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蝉は夏を知らない。

 やあ、今日は話を聞きにきてくれてありがとう。帰りたかったら途中で帰ってくれて構わない。これはあくまでも、そういうものとして聞いてくれればいいさ。え? 田中さんの実家が燃えた? 田中さん、いますぐ帰りなさい。おうちの人が心配してるさ。え? いきなり台詞なのにカギカッコがない? 仕方ない、適当につけておくよ。「」ああ、そういうもんさ。適当に聞いてくれ。

 無知であることは、幸福か。あるいは、好奇心とは善意で舗装された地獄の道か。
 既知は不可逆的だし、だから、まァこの問いはあまりにも意味の無い問いかもしれないが、それでも俺はやはり考えたいと思っている。「知らぬが仏、知るが煩悩」なんて言うなんて、たぶん江戸後期の人間たちも同じことを考えていたに違いない。やはり、俺たちの煩悶は既知からくるんだヨ。そうだ。そうだ。ん、どう思う?
 昨日読み終えた小説に、作中において不自由を象徴する女が、開けた窓に頭をもたれて寝ているシーンがあった。主人公はそれを外から眺め、その女のすぐ近くに留まっている油蝉を見つける。そのまま飛び立っていけば、女はその油蝉について一生知らぬままだろう。それについて主人公は、それならば、蝉ははじめから居ないのと同じだ、と言い切っていた。

 そう、知らなければ、はじめから無いのと同じなのである。
 蝉は、雨季の終わりの湿度と気温の上がる時期に生まれ、そのまま数週間の命を終えて死んでゆく。ただ性交のためだけに地から這い上がり、そしてただ性交を終え、そのまま、死ぬ。さらばヨ、蝉たち。
 彼らは、何も知らない。他に何も知らない。もちろん、彼らには経済はないし、少し太めのパスタも、ヨナ抜き音階だってない。それらをそれとして知覚することはない。永劫に。
 彼らは、いや、一部の錆びついた思考回路を持つ人間にも当て嵌まることかもしれないが、子孫を残すことが全てであり、セックスを何度できるかが人生なのである。それ以外には何も無く、あとは黙ってその醜悪な肢体を蟻や蝿に餌として差し出すのみである。それはやはり、無いのと同じだろう。全ての意味という意味が、無いのと同じだ。ヨッ、ほらそこの反出生主義者よ、喜べ!
 と、まァ、つまるところ、蝉は、幸福かはさておき、不幸ではない。何も知らぬ以上、煩悶のひとつも無い以上、一様に皆、不幸ではないのだ。

 はたして、そりゃア彼らの性行動は、いわゆる本能に全面的に服従しているもので、煩悩によるものではない。そうなればそりゃア不幸も幸もありゃしない、と思う人もあるかもしれない。
 しかし、それは少し違う。少し、というか、もっと決定的に論点がズレているよ、それは。
 俺たちはそもそも、全面的に蝉にはなれないのだ。もう戻ることはできない。
 もう、知ってしまっているのだ。自分が、知れる、ということを知ってしまっているのだ。経済も、少し太めのパスタも、ヨナ抜き音階も、難しくともその気になれば知れる。その気になれば知れる、ということを知ってしまっている。だから、だから、俺たちは不幸なのである。俺たちの不幸の根源は他ならぬこれだ。
 それは、ただ、本能と煩悩の違いなどでは無く、機能なのだ。仕方あるまい。仕方あるまいよ。
『おい、ちょっとまてよ、チョ待てよ。本能は、つまりイコールすなわち煩悩じゃないか?』
 って、いや、そうだよ。だけれど、そうなのだけれど、ほら、それをそう考えてるじゃんか。お前、本能を煩悩として知覚してるじゃんか。ちゃんと行為を理性による指示系統として分類し、知ってるじゃんか。もう。分類は知的行為だよ。犯罪だよ。取り締まるよ?

 そんなことばっか言っていたら、「じゃあ、どうすんだよ!」って怒られるよな。チコちゃんに。あ、あれは叱られるか。まあいい。エェ。八方塞がりもいいところだヨ。
 ということで、だから、ひとつの解をここに話しておこうと思うぜ。それは、言い換えるなら、不幸になれる才能だ、と俺は考えているんだ。
 ここまでこんな話を聞きつづけているキミたちは、日頃から物事をよく考える人間に違いないよな? あゝ、同志よ。親愛なるキミたちよ。キミたちには不幸になれる才能がアリマァス。テンクスゴッド。アーメン。
 だってそうだろ? 結局、知ることは不幸なんだよ。お前はそれで煩悶してんの。そんなに。お前の悩みは知識によるものだよ。甘えんな。あほんだらが。雑魚が。ゴミ。カス。綿ぼこり。お前はそのままでいいんだよ。好きだぜメ〜ン。

 ただどうやら大半の人間は普段からそこまで考え事をしないらしい、ということを俺は最近知ったんだ。
 けど、それは、言ってしまえば蝉とおんなじだ。ただ生きていればいい。ただセックスできればいい。あわよくば、子孫を残したくなる。現に、子孫を残す。エェ俺らと違って。
 そう、実は俺たち、自然淘汰的に明らかに不利なんだよ。でも、まあいいか、俺たちみたいな不幸で虚ろで死にかけのイソギンチャクみたいな人間を増殖させても仕方ないし。
 ただ、俺たちには不幸になれる才がある。これはデカい。もう何も恐れなくていいのだ。何でも書ける。何でも奏でられる。ページをめくって、キーボードを叩いて、4Bを走らせて。不幸になろうぜ。どんどん、どんどんどんどん不幸になろうぜ。
 啼かない蝉がいい。たとえ自然淘汰されるとしても、知ってしまったが故に、啼かない蝉がいい。啼かない蝉のこと、今年の夏、俺は愛すよ。

『蟪姑春秋を識らず伊虫あに朱陽の節を知らんや』
 曇鸞大師の『往生論註』の一説だ。
『蝉(蟪姑)は、春と秋を知らない。この虫はつまり夏を知らない。』
 夏に出、夏に死す蝉は、この世界に夏以外の季節があることを知らない。ということはつまり、他の季節と比較できない以上、自分がいま生きている季節が夏ということも知らない、ということだ。

 キミたちは、季節は好きか。俺は好きだ。知って、不幸になって、それが、好きだ。
 今年、啼かないことを選んだ蝉には是非、そのまま生き残って越冬して春を迎えてほしい。そして、夏を知って、不幸のまま蟻に食べられてしまえばいい。

 聞いてくれてありがとう。あァ、俺の話はこれでおしまいだ。

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