訪れて大きな仏像の顔を描いたときの思い出を温かくつづったものだ。怒りがだいぶおさまっているとうかがえる

そのころ、志賀と里見は帝劇でばったりと顔を合わせた。
ミッシャ・エルマンというヴァイオリニストの演奏会だった。


帝国劇場 出典: フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)



そのとき里見は帝劇の出口に立っていた。
押し出されてくる人混みのなかに志賀の長身があった。当時は、舞台のあいまに酒をたしなみながら観劇する習慣があったようで、酔いの入っていた里見は気軽に声をかけた
「失敬!」
なんとなく「やあ」などというような返事がある気がしていた。だが、志賀は鋭く里見を一瞥すると、サッと目をそらして立ち去った。

志賀はのちに「正誤」で弁明して、あれは「人間」で手厳しい批評をしたのが里見だと思っていたから、そのときは里見に腹が立っていたのだと言っている。

これで和解の芽はつぶれた――わけではない

なにが幸いするかわからないもので、この志賀の行動で、里見のなかにあった志賀へのわだかまりのようなものが払拭されたらしい。

志賀の相変らずの執念深さ(?)に、里見は、「なんだよ、いつまでも子どもだなあ」というような感興をもよおし、気が楽になった、というようなことを書いている。
ここから察するに、志賀への怒りは、会えば元のもくあみではないかというようなプレッシャーの裏返しでもあったのかもしれない。自分は自分できちんと成長してきた、という自負を持てたときに、わだかまりがほどけたのではないだろうか。

それからしばらくして、大正11年のあるパーティで、志賀は知り合いと顔を合わせた。
とうとう和解の話が動き始める


彼は里見の友人で、里見が今は落ち着いていると話したらしい。
志賀も前向きな返答をした。

友人から志賀の返答を伝えられた里見は、志賀に和解の手紙を出した。
我孫子で約束をすっぽかしたことをきちんと詫びる内容だった。
こうして文通が始まった。
文通は一年近く続く。そのあいだに関東大震災や有島武郎の情死などの事件が起きた。しかし、打ち合わせても予定が合わず、会いに行っても擦れ違ったりして、なかなか会う機会は訪れなかった

ここでついに生馬が一役買う。
大正12年の暮れのことだ。里見は原稿の〆切の真っ最中だった。
必死で書いているところへ、隣家の生馬から使いが来る。
志賀が来ているから昼食に来い、というのだ

しかし〆切間近である。すぐには行けない。
催促を受けつつ、もうちょっと、もうちょっとと書けるだけ書いて、やっと生馬の家に駆けつけた。
薄暗い茶室の中に志賀がいた
里見を見て、すこし照れくさそうに「やあ」と言ったという。
足かけ8年にわたる絶縁は、このとき終わったのだった

その日は里見のほうも2時間しか都合がつかず、ゆっくり会話できなかった。なかなか時間を取れなかったふたりは翌年の暮れ、旅行に出かける。
北陸の温泉地を巡る三泊四日で10時間程度しか寝なかった、という勢いでふたりは話し続けたという。

10時間と言えば平均3時間くらいしか眠っていないということだ。
余程楽しかったのだろう。

それからのふたり


ふたりの絶縁がよく知られているため、現在では、志賀と里見の関係はそれきりだと思われている節がある。
しかし志賀は88歳、里見は94歳まで生きた。
そのため、実は復縁してからの人生のほうが長いのである。

その後、志賀と里見は「百円の会」を作る。
気ままな旅行をする会だ。
参加者は最初に百円出しあって、それを旅費として気楽に旅する。
百円の価値がどんなものかが気になるが、こちらのサイトによれば、昭和2年の10円=平成24年の6136円と計算されている。
となれば100円は、少なく見積もってもとりあえず今の5万円以上にはなりそうだ。
1年に1~2回ほどおこなわれ、メンバーは毎回変わったが、志賀と里見は毎回参加だった。

百円の会は、戦争が始まって行き来が出来なくなるまで20年近く続けられた。そのため二人は遠隔地でも頻繁に会い続けた

大正末年ごろからしばらく、里見は作家としてつらい時期に入った。
新感覚派やプロレタリア文学など、新たな文学が台頭するなかで、遊郭での恋愛などを描く里見は、若い文学ファン中心に「時代遅れ」とされ、厳しい評価にさらされた。

