日記のような何か

僕の家には庭がある。
そこまで立派なものではないかもしれないけど、
小さな植木やら花壇やらが置いてあって
天気のいい日は縁側に腰かけて
外の空気を楽しめるような
そんな庭だ。
庭なんてない家もめずらしくないこの世の中で
ちょっとした僕の自慢だ。

僕の庭には、たまに猫がやってくる。
黒い野良猫。
どこからやってくるのかわからないし
いつくるかもわからない。
気が付いたらふらりとやってきて、
窓越しに僕に話しかける。
そんな時は縁側に出てきて
しばらくその黒い野良猫と話をする。

猫の話は難解だ。
その小さな頭にいったいどれだけの知識がつめこまれているのか
僕よりも生きてきた時間は短いだろうに
僕よりも多くの物事を見てきたかのように
古今東西、さまざまな知見を織り交ぜて
答えなんてどこにもないような、そんな話をする。

僕はいつも痛くなるほど頭を働かせて猫の話を聞く。
聞くだけではない。
猫は僕に意見を求める。
こんな、こんな何も知らない僕に。
「君はどう考える?」と真ん丸な目をきらめかせてしっかと僕を見る。

人類代表と、猫の代表が、対話をしているような。
はたして人類代表が僕なんかでいいのだろうか。
僕は、せめて人間として恥ずかしくないように
何が恥ずかしいのかもよくわからないけど
考えて、考えて、考え抜いて、
絞り出すように答える。
どんな答えでも猫の反応は同じ
「興味深いね」
ただそれだけを返すとふらりと帰っていく。

猫は、猫なもんだから、表情がよくわからない。
僕との会話を楽しんでいるのか、退屈に思っているのか、どうなのか
だけれどもこうやって飽きもせずに庭にやってくるということは
少なくとも嫌ではない…ということか。
都合よく思っていようとしているけど正直自信はない。

僕は、僕はどうだろうか。さらにわからない。
猫との会話を楽しく思っているのか、恐ろしく思っているのか、どうなのか
知らない知識を、考え方を知れることはとても楽しい。
だけど僕という人間の底の浅さを、
猫に気づかれるのがたまらなく恐ろしい。

黒い野良猫。
彼が帰っていく姿を見送っては
また来てほしいと思い
もう来ないでほしいとも思い
でも、もう二度と来ない日が来ることを恐れている。

僕は弱い人間だ。
いや、僕だけではない。そも人間というものは
この世界に生きる動物の中で最も弱く愚かなのだろう。
本当は無知で醜い存在なのに
食物連鎖から唯一抜け出した賢い生き物のふりをしている。
その「ふり」を他の動物に見抜かれることを無意識に恐れている。
それが人間の弱さだ。愚かさだ。

僕の無意識にあった筈の恐怖は
黒い野良猫と会話をした日から最大の意識となって表れた。
どうして僕だったんだろう。
この恐怖をずっと無意識にしまっていて、
そんなものは最初から存在しないのだと思って過ごせたらよかったのに。
どうして、僕だったんだろう。

猫との会話はどんどん、
楽しみから苦痛に変わっていった。
僕の知らない知識を知る楽しさよりも
猫の前でボロを出すかもしれない恐怖の方が大きくなった。
少しでも対等に、賢く見えるよう考えて考えて取り繕った言葉ほど、
猫の澄んだ瞳は見透かしているように見えて。
彼のあくび一つが、「つまらない動物」と言われているように見えて。

ついに耐えきれなくなって、
ある日猫にぽつりとこぼした。
「ねえ、どうして僕なんかといつも話をしてくれるの?」
黒い野良猫。
彼はただ黙って、まっすぐに僕の顔を見つめて言葉の真意を問うてくる。
そのあまりに真摯な姿勢に、僕は彼の顔を見ることができなくなって
ただ、自分の足の親指を見つめていた。
「僕、君ほど賢くないんだ。君ほど物を知らないし、君ほど物事を深く考えたことなんてない。どうして僕なの?」
どうして何も言ってくれないんだろう。
相槌一つ聞こえないその沈黙が耐えられなくて、
どんどん重くなっていく空気をごまかしたくて乾いた笑いをあげてしまう。
「こんな馬鹿な僕の話なんて聞いたってさ、君はつまらないんじゃないかな」
こんなの、全然大した話じゃなくて、軽い世間話なんだよって
そんな空気で話したいのに。
そんな空気に、どうしてしてくれないんだろう。

「なんて…ね」
目をそらし続ける勇気もなくて、
笑顔のできそこないのような歪んだ顔で猫を見上げて
初めて自分の最大の失敗に気づいた。

僕はなんて返してほしかったんだろうな。
「そんなことないよ」って言ってほしかったんだろうか。
「人間だって、君だって、なかなか面白い動物だよ」とかなんとか
そんな当たり障りのない優しさを貰って
安心したかったんだろうか。

でも猫は、猫なもんだから
僕のような人間の浅はかな期待なんて知ったこっちゃなくて
「わかったよ」
ただその一言だけを残して、去って行った。

猫はとても静かに歩くんだね。
あまりに静かに歩くもんだから、消えていくみたいに、行ってしまった。

黒い野良猫。
彼はそれからもう、二度と僕の庭には来ない。


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