志賀直哉×里見弴×暗夜行路⑨
「君と私と」
「腐合いと蝉脱」「熊の手」事件が起きたのは、大正元年9月21日。
それから一ヶ月ほど、志賀と里見は会わなかった。
電話のやりとりなどはあったようだが、ふたたび顔を合わせたのは10月19日だ。ほぼ一ヶ月後である。
そこからは元の通りにつるむようになり、翌々日にはまた志賀が里見を強引に連れ出したりしている。
しかし里見のなかには、現状からの「蝉脱」がますます強くイメージされるようになっていたにちがいない。
翌大正2年3月20日。
里見は志賀に「君と私と」の連載を伝えた。
白樺の翌月号の原稿が足りず、穴埋めを頼まれたらしい。
しかし志賀宛の書簡を見れば、前年のうちには志賀との関係について書くと告げており、その場かぎりの思いつきではなかったとわかる。
ここから「君と私と」を巡る伝説の騒動が始まる。
ざっと流れを追うと、4月号から連載が始まり、7月号で休載。
10月に再開の原稿を書き上げるが、印刷所で紛失し、それから今に至るまで見つかっていない。それきり「君と私と」は未完で終わっている。
内容は、
4月号:前篇(または上篇)未完 明治27~40、41年
→少年時代の付き合い、恋心、八重、関西旅行
5月号:前編終わり 明治41~42、3年
→文学活動、散歩の始まり
6月号:中篇未完 明治43年
→放蕩、嘘、八重の妊娠、耽溺、入営
7月号:中編未完 明治44年
→興業飛行の見物、志賀との腐れ縁の深まり
このようになっている。
さて、なぜ連載が中断したのか。
まさに志賀とのケンカのためである。
4月号はもめごとにならなかった。
この号には、よく話題にのぼる「14歳のころ志賀を好きだった」というくだりがふくまれているが、志賀は「面白く読んだ」としており、気を悪くした様子はない。
5月号も、いくらか引っかかりはありながらも面白く読んだ、と志賀は書く。
この時期の志賀は、「君と私と」の執筆に協力しようと自分の日記を調べたり、作中に出てくる旅行の思い出会をやったりしたそうで、むしろ楽しんでいるふしがある。
しかし、6月号で大きな衝突が生じた。
6月号を読んだ志賀がはげしく腹を立てたのだ。
以前も説明したが、6月号は「腐合いと蝉脱」の内容と大きく被るとみられる。
大正2年6月4日、「君と私に」を読み終わった志賀は、最初の抗議文「副主人公の独白」を書いた。これは保管されていないのか、発表されていないようだ。
6月6日にも「「君と私と」の私に」と名付けた抗議文を書く。志賀全集の未定稿の巻で読める。
さらにそのあとで「モデルの不服」抗議文を書き、これが七月号に発表された。
この間、志賀と里見は、電話、書簡、対面で話し合いを持っている。
志賀は里見の「自覚のない」ようすにいらだっている。
おそらく志賀の激怒のため、里見はいったん7月号の連載を中断しようとした。
しかし編集部に説得されてやはり発表を決め、志賀に伝えるとともに、「邪推の発表」をしないように求めている。
おそらく「邪推」は「モデルの不服」の内容を指しているだろう。
6月29日、白樺の7月号ができる。
この誌面には、里見の「君と私と」、志賀の「モデルの不服」がともに掲載された。
里見は「「モデルの不服」に就いて」を書き返し、志賀はさらに「「モデルの不服に就いて」に就いて」を書き返す。
二人の話し合いも続いている。
志賀の攻勢はおさまらなかったが、里見も「「モデルの不服」に就いて」を書いたり、連載を続けると決めたあたりまでは、なんとか突っぱねていたように見える。
一ヶ月ほど持ちこたえた里見だったが、それもそこまでで、その後「「「モデルの不服に就いて」に就いて」に就いて」などというような反論文が書かれたりはしなかった。
里見は7月に入ったあたりから、体調を崩してしまう。あまり決めつけてもなんだが、志賀の攻勢のストレスも影響したのではないだろうか。
とうとう里見は白旗を揚げ、8日と11日の手紙で「「モデルの不服」に就いて」の発表をやめると志賀に告げ、弱音を吐いた。
7月12日に志賀が出した返事で、この件は手打ちになったようだ。
志賀は「連載を続けることを望んでいる」と書いたが、里見は疲れ果てたのか、連載は8月号からしばらく休止となった。