里見は苦しみながら書き続けた。
志賀の手帳のメモなどを見れば、志賀に悩みを話したりしていたようだ。
この時期、里見の本に序文を寄せるなど、志賀なりに支えようとしていたのではないだろうか。里見は苦悩の時期を抜けた久々の自信作「かね」を志賀に捧げている

里見も関西住まいの志賀に代わって、志賀の「赤西蠣太」の映画化の窓口を引き受けるなどしている。映画の脚本化も「きみに頼みたい」と志賀は手紙で説得している。
互いに相手の仕事に協力していたことがうかがえる。


志賀装丁の里見の『本音』。
書肆田高ホームページより


里見の短編集『本音』は志賀直哉による装である。
林檎の絵は志賀の筆だ

戦時中も、一時期疎開した軽井沢で志賀家と里見は一緒に住むなどしていたという。

しかし、ケンカがなくなったわけではなかった。
『証言 里見弴』によれば二度ほど大きなケンカをして、このときは1年から半年ほど会わなかったという。
ただ里見が話している内容と当時の資料を照合すると、いささか食い違いがある。年齢のために記憶が不正確になっているのだろう。
それを踏まえても、大きなケンカが2度ほどあったということは間違いなさそうだ。


後年、二人と知り合いだった料理屋の女将が、ケンカの時期の志賀について話している。
志賀は「女将さんは里見と会うか」と尋ねたあと、「元気だったか」とぽつんと聞いた。
女将は、「男性の友情はケンカしても変わらないのだな」と感心したと述べている。


晩年のふたり


1971(昭和46)年、志賀直哉は88歳で亡くなった。

すでに多くの白樺の作家が世を去っていた。
残った仲間たち、武者小路や里見も年老いて、臨終に駆けつけるのは難しかった。ドクターストップがかかっていたのだ。

しかし、新聞で志賀の危篤の報を見た里見はいても立ってもいられず、鎌倉から東京の病院に駆けつけた。
病室に入ると、志賀の手を取って「伊吾だよ」と語りかけたという。

酸素マスクをしていた志賀は話せなかった。
だが意識はしっかりしていて、里見だとわかったようだった、と阿川弘之は書いている。阿川は弟子としてまるで秘書のような仕事をまめにこなしており、評伝「志賀直哉」に臨終の経緯を詳しく書き残している。

なにかもごもごと話そうとする志賀の手を、里見は握り続けていた。
「うん。うん」
とうなずいていたが、不意に手を離すと皆から離れて窓際に立ち、はげしく慟哭したという。

やがて落ち着くと志賀の元に戻り、また手を取って、「うん。うん」と話を続けた。
翌日も里見は訪れた。
一度休憩に出た里見が部屋に入った直後のこと。
志賀の意識がなくなった。蘇生のための措置が行なわれるのを、里見はつらそうに顔を歪めて見守っていた。
意識は戻ることなく、そのまま志賀は帰らぬ人となる。

この臨終の場面は、万感胸に迫るものがある。
70年近い付き合いの「莫逆の友」里見が病室に戻った直後に志賀は息を引き取った。そのことに深い感銘を受けた、と阿川は書いている。

志賀の葬儀委員長は里見が務めた

このエピソードに触れるたび、二つのことを思い出すのである。
里見の長編「多情仏心」で、恋を繰返す主人公は、こんな信念を持っている。本当に心が通い合った相手の臨終には、何があっても駆けつけよう、と。それが言わば金メダルなのだ。

主人公は里見本人ではない。
だが、ドクターストップを押し切ってでも鎌倉から東京へ駆けつけた里見は、志賀に「金メダル」を贈ったのではないか。

そして、志賀の「暗夜行路」。
絶縁中の志賀は、死の床にある主人公のもとに坂口が駆けつけ、手を取り合って許し合う場面を思い描いた。

志賀は迷信を信じなかったが、巌谷大四の「志賀直哉訪問記」によれば、「来る」と思った相手はきっと来るという不思議な信念を持っている。
自分が息を引き取るとき、里見は必ずやって来て、手を取り合う。
志賀はそう思っていたのではないか。それが「暗夜行路」メモにはあらわれていて、そしてその通りになったのではないか。
そんなことも思ってみたくなるのだ。

