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そこのあなた、ちょっと里見弴について知りたくないですか?(志賀直哉編1)


最初にざっくり言うと、事実


志賀直哉との関係について見ていきましょう。

最初に、「歴〇人」の記事を見て検索して来られた方が一番興味があるのは、「本当に恋愛関係だったの?」ということではないでしょうか

引っ張るのもなんなので、とりあえず答えだけ知りたい方向けにざっくりと言うと……まあだいたい事実と言っていいと思います。


細かいことを言い出すといろいろと考えるべき要素はあるのですが、しかし本人がそう発言しているということが大きいです。
管見のかぎりでは4回ほど、里見弴本人が明確に「恋愛感情があった」と述べています
なお、その際にはほぼ必ず「身体の関係はなかった」が、それでよかったのだというふうに付け加えています。
ここから、精神的には恋愛要素があったのだろう、と考えられるわけです。

実はこの話は、ある程度の近代文学マニアには知れ渡った話です。
また、現在に至るまで、一度ならず研究者たちから「精神的な同性愛」を指摘されてもいますし、志賀と里見が4、50代のころには雑誌の記事で「同性愛的」と書かれたこともありました。

公平を期すために付言すると、志賀直哉本人は、里見への恋愛感情をおおやけに言明したことはないようです。
里見が「片恋で求愛したこともない」と書いている随筆もあるため、里見の片思いだったのでは……と見なされてもおかしくないのですが、にもかかわらず多くの人々から「恋愛関係だった」と受け取られているのには理由があります。

今回の記事では、さまざまなエピソードを中心に、そのへんをご紹介していきましょう。上記の理由についても触れます。
「志賀直哉×里見弴×暗夜行路」と題した記事でもいろいろとご紹介してはいるのですが、あちらは詳しく知りたい・考察したい方向けの内容になっていますので、この記事では軽~い文豪エピソードを中心にしようと思います。詳細に興味のある方は、リンク先が目次ページになってますので、よろしければごらんください。

「事実は小説より奇なり」と言いますが、志賀直哉と里見弴の関係は、なまじっかの小説よりも濃く、深いものでした。


出会いはねんねこばんてん


志賀直哉と里見弴が出会ったのはいつでしょうか。
白樺をともに起こしたわけですから、学生時代、学習院の校舎?
それとも、文学への熱気渦巻く、若者たちの集まった下宿?

実は、もっと前です。

志賀によれば、初めて会ったとき里見は、ちいさな身体に赤いねんねこばんてんを着せられて、ずるずる裾を引きずっていたそうです。
年齢はおそらく、志賀が12歳、里見が7歳前後。
ほんの子どものころでした。
つまり幼馴染と言ってもよく、「白樺」の仲間たちの中でも、ふたりのつきあいは長いものだったのです。

志賀は、里見の2番目の兄と同級生で、親友でした。
兄の名は有島生馬画家として名を残していますので、ご存じの方もいらっしゃるのではないでしょうか。

志賀は有島家にたびたび遊びに行き、弟である里見とそこで顔を合わせていたのです。
とは言え、今なら中学生と小学校低学年くらいの年齢差ですから、お互いに遊びの相手になるわけもなく、顔を合わせるのみで、里見のほうはあまり志賀をはっきりと憶えていなかったようです。

ところでこの当時の志賀は、生馬に恋愛感情を持っていたそうです。
志賀自身が後年「蝕まれた友情」という短編に書いていることで、生馬に伝えることもなく、数年で普通の友情になったといいます。


かつて、日本では男性同士の性愛は「男色」と呼ばれ、現在のように特別なことがらとしては扱われていませんでした
明治・大正の学生社会には、この男色が受け継がれ、男性同士での恋愛はごく普通のこととして行われていたといいます。当時の小説を見ると、わりとナチュラルに学生同士の恋模様が描かれています。
志賀も、生馬への感情が落ち着いたあとは、何人か同性とつきあったりしていたようですし、里見の初恋の人は学習院の後輩でした。

今でこそスキャンダラスな話ですが、そのころは学生のうちであれば、そのために「同性愛者だ」と思われることもありませんでした。
おそらく、現在で言えばおなじクラスの男女がおつきあいしているような、そんな感覚だったのではないでしょうか。