通して見ると、とにかく志賀が執拗だ。
「モデルの不服」などでは穏やかな先輩顔をして説教などしているし、この件での志賀の書簡はほとんど発表されていないのでわかりづらいのだが、三度も抗議文を書き直していること、里見が連載中止に追いこまれたことなどから見ると、志賀の相当な怒りが想像される。
志賀がなんと言って里見を責めたのか、詳細は後で検討するとして、ここでは簡単に推測するにとどめよう。
里見の「邪推の発表」という文言からして、志賀が「君と私と」の意図を悪く勘ぐって里見を責め、それが里見には邪推と感じられるような内容だったと想像される。
「そんなつもりではない」という里見の反論が、志賀には「自覚のない」と映ったのだろう。
ヒントは「モデルの不服」だ。
そしてもうひとつ、志賀が「君と私と」をどう受け取ったのか、推測される志賀の文がある。
大正文学研究者で、志賀全集の編集委員も務める紅野敏郎は、ドンキホーテは志賀、サンチョパンザは里見で、「君と私と」の不満を示したものだろうと推測している。
少し出過ぎた事=「腐合いと蝉脱」
ドンキホーテの同伴者たるを辞するに就いて=「君と私と」
……と考えると、なるほど意味が通る。
すると、「君と私と」=「別れの演説」だと考えられる。
「腐合いと蝉脱」を読んだ志賀は、里見が自分を捨てようとしていると考えた。同様の感覚を「君と私と」からも受けたのだろう。
志賀が腹を立てたのが、「腐合いと蝉脱」と共通する内容を持つ6月号だったというのも示唆的だ。
ほかにも、志賀は「「君と私と」の私に」で、こう述べている。
この「演説」も、「君と私と」を指しているだろう。
これが志賀の「君と私と」に対する解釈であり、「邪推」だったのではないだろうか。
志賀は、里見が自分を捨てようとし、捨てるに際して志賀を笑いものにするために「君と私と」を執筆していると考えた。
そう言って里見を責めたのではないだろうか。
実際、里見は志賀との関係を何らかのかたちで整理しようとはしていた。
「君と私と」の執筆時には、志賀との絶縁も視野に入ってきていただろう。
しかし、この連載でも見てきたとおり、里見自身の至らなさや、志賀との関係の行き詰まりをつまびらかにするのが「君と私と」の目的だ。
捨てるというような捉え方ではなかったろうし、ましてや志賀を笑いものにしようなど、考えてもいなかったにちがいない。
それがうかがわれるような手紙がある。
志賀の執拗さに体調を崩して送った7月8日付の手紙で、ほとんど全面降伏のような内容だ。
志賀への返信だが、そのまえの志賀の言葉がわからないため、いくらか意味がつかみづらいところがある。
しかし、たしかに里見が志賀との「絶縁」を考えていたのは伝わってくる。はっきりと「一人になる」「滅びるものなら滅びる」と言い、「いいだろう?」と訊ねている。
悪意、冷淡、軽蔑、絶縁、これらカギ括弧でくくられている単語は、志賀からそう言って責められたとも取れる。
「自分を放してほしい」と懇願すると同時に、志賀の責めに疲れ切り、もう何も考えたくない――というところだろうか。
さて、では、この手紙を受け取った志賀は、ドンキホーテの短編のようにしただろうか。
怒りにまかせて絶縁を告げ、得意げに「サンチョは損をした」と考えただろうか。
そうはならなかった。
志賀は結局、里見の「手を離」さなかった。
里見が強くなり、「自分」を持てるかどうかがポイントである以上、里見が努力すれば解決できる、という意見だろう。
しかし、なんというか、非常に傲慢な手紙ではないだろうか。
前回見たとおり、悪いのは里見ばかりではない。
志賀にも問題点はあった。
かりにそうでなくとも、相手は志賀との関係で苦しんで距離を置きたがっているのだ。だったら楽な方法をとってやればいいのである。
普通、友人から「頼むから一人にさせてほしい」と懇願されれば、まあ嫌な気持ちはするだろうが、いったん冷却期間を置くものではないだろうか。
一ヶ月もねばったあげく「君が強くなればいい」と押し切るのはいったい何なのだろうか。
とにかく志賀のほうが執念深い、と感じてしまう。
一体どうしてこんなに偉そうな手紙で里見が絶縁をとりやめたのか、理解に苦しむところだ。