晩年の里見は、鎌倉で1983(昭和58)年まで元気に生きた。
同じく鎌倉に住んでいた立原正秋は、世俗をすっかり洗い落とした大樹のような里見の姿を書いている。
体調を崩して入院し、「今日、逝くよ」「今までありがとう」と家族に告げた日に、里見は息を引き取った。
94歳の大往生だった。

志賀が亡くなるまで、亡くなってからも、二人の友情は変わらなかった。

晩年の里見は「このごろは、死んでしまった知人たちがゆめうつつに訪ねてくれる。志賀がいちばんよく来るかな」と話してたりした。
そしてやはり晩年の志賀も、「この年になると、よく若いころのことを思い出す。やっぱり君がいちばんよく出てくるよ」と里見に言っていたという。

離れていても絆は生きていたのだ。
志賀は「復縁後はより安全で完全な友になれた」と語り、里見も「ケンカするたび、もっと良い友人になれた」と述べている。

ケンカでさえも、互いの理解と成長のための肥やしだった。
白樺研究で知られる紅野敏郎は、ふたりの関係をこう述べる。

この二人の結びつきの強さを
あらためて深く感ずる。

あいだにたとえ
反撥や絶交が介入したとしても、
バネの強さに変りはなく、
おのずとその関係はもとにもどる。

紅野敏郎『貫く棒の如きもの : 白樺・文学館・早稲田』朝日書林,平5,P47

若い日の長く苦しい葛藤も、二人の結びつきを壊しはしなかった。

こういう対立がある場合に想像されるような、自己愛と承認欲求による関係なら、これほど長くいたわりあい、支え合う関係にはならなかったはずだ
理解と愛情、尊重は真摯なものだった。
だからこそ足かけ8年の絶縁を乗り越えて、和解することもできたのだ。

いったい二人のあいだに恋愛感情があったのかを問うところからこの連載を始めた。
想像はできても断言はできないというのが結論ではあるのだが、ひとつ言えるのは、ふたりのあいだには間違いなく愛情があった。
それは恋愛と呼ばれようが友情と呼ばれようが、並みのそれよりはるかに強かっただろうということだ。

こんな相手を、どれだけの人が持っているだろうか。
自分の身に引き換えて考えてみたとき、これほどの愛情でつながっている存在はめったにあるものではない。
それを思うと、そのつながりに恋愛感情が含まれていたかどうかなど、どうでもよいことのように思えてくる。

最後にこの記事の全否定のようなことを書いてしまったが、よろしければぜひ、実際に二人の著作に触れて、直接判断していただきたい。


志賀の文章は、岩波の志賀直哉全集でほとんど読むことができる。
里見のほうはほとんどが絶版なので、古本屋で手に入れるしかないが、岩波文庫の随筆の選集は新刊がある。国立国会図書館に本登録されているかたなら、オンラインで多くを読むことができる。
そこから、忘れられがちな里見の作品にも興味を持っていただければなお嬉しい

文豪ブームによって、近代文学作品が映画化されたり、漫画・小説・ゲームなど「文豪」たちが登場する作品が作られたり、そのメディアミックス展開によって文劇と呼ばれる「2.5次元舞台」や、各地の文学館とのコラボイベントが行なわれたりと、いまや近代文学作家には華やかなスポットが当たっている。
だが、里見について触れられることは少なく。
志賀直哉との関係もケンカのみが知られている状態で、親友だったことも忘れられ仲が悪かったというイメージができあがりつつさえある。

しかしそれだけではあまりにもったいない。

志賀直哉と里見弴。
幼少時代に知り合い、ときには傷つけ合うように切り結びながらも、助け合い、いたわりあって、文学と人生をともに生き、影響し合って、すぐれた作品を残した。
そんな二人の作家がいたことを知っていただければ、何より幸いだ。

 
 
 

白樺派の集合写真。
前列向かって左から2番目が志賀、3番目が里見。(Wikipediaより)


   
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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