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【第1章】その19✤クレーヴェ公国の王子達

公女でありながらもマリーは「狩猟」へも恐れを知らず付いていく少女で、小柄で色白でありながら、一方男の子のような活発さを併せ持つ非常に魅力あふれる姫だった 


 ところでその当時マクシミリアンの領地だったオーストリア・ウィーンと、マリーのお城があったフランンダース地方のゲントとの中間あたりにはクレ-ヴェ公国(注1参照)という公国があった。
 
 双方の中間とは言っても、ウィーンからは1125㎞ほど離れていて、一方ゲントからはたった200㎞程しか距離がないので、クレ-ヴェ公国はドイツ神聖ローマ帝国に属していた領邦(りょうほう)の一つだったものの、それにも拘わらず神聖ローマ皇帝家のハブスブルグ家よりも、ブルゴーニュ家の方が断然近い関係だった。
 
 距離が近いというだけではなく、この公家同志も婚姻によってやはり親戚関係でもあり、マリーは子供時代このクレ-ヴェ公国家の御曹司たちと共にゲントのお城で育てられていたのだ。
 
 その御曹司達が前述のクレーヴェ公家のヨハンとラヴェンシュタイン公家のフィリップなのだが、まずこの2人は従兄弟同士、そしてヨハンの祖母は父方の祖母も母方の祖母も共にマリーの祖父フィリップ善良公の従姉妹にあたり、またマリーの父シャルル突進公とフィリップの父アドルフ1世も従兄弟同士なので、フィリップとマリーも又従兄妹同士だった。
 
 当時のヨーロッパ王室は既に全員親戚同士と言ってもおかしくない程、密接に血が繋がっていたようだ。
 
 そして年齢的にはフィリップはマリーより1歳年上、ヨハンはマリーより1歳年下で、まさに同年代であり、一人っ子のマリーにとって、彼らは兄と弟のような存在でもあった。
 
 また欧州一を誇る富豪の公爵家の公女にとって、堅苦しい女官達と共にいるよりは、男の子の従兄弟達と過ごすときのほうが何倍も羽を伸ばして自然に振る舞うことができ、3人での馬の遠出だけではなく、彼らと共に狩りのお供にも付いていくようになる。
 
 当時の高貴な身分の若者達にとって「狩猟」(注2参照)と言うのは教養の一つとされていたのだが、公女でありながらもマリーは狩猟へも恐れを知らず付いていく少女で、小柄で色白でありながら、一方男の子のような活発さを併せ持つ非常に魅力あふれる姫だった。
 
 少年時代からウィーンや、その近郊の山の中で、親友のウォルフガング・ポルハイムや竹馬(ちくば)の友ジークムンド・プリュシェンクと野山を駆け回って体を鍛えていたマクシミリアンと、深窓の令嬢マリーが10代前後にやはりマクシミリアンと良く似た生活をしていたとは驚きであり、まさに出会うべくして出会った運命の2人だったとは言えないだろうか。子供時代の趣味を通して見ても、精神的な面でも非常に似た魂を持った2人だったのだ。
 
 そんなある意味、気ままで自由で幸せなマリーの生活をガラリと変化させたのは、マリーの母イザベラが亡くなって約2年後の1467年6月15日のことだった。今度はシャルル突進公の父であり、マリーの祖父であるブルゴーニュ家3代目当主フィリップ善良公が亡くなってしまったのだ。
 
 これによって父シャルル突進公はブルゴーニュ家4代目当主となり、その一人娘であるマリーは名実共に、この華麗なるブルゴーニュ公国の後継者となったのだ。
 
 ただの公爵令嬢から次期公爵家後継者である。

  フランス王家であればドーファン(フランス国王の法定推定相続人・王太子の称号)であり、ドイツ神聖ローマ皇帝家であればローマ王(次期神聖ローマ皇帝)にもなる可能性がある跡継ぎの地位だ。
 
 そしてマリーが継ぐブルゴーニュ公国というのは、この2つの王国に挟まれた、フランス王家に匹敵する程裕福な、欧州の王室中が憧れを持って見つめた金羊毛騎士団が存在する、全ての騎士が目指す理想の公国だったのだ。
 
 マクシミリアンが最愛の母を亡くした(エレオノーレが亡くなったのは11467年9月3日)8歳の頃、マリーは10歳でありながら既にブルゴーニュ公国後継者であった。

※絵はマリー・ド・ブルゴーニュの祖父であり、シャルル突進公の父であるフィリップ善良公(ブルゴーニュ公3代目当主)
 
 
(注1)
 クレ-ヴェという場所はドイツ現在のデュースブルクの近くであり、オランダの国境から10㎞離れた場所にある。このクレ-ヴェ公国というのは、後(あと)にユーリヒ=クレーヴェ=ベルク連合公国というかなり大きな公国となり、後(のち)にオーストリアからマリア・フォン・ハブスブルグ(マクシミリアンの曾孫)が嫁いでくることになる。
 またこの家系からは有名なイングランドのヘンリー8世の4度目の妃(きさき)となったアン・オブ・クレーヴズもいる。
 
 
(注2)
「14 世紀後半から 15 世紀初頭には、王権により狩猟は貴族のものであると法で定められはじめる。その結果、狩猟、とりわけ猟犬の群れを率いて騎馬で鹿などの獲物を追う狩猟と、鷹などの猟鳥(りょうちょう)を用いた狩猟が、貴族が行う狩猟としての社会的地位を確立する。また、同時期にヴァロワ=ブルゴーニュ家の狩猟司(しゅりょうつかさ)の規模が拡大しており 、狩猟と貴族身分との法的 な結びつきと、貴族社会における狩猟のステイタス上昇が同時進行している様子が窺える」
参考文献
「14 世紀アンジュー貴族の狩猟を通じた人的紐帯 アルドゥアン・ド・フォンテーヌ=ゲラン『狩猟宝典』を例に」    頼 順子著 より

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主な参考文献

「中世最後の騎士 皇帝マクシミリアン1世」江村洋著  (ISBN 4-12-001561-0)
「Maria von Burgund」 Carl Vossen 著    (ISBN 3-512-00636-1)
「Marie de Bourgogne」 Georges-Henri Dumont著   (ISBN 978-2-213-01197-4)
 
 
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