が、数十年後、里見は、何通かの手紙と一緒にこの手紙を紹介し、「こんな手紙を書いてくれる友人が一人いれば僥倖」と書いている(銀語録)。
ならば、何らかの理由で、志賀のこの対応は里見の琴線にふれたのだろう。
手紙を受け取ったときの里見が置かれていた心理状況を考えてみよう。
八重の件以来、自己嫌悪の泥沼にいた里見にとって、絶縁は半ば自暴自棄の部分もあったかもしれない。手間はかかっても話し合いで志賀との共依存的な関係を改善する方法もある。
絶縁は最も手っ取り早いが、乱暴だ。
里見は、自分が背伸びをして志賀を騙していると繰り返し書くが、これは事実と言うより、自己嫌悪のフィルターを通した見え方ではないだろうか。
自分自身を嫌悪している人間が、尊敬する相手から評価されたとき、たとえ正当な評価であってもそうは受け取れないだろう。
相手が自分にだまされて買いかぶっているように感じ、そのギャップに苦しみ、なお追い詰められるのではないか。
里見は、その苦しみからも逃げたかったのではないだろうか。
だとすると、志賀との絶縁は、里見を楽にすると同時に、自己嫌悪の沼に置き去りにする側面もある。
この二人の関係は、あまりに密着しているために、単純な善悪で割り切れないところがある。
志賀は里見にとって救いであるとともに苦しみでもあっただろう。
里見の懇願をこばむ志賀の意図は、わがままであると同時に、思いやりでもありうる。
絶縁もまた然りで、解決であると同時に自己放棄でもあったのではないだろうか。
しかし志賀は「弱り切るな」「自分に愛想を尽かすな」と、里見の手を離さなかった。
その言葉は、まさに自分に愛想を尽かしたかった里見をハッとさせたのではないだろうか。
志賀も、里見の手紙により、自分の誤解に気付いたのかもしれない。
それまでの志賀は、里見が古い蝉の殻のように脱ぎ捨てたがっている対象は、志賀だと考えていた。
しかし、里見が疎んじているのは志賀ではなく、里見自身だったのだ。
志賀はそう気付き、怒りをおさめたのではないだろうか。
もちろん推測である。
しかしいずれにしても、ドンキホーテの短編を腹立ち紛れに書いてみたりしたものの、志賀には実際に里見を「クビに」できなかった。
仕切り直し……そして山手線にはねられる
とにもかくにも、絶縁は回避された。
ふたりは関係を仕切り直す。
それから一月後。
大正2年8月15日の晩、ふたりは、またいつもの散歩に出かけた。
その晩は、お台場への立ち入りが可能だった。
当時、お台場は軍の管轄下で、日常の立ち入りが禁止されていたようだが、納涼のため特別に一般にも解放されていたという。
妙に不安な夜だった。
ふたりは堤防に座って、月の出た海を眺めた。帰りに素人相撲をおもしろく観戦したあと、いつものように知らない路地へ入り込んでみた。
路地は土手に突き当たって終わっている。
見上げると鉄道の信号がのぞいていた。上は鉄道線路だろうと踏んだふたりは、向こうへ通り抜けられるのではないかと土手をのぼってみた。線路という予想はあたりだったが、通り抜けはできなかった。
しかたない。
引き返すのも面倒だし、線路に沿って進み、降り口を探そう。
二人は線路沿いを歩き出した。
最終電車はもう終わっていたが、線路に対しては安全な距離を置いているつもりだった。
しかし、回送電車が背後からあらわれる。
轟音とともに電車が通り過ぎていく。地響きと熱い風を感じた。
通り過ぎていく電車の後ろ姿。点灯する赤いランプと、駆け抜けていく窓のあかり。はげしい光の明滅と電車の轟音のなかで、志賀が弾き飛ばされ、血を流しながら地面に崩れ落ちるのを、里見は見た。
志賀は背骨をしたたかに打たれ、頭を石に打ち付けて、頭蓋骨が見えるほどの傷を負った。
――これが、かの有名な、志賀直哉の山手線事故である。
くわしいことは里見の「善心悪心」に書かれているのでご覧いただきたい。
この事故は、ふたりに大きな転換をもたらした。
志賀はどうやら電車本体ではなく、突き出した昇降台に接触したらしく、致命傷にはならずにすんだ。
この事故で死を思った志賀は、それまでの張り詰めた作風ががらりと変わり、穏やかな調和の世界を描くようになる。その変化の前後を区別して、前期、後期と呼ぶ。
