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【第1章】その18✤その頃のマクシミリアン---その2


  エレオノーレが亡くなったのは1467年9月3日、マリーの母イザベルが亡くなったのはその2年前の1465年9月25日のことで、いずれも9月、そしてマリーもマクシミリアンも共に8歳の時であった


 この時代の記録者であるジョルジュ・シャステリスによって、マリー姫誕生の瞬間、ブラバントの地に大きな雷鳴が響いたと記録されているとは前にも書いたが、「我らがマクシミリアン」が誕生した際にも、吉兆を表す大きな彗星が流れたと、こちらは宮廷歴史家のトライツザウルヴァインによって記録されているそうで、彼の栄光ある将来もまた、産まれた時には既にお墨付きだった。
 
 1459年3月22日に生を受けた彼はマリーより2歳年下で、マリーが母を亡くした8歳の頃、彼はまだ6歳の少年だった。
 
 実はマクシミリアンは5歳の頃まで言葉の発育に遅れがあり、母のエレオノーレでさえも自分の息子が何を言いたいのか理解できなかったということで、その事実はエレオノーレを大変心配させていたのだが、もしかしたらそれは彼の幼少期の恐ろしい経験から来ている可能性もあるのだろうか。
 
 マクシミリアンは3歳の1462年8月に、父フリードリッヒの弟、つまりマクシミリアンにとっては叔父であるアルブレヒト6世の扇動によって、母エレオノーレと共にウィーンの宮廷の奥まった一室に10日以上も閉じ込められてしまったのだ。
 
 父フリードリッヒが2人を助けに来たのは10日後で、その上彼は皇帝でありながら数日間城門で足止めをくらい、自分の城の中へ入ることもできずに、彼がやっと妻子と会えたのは謀反を起こした市民達と屈辱的な約束をさせられた後だった。
 
 10日もの間、いつ助けが来るかも---あるいはあの何かにつけて臆病者である夫フリードリッヒが本当に来るのかどうかもわからない状況の中、外では市民達の暴動の音が鳴り響き、エレオノーレは幼いマクシミリアンと二人でどれほど心細い思いをしたことだろう。そう考えると、マクシミリアンにとってもその母の恐怖は実際以上に大きいトラウマになって幼い心を支配した事件だったかもしれない。
 
 マクシリアンは賢い子供だったと言われているので、賢ければ尚更、大人以上に感受性も強く、自分と愛する母の置かれた絶望的な状況がわかってしまったのではないだろうか。
 
 でもそうは言っても、子供とは1歳半くらいの時には片言の言葉を発し始め、普通3歳では充分自分の言葉で要望なりは説明できるくらいにはなっている。なのでその暴動の前の3歳の時点でまだほとんど言葉を発していないのであれば、子供時代のマクシミリアンの言語能力が低かったというのは、そのトラウマとは関係ないのかもしれない。
 
 そして先の暴動は、幸いにして首謀者の叔父アルブレヒト6世に市民側の叛徒代表ホルツァーが反旗をひるがえし、結局2人共にそれぞれ殺害され、父帝フリードリヒ3世の勝利で終結を迎える。

 臆病なフリードリヒ3世というこの皇帝には、偉大なる守護神がついて守っているのではないかと思うほどに、このような局面において何もしないままであるのにも拘わらず、でもなぜか最終的には良い結果を迎えることになるという、不思議なほどの強運を持っている皇帝だった。
 
 また母エレオノーレが心配したマクシミリアンの言語能力については、6歳の頃には全くの杞憂だったことがわかる。
 
 彼はとても健康な子供だった。エレオノーレは5人子供を授かり、1歳にならずに夭逝した子供達が3人いて、無事成長したのはマクシミリアンと6歳違いの妹のクニクンデの2人だけだったのだが、マクシリアンは野山を駆け回って遊び、運動神経も群を抜いて優れていた。そんな彼が6歳頃になっていざ話し出すと、むしろ他の子供より流暢に流れるように言葉を操ることができ、また魅力的な人柄は誰もが惹き付けられずにいられなくなるほどだった。
 
 陰気な父王フリードリヒ3世とは似ても似つかぬ、彼の明るく魅力的な人柄は既に子供時代から見受けられていたのだが、それは彼がひとつには口元に常に穏やかな微笑みをたたえていたからと言われている。マクシミリアンは高貴な身分でありながら、それを決して誇示しないばかりか、いつも優しく明るく他人に接することができる王子だったのだ。

 武芸は何をさせてもたちどころに上達し、才気煥発で読書好きの少年でもあり、特に好きだったのは騎士物語や英雄伝説などの歴史書ということで、また見目麗しく、将来が楽しみな王子であった。

 エレオノーレの持参金のおかげで、皇帝家の財政は多少建て直しされたとは言え、ケチな倹約家で暗いだけの夫との生活に楽しみはなく、相変わらず侘しく貧しいままのこの宮廷でのエレオノーレの一番の楽しみはマクシミリアンの成長だった。どれほど母にとってマクシミリアンの順調な成長は大きな幸せをもたらしていたことだろう。

 ところがここでも悲劇が起こる。

 マクシミリアンが6歳の時に産まれたクニグンデ(1465年3月16日誕生)が2歳になった1467年、皇妃エレオノーレは33歳を目前に亡くなってしまう。胃腸感染症だったらしい。
 
 この結婚自体もともとは、エレオノーレにとっては叔母にあたり、マリーにとっては祖母でもあるブルゴーニュ公爵夫人イザベル・フォン・ボルトガルの提案によるものだったらしいのだが、彼女の幸少ない結婚生活は17年で終わりを迎える。

 ただ後の歴史から見れば、彼女が残したこのマクシミリアンがハプスブルグ家の後の繁栄に与えた影響は余りにも広大であり、そういう意味で彼女の嫁ぎ先での功績は計り知れないのだが、それを彼女の夫であるフリードリヒ3世が知るのはもう少し先のこととなる。

 実はフリードリヒ3世は、初めてエレオノーレに会った時、彼女があまりに小柄で子供のようで「本当に子供を産めるのだろうか」と彼女を妻に迎えて果たして正解だったのだろうかとためらったと言われている。その時の心配を覆す予想を上回るハブスブルグ家に繁栄を運んだのはマクシミリアンであり、その母エレオノーレはフリードリヒ3世始め、後のハブスブルグ家の縁者一同から感謝されるべき存在である。
 
 さてエレオノーレが亡くなったのは1467年9月3日、マリーの母イザベルが亡くなったのはその2年前の1465年9月25日のことで、いずれも9月という同じ季節、そしてマリーもマクシミリアンも共に8歳の時であった。偶然にも同じ年齢の時に、同じ経験を味わっていた2人だったのだが、この頃の2人の距離は1250kmとまだ随分と離れていて、お互いのことを知る由もなかった。

 また母を深く愛していたマクシミリアンの悲しみは計り知れないほどだった。33歳と言いう年齢のエレオノーレも、8歳という年齢のマクシミリアンも、母と子としては共に早すぎる別れだった。


※こちらの絵は「皇妃エレオノーレと2人の娘」という絵画で、この2人の娘とは1歳で夭逝してしまったエレナと、マクシミリアンのたった一人の妹だったクニグンデの2人の姫と母エレオノーレ。

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こちら主な参考文献になります。

「中世最後の騎士 皇帝マクシミリアン1世」江村洋著  (ISBN 4-12- 001561-0)
「Maria von Burgund」 Carl Vossen 著    (ISBN 3- 512- 00636-1)
「Marie de Bourgogne」 Georges-Henri Dumonto著 (ISBN 2-213-01197-435-14-6974-03)



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