男色についてとりあげると長くなるので、これ以上掘り下げるのはやめて話を進めます。
でも、やっぱりなんだかよくわからない、話が呑み込めない、という方は、

明治時代の男子校では、そういうのがかっこいいと思われて流行っていた
・しかし同時に、成長とともに同性を卒業し、大人になったら異性と恋愛するものだ、とも思われていた

くらいな感じで、「わからないけどまあそういうこともあったんだな」とゆるく考えておいていただけると、この後の話がわかりやすいかもしれません。

ちなみに、「蝕まれた友情」は志賀が64歳の時、生馬との絶縁を宣言するために書いた作品です。
あとにもさきにも、このとき以外、生馬への恋愛感情をおおやけに述べたことはないようですから、これがなければ誰にも知られることなく消えていったのでしょう。




「兄の親友」と「親友の弟」


やがて里見の成長とともに、生馬を介して二人が遊ぶ機会も増えていきました。ざっと紹介すると、

・一緒に野球をする
・多摩川でキャンプをする
鉄棒を教えてもらう
自転車を教えてもらう
・野球をして遊んだあと、つかれて眠り込んだ里見を志賀がおんぶして帰る



こんな感じだったようです。

ちなみに、有島家は7人きょうだい。
総領である有島武郎が小説家、次男有島生馬が画家、四男里見弴(ペンネームです)も小説家ということで、特にこの三人を指して有島芸術三兄弟と呼ばれたりもします。

生馬は、おだやかな長兄武郎と比べるとなかなか剛毅……というか、子ども時代のエピソードを見ていくと、わりとジャイアンな感じの人でした。
そんな生馬が弟妹の中でもかわいがっていたのが里見だったようです。
里見は明るく洒脱で機転が利き、同時に「放胆」とも評されるような気の強さがあったので、性が合ったのかもしれません。里見が一番なついていたのも、生馬だったようです。

生馬は友人たちとの遊びや旅行にちょくちょく里見を加えており、そこから志賀と里見に接点が生まれてゆきます。

このころ、スポーツ万能な志賀に恋ごころを持っていた、「お稚児さん」にしてほしいと思っていた、とのちに里見は書いています。
お稚児さんというのは、わかりやすくBL用語に当てはめると、「受け」ということになるでしょう。

ただ、志賀が青年になり、むずかしいことを言い出すと、めんどくさくなって、ほのかな恋心も終わったようです。
このころの志賀が里見をどう思っていたのかはわかりません。
ほかに付き合っている後輩(男子)がいたようなので、里見に対しては、親友の弟としてかわいがる以上の感情はなかったのかもしれません。


考えてみれば、恋心を持っていた親友が特にかわいがっている弟で、そのうえねんねこばんてんを着てちょこちょこ歩いているころから知っているわけですから、そうそう恋愛対象にはならなかったのかもしれません。


生馬の留学、そして世話焼きへ


さて、志賀にとっては最も大切な親友であり、里見にとってはいちばんなついている兄であった生馬は、明治38年、欧州留学へ出発しました。絵の勉強のためです。
生馬は身体をこわして学習院を中退しており、画家をこころざすようになっていたのでした。

明治期に欧州へ行くというのは、今よりはるかに大変なことだったでしょう。学習院の中等科生だった里見は、心細さで泣くこともあったようです。

そんな弟を励ますために、生馬は友人たちのうちふたりを選んで、里見の後見役を依頼し、自分がいないあいだ弟の面倒を見てやってくれるように頼みました。
その一人が志賀でした
このころの志賀は学習院の高等科にいます。

それまで二人のあいだにはつねに生馬がいました。
初めてその隔てがとれたわけです。

志賀は里見を芝居見物に連れて行ったり、旅行したり、小説に興味のある里見におすすめの本を教えたり、おそくまで部屋で話し込んだりと、かなりまめに面倒を見ています。自分の学帽をお下がりで里見にやったりもしています。

こうして徐々に、里見にとって、志賀は生馬のような存在になっていきました。
同様に、志賀も里見を弟のようにかわいがりました。当時のメモには、里見と話すと、どんなときでも心がひろく開いていくような気がする、と書かれています。

ここから二人の関係はどんどん近づいてゆき、やがて、互いに生馬を越えた存在になってゆくのです。


また長くなってしまったので、いったん分けることにしましょう。
次回に続きます。

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