里見もまた、志賀を救おうと奔走した経験から、その後の彼の文学を貫く信念をつかんだ。
いわゆる「まごころ」だ。
平たく言うと、心底の望みに従って一心に生きるありかたを指す。
この事故はあとで振り返れば結節点だっただろうが、とは言え一気に真理にたどりついて問題が一気に解決する、というわけにはいかない。変化はゆっくりと積み重ねられていくものだ。
事故の治療がすんだ大正2年10月14日、志賀と里見はそろって東京を出た。
「二、三日のつもり(「朱き机」)で大阪に着いた里見は、そのまま大阪に残り、初めて実家を出て一人暮らしを始めた。
もともと畿内のどこかに一人住まいするつもりでいたが、最初に立ち寄った大阪を気に入ってしまったらしい。
有島家から自立し、自己嫌悪から離れて「素の自分」になるためだった。また、後にインタビューに答えて「志賀から逃れるため」とも言っている。
志賀は2、3日大阪に留まり、一緒に過ごしてから城崎へ向かい、事故の療養につとめた。そこでの経験を書いたのが「城の崎にて」だ。
ふたりの関係の複雑さを思わせられるのは、このあとだ。
志賀から逃げて一人になろうとしたはずなのに、この年の十二月、城崎から帰京した志賀に、里見は手紙でこう書いている。
「直介」は、白樺派の同人に加わっていた三浦直介だろう。
その翌大正3年に、志賀は京都に転居した。
何も近くに里見がいたからというだけではないだろうが、志賀と離れようとしたのに、遊びに来いと声をかけ、結局は大阪と京都という近距離で暮らしているのだからおかしな話だ。
里見は、「君と私と」の続稿に取りかかっていた。
東京にいるうちから書き始め、志賀のチェックを受けてまた書き直す。そのあたりの状況は、「失われた原稿」に反映されていると思われる。
「失われた原稿」は、おそらくこの原稿紛失事件と、父有島武の看病の経験を下敷きにしていると推測されるが、人の心理の精妙さにスポットを当てた秀作だ。
こうやって涙ぐましい努力をして、里見は大阪で「君と私と」の続きを書き上げた。
しかし、これが東京で紛失し、「君と私と」は未完となってしまう。原稿は未だに見つかっていない。
後の白樺座談会でその話が出ているが、どうやら志賀から疑われていたのは三浦直介だったようだ。
紛失したその回に、三浦の失恋騒動が書かれていたので、なんとかして公開させたくなかったのではないか、と志賀は思ったようだ。
松江へ~志賀を振り払う
このころ、慣れない貧乏暮らしのせいか里見が身体を壊してしまう。
大正3年5月、志賀と里見は療養を兼ねて松江へ向かった。
この途中で鳥取砂丘に寄って、巨大な大仏の顔を描いたりした。
松江では、ボートで毎日のように宍道湖に出、泳いだり、無人島で相撲をとったりして暮らした。のんきとしか言いようのない二人組は、不審がられて警察に調べられたりもした。
また、志賀はこのころ夏目漱石から朝日新聞連載の依頼を受けて、「暗夜行路」を書いていたが、書き上がらないと断念し、上京して漱石宅を訪問して連載を断った。このとき、緊張のせいか指がぶるぶる震えていたので、漱石は志賀を心臓病かと思い、同情したという。
そんなほのぼのした日々にも、ふたりの微妙な関係はつづいていた。
というのも、里見が「行くのなら別々の下宿か、同じ下宿でもいちばん遠い反対端同士かでないといやだ」と言ったために、二人は別々の下宿に入っているのだ。
一緒に松江まで行って暮らそうというのに、同じ家はいやだという、そこに適切な距離を置くための努力が続いていたことがうかがえる。
しかし、それも無理はなかった。
前回の記事で紹介したように、志賀が里見を拉致(?)する習慣はまだ続いていたからだ。
ある晩、雨のそぼ降るなか、いつものように連れ去られかけた里見は、志賀の手をほどこうとする。ふたりは争い、とうとう里見は初めて志賀の手を振り払った。
「じゃあ帰れよ」
「帰るよ」
そんな会話を交わして、二人は別れた。
それは些細な、しかし里見にとっては大きな成長だった。
翌日、ふたりはいつもと変わらなかった。しかし里見は、志賀の束縛を越えたと感じていた。
やがて里見は帰宅しなくてはならなくなる。姉の病気療養に付き添うよう頼まれたのだ。
松江を出た里見を追うように、志賀の手紙が来た。そこには、里見が出発した日大雨になったこと、傘も差さずに歩き回ってすっきりしたことが書かれていた。里見は読み終えて泣いた。
「或る年の初夏に」には、ふたりの「ある時期」の終焉が描かれている。
二人で生きた青春は、里見が志賀を振り払った夜に終わったのだ。
ふたりは松江から戻ると、それぞれ別の人生に進んでいくことを確認するように、慌ただしく結婚した。
志賀は松江から戻ると、すぐに東京の武者小路に連絡した。
およそ一年前、武者小路の従姉妹との縁談が志賀のもとに持ち込まれていた。武者小路夫人が「あのふたりは絶対に相性が良い」と提案したのだという。
そのときには結婚という気にならず断ったものの、彼女を気に入らなかったわけではなかった。以前にも二度ほど見かけていて、恋愛感情とはいかないまでも、彼女の雰囲気に好感を持っていたらしい。
そういうなりゆきから、結婚を考えたときに思い浮かんだのが彼女だったのではないだろうか。
この女性が、志賀と添い遂げる康子夫人だ。
改めてお見合いをし、その年の暮れにはもう結婚した。
さすが志賀と言うべきか、早い。
しかしこの結婚は、夫人が初婚でないのを理由に、志賀の父から大反対を受けた。再婚と言っても、嫁入り先の前夫が早世したのだから、夫人の人柄などの問題ではなかったのだが。
志賀と父の対立は深まった。
志賀は、夫人を守るため、まとまった財産を受け取って志賀家の跡取りの座を放棄した。
一方の里見も、松江に行く前から恋人だった下宿の娘と結婚する。まさ夫人だ。
が、こちらも、有島家から猛烈な反対を受けた。
まさ夫人は芸妓で、親の作った莫大な借金、病身で働けない弟などを抱えていた。息子が騙されているのではないかと両親は危ぶんだらしい。
兄弟のなかでも、長兄有島武郎は賛成したが、次兄生馬などは大反対だった。
とは言え、まさ夫人とはおなじ家に住んでいるのだから、許可は出なくても所帯を持ったも同然だ。
両親が折れて結婚が認められたのは翌年、大正4年の末だった。
借金は清算され、芸妓をやめ、夫人の実家とは没交渉とする、というかたちだったが、実際は夫人の実家に生活費を送ってはいたらしい。
里見は大阪を引き払い、まさ夫人と東京に新居をかまえる。
こうしてそれぞれの足場が固まったところで、いよいよ絶縁が近づいてくるのである。
絶縁
志賀は、結婚後、転居を繰返していた。
結婚をめぐる一族の不和のために、康子夫人が体調を崩してしまったので、その療養のためだった。
その間、志賀と里見は頻繁に手紙をやりとりし合い、互いに励まし合っていた。
大正4年9月、志賀は千葉県の我孫子へ転居した。
10月には里見も東京へ移り住み、両親から結婚の許可を取り付けて、やっと身辺が落ち着き始めた。
そして迎えた大正5年。
里見にとって、大正5、6年は、文壇の花形として地歩を築いた年だ。
大正3年、志賀が朝日新聞の連載をことわったことを憶えておいでだろうか。そのため誌面に穴があくことになり、漱石たちは急遽、注目の新人作家を数名選び出して、短期集中連載させる企画を考えた。
そのひとりに里見が選ばれたのだ。他には武者小路実篤や谷崎潤一郎らも名を連ねており、さぞかし華やかな企画だったに違いない。
「白樺」は仲間内で出している雑誌だから、原稿料は出ない。いかに注目されようとも、立場としてはアマチュアだ。しかしこの連載で、里見はいわば商業デビューを果たすことになった。
そこから里見の注目度は上がっていく。翌年には、新人作家の登竜門として憧れを集めていた「中央公論」の名編集長、滝田樗陰からも原稿を依頼されている。
まさに、これからである。
大正5年は、里見にとって明るい年だった。
一方、志賀は大正3年「暗夜行路」が行き詰まってからというものスランプで、「冬眠」状態にあり、新作を書けずにいた。手をつけても完成しない。
初めて迎えた我孫子の冬は、人も少なく、陰鬱で寂しいものだった。志賀は精神的に追い込まれていたらしい。
里見に先駆けること4年、中央公論にも登場を果たした注目作家であった志賀は、創作ができずに、我孫子の雪の中に埋もれていた。
大正5年は、志賀にとって暗い年だった。
2月、里見は我孫子を訪ねた。
ここで里見が我孫子に転居する話が出たのか、その月末には志賀が里見の土地を用意し、にわかに里見の転居計画が動き始める。
5月になった。里見は原稿に追われながら、長兄武郎に家の設計図を依頼するなど、秋をめどにした転居計画を進めていた。
しかしそんな矢先、16、17日と、訪問の約束を立て続けにすっぽかし、志賀を待ちぼうけさせる。
実は、里見は、以前からしばしば志賀との約束をすっぽかしていた。
志賀が京都に住んでいたころの書簡にも、里見にすっぽかされた怒りの内容が残っている。
ただし、これについては白樺派の園池公致が、里見は待ち合わせにルーズだと体験談を書いているから、志賀に対してだけではない。
おおむね、だらしないことを言いつつもマメな気質だったようだが、そのへんは「待ってもらえるだろう」という弟気質が出たということなのだろうか。
志賀は激怒し、里見の生活態度全般を「ダル」だと手紙でなじった。
現在ほど約束にうるさくない当時としても、志賀が怒るのは当然だ。
しかし、生活態度までなじったのはやりすぎだっただろう。
そのあと冷静になった志賀は、言い過ぎたことを謝罪し、再度の約束をし直そうとする。
だが、里見の返事はおそらく志賀の予想を裏切るものだった。
里見は、志賀の難詰に対して反論した。
「君のために言う」と高圧的に書かれた志賀の言葉を皮肉って、
「そんなに好きでいてくれてありがとう。
僕が君をそんなに好きじゃなくて心苦しいよ」
とやり返しているわけである。
手紙は、皮肉な調子からだんだん激していく。
里見はさらに、我孫子への転居は、妻の性格など気がかりが多かったと書き、我孫子へ転居しても志賀とは没交渉としたい、いや、もう我孫子へは転居しない、と続ける。
もはや志賀の友情はいらない、返信も要らないと断じている。
ご丁寧に、借りていた電車代まで同封してたたきかえしている。
実質的に絶縁を申し出たようなものだ。
志賀が絶縁したと思われているが、実際は、里見が申し出たことだったのだ。
考えてみれば、つねに絶縁を望んでいるのは里見の側だった。
前々から考えていた絶縁をついに断行した、と見ることもできるかもしれない。
これは推測だが、里見の我孫子移住が、志賀の主導で強引に進められていたならどうだろうか。
里見は「我孫子への転居は気が進まなかった」と書いている。
一方の志賀は、里見が初めて我孫子を訪問してから半月もしないで、里見のための土地を買っている。我孫子で人恋しくなっていた志賀が、里見をそばに呼ぼうと強引に行動したのではないだろうか。
実は志賀も、我孫子に転居するさい、先住者だった白樺派の柳宗悦が協力してくれていた。途中で躊躇したときには、すでに柳が土地を用意してくれていたために引っ越しを取りやめられなかったふしがある。
里見も同様に、土地があれば転居して来ざるを得ない。
志賀はそう考えたのではないか。だったら、土地の売買が拙速と言えるほど早かったこともうなずける。
里見はこれまで、ほどよい距離を開けようと努力してきた。志賀の強引さに、過去を思いだして不安になっても不思議はない。
せっかく松江以来、適切な関係になれたと思ったものが、そばへ転居することでまた崩れてしまったら……。
そんな思いが、強硬な態度として爆発した可能性もあるのではないだろうか。
「汝穢らわしき者よ」
それ以来、ふたりのやりとりは途絶えていた。
7月、「善心悪心」が発表された。
「善心悪心」を、志賀は汽車のなかで読んだ。
読み終えると怒りのあまり雑誌を窓から投げ捨て、駅から郵便局へ直行して、ハガキに「汝穢らわしき者よ」と大書して投函した。
帰宅してからは、それまでに里見が志賀にくれたものすべて、たたき壊して捨てた。さぞかし康子夫人も驚いたのではないだろうか。
ただ、「神父セルギュース」という本と、しまいわすれていた梅の花の小皿だけは破壊をまぬかれたという。
勢い余ってか、志賀は、ハガキに差出人を書かなかったらしい。
しかし、受け取った里見は、字で相手を察した。
なんの説明もないから、「善心悪心」のせいだとはわからず、一ヶ月前の没交渉の手紙への返事かと思ったらしい。
「汝穢らわしき者よ」というとなんだかかっこいいが、「このクソ野郎」と殴り書きしたハガキが届いたようなもので、立派な怪文書である。
怒りのあまり血の気が引いた。
里見は、怒ると血の気が引いて、青ざめるたちだったらしい。
横からまさ夫人が心配し、ハガキを手にして絶句した。
「あんまりね……」
その後、夫人は「破きましょ?」とたずねたが、里見は首を横に振った。そして、そのハガキを執筆に使っている机の引き出しにしまった。
「机の前に貼っておいた」と「引き出しにしまって、怠けたくなると取り出して眺めた」と微妙に違うことを里見はそれぞれ書いている。どっちかはわからないし、どっちともかもしれない。
だがとにかく、里見は数年のあいだ、そのハガキを、執筆するそばに置いていた。
里見はくじけそうになるたびに、そのハガキの存在によって、「あいつに負けてたまるか」と気持をかきたててまた執筆に向かったという。
不思議な話だが、志賀への怒りが逆に里見を支えていたということになる。
ここから、足かけ8年にわたる絶縁が幕をあけたのである。
こうやって通してみてくると、やはり里見の行動は、以前からの積み重ねのうえにあると言える。大正元年から絶縁を避けようと試行錯誤してきたふたりだったが、とうとう絶縁に至ったのだ。
志賀はのちに、「正誤」という随筆で、絶縁したのは、自分が書いた「汝 穢らわしき者よ」の絶縁状のせいだと書いている。
しかし里見は晩年まで、自分の手紙が絶縁の原因だと考えていた。
時系列で考えれば里見のほうが正しいはずだ。
どうして志賀が自分のせいだと言ったかはわからない。
プライドの高い志賀は、里見に絶縁されたなど口が裂けても言いたくなく、自分が言ったのだと上書きしたかったのかもしれない。
もしくは、絶縁を申し出るような子どもっぽい行為をしたのは自分だ、ということですませて、プライベートの詳細を語るのを避けたのかもしれない。
あるいは、里見の宣言は「没交渉」に近く、絶縁と言うほど激しいものではない、と言うこともできるかもしれない。
里見自身、のちに「自分から絶縁を言い出したことはない」と書いているのがその証左のようにも思える。その場合、里見が没交渉を宣言し、志賀が絶縁状でこたえた、ということになろうか。
どれともわからないが、志賀のほうが有名なため、志賀が絶交状を送り里見を絶縁した、という話のほうが著名になっており、先に里見のほうが距離を置いた事実はあまり知られていない。
特に、里見弴の評価が下がり、忘れられるようになってくると、「里見弴が絶縁した」よりは、「志賀直哉が絶縁した」のほうが、志賀の短気なイメージとも合って受け入れられやすかったのだろう。
しかし、人口に膾炙した「里見弴が志賀直哉に絶縁された」という話は、実際は、「志賀直哉が里見弴に絶縁された」のほうが、より正しいのである。
なんなら、「絶縁したがる里見弴をなだめなだめしてきたが、とうとう絶縁されてしまって逆ギレした」とも言える。
世の諸案件と比べたとき、ぜひ真実が知られてほしいと言うほど重要なことでもないが、よかったら「このようなこともあった」と心の隅にとめて置いていただきたい。
ところで、「汝穢らわしき者よ」のハガキは紛失したのか、公開されていない。
キャッチーな文言なので、残っていればさぞかし、グッズ化してTシャツになったり、マグカップになったりと、大活躍だったに違いない。非常に残念である。
以上、駆け足だが、大正5年の絶縁までの経緯を見てきた。
それからふたりはどうなったのか、気になるところではあるが、もう一つ気になることがある。
志賀は善心悪心の何にそんなに怒ったのだろうか。
実は、腹の立った箇所を志賀が具体的に示したことはないため、はっきりとはわかっていないのである。
この件は、「腐合いと蝉脱」からのひとつらなりとも見られるから、「君と私と」の立腹の原因と合わせて検討したい。
次回は、志賀の怒りの原因について考えてみよう。
【参考文献】
里見弴「朱き机」『閑中忙談』桜井書店,昭和16
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