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【第2章】その24✤マーガレット・オブ・ヨークのこと

 彼女の義母であるイザベル・ド・ポルトガルは、マーガレットについて「この素敵な女性の姿にとても満足しており、彼女のマナーと美徳にも大変満足している」と語った

 さて、ベアトリスがどうしても会いたいと願っている、マーガレット・オブ・ヨークとは一体誰なのか、皆さんは御存知だろうか。
 
 彼女の義母であるイザベル・ド・ポルトガルは、マーガレットについて「この素敵な女性の姿にとても満足しており、彼女のマナーと美徳にも大変満足している」と語ったというが、そもそもイザベル・ド・ポルトガルの母ポルトガル王妃フィリパは、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘であり、そのジョンはプランタジネット朝イングランド王エドワード3世(最初の世俗騎士団ガーター騎士団を創設者)の四男だった。
 
 つまりイングランド王家の血が流れるイザベル・ド・ポルトガルが英国びいきなのは当然で、本当はシャルル突進公の2回目の結婚の時点で次の嫁はイングランドからと願っていたのだが、夫であるフィリップ善良公がその時にはフランスとの関係を重視していたため、そしてまたフィリップ公が溺愛していた妹に娘がいたことから縁組が決まり、イザベル・ド・ブルボンがシャルルの2番目の妻となった。
 
 そのブルボンのイザベルが亡くなり、一刻も早く跡継ぎの男子をと誰もが考えたのは当然で、3番目の妻として白羽の矢が当たったのが、イングランド王になっていたエドワード4世の妹のマーガレット・オブ・ヨークだったのだ。
 
 実はこの頃のイングランドの情勢は、薔薇戦争中ということで、複雑な問題を抱えていた。
 
 先の百年戦争が終結してその2年後の1455年に勃発した薔薇戦争とは、簡単に言うと、ランカスター家とヨーク家のイングランド王朝の覇権争いだった。
 
 ここまで読んで、
「あれ、ランカスター家のイザベル・ド・ポルトガルにとって、ヨーク家は敵。ではイザベルにとってマーガレットも敵なのでは?」と皆さん思うことだろう。
 実際その通り、ランカスター家の血をひくイングランド国王のヘンリー6世とはジョン・オブ・ゴーントにとってはひ孫なので、イザベル・ド・ポルトガルにとっても近い親戚であった。
 
 そのヘンリー6世を退位させ、次期国王になったのがヨーク公リチャードの嫡男エドワード4世で、マーガレットの兄である。
 なので本来であれば、マーガレット・オブ・ヨークはイザベル・ド・ポルトガルにとって好ましくない家系の縁者と考えるのが普通なのだが、賢い彼女はブルゴーニュが莫大な富を引き出した毛織物業貿易は、イングランドとの友好関係に依存していると、よくよく理解していた。
 
 またもともと百年戦争において、1435年にフランスとフィリップ善良公の和解が成立した際に、善良公はイングランドとの同盟を破棄していて、ブルゴーニュ家とランカスター家の王ヘンリー6世の関係は以前から悪化していたということもあり、イザベルは自身の母の実家のランカスター家にはもちろん同情はしていたが、それでもブルゴーニュ家に大変友好的だったマーガレットの亡き父・ヨーク公リチャードのヨーク家側を、心の中では支持していたのだ。
 
 そしてもう一つブルゴーニュ家をヨーク派にした理由は、ランカスター家の王ヘンリー6世の妻が、憎き敵であるフランス王シャルル7世(蜘蛛王ルイ11世の父)の義理の姪のマルグリット・ダンジューだったから、とも言われている。
 
 それに何なんと言ってもこの時には既にランカスター家は没落していた。
時のイングランド国王はヨーク公リチャードの嫡子エドワード4世で、マーガレットはその国王の妹君なのだから……。

 ブルゴーニュ家とヨーク家は、もともとフランス王家に対する敵意を共有していたため、この縁談はこの両家にとっては必要不可欠 、そして逆にフランス王家にとっては大打撃となることなので、フランス側としては絶対に阻止しなければならない縁組だった。
 
 ヨーロッパの王室中から引く手あまただったマーガレットは、途中様々な婚約者が現れたものの、1467年にシャルル突進公の父であるブルゴーニュ公フィリップ善良公が死去すると、ブルゴーニュとイギリスの結婚交渉が本格的に再開され、フランス王ルイ11世はその後数ヶ月にわたって全力でこれを頓挫(とんざ)させることに努め、一見成功するかのように見えた。
 
 しかし幸いにして、結局ルイ11世の攪乱(かくらん)工作は成功には至らず、ついに1468年1月、イギリスの代表団がフランドルを訪れ、さらに協議を重ね、2月には縁組の合意が成立したのだ。
 
 マリーの実母ブルボンのイザベルが亡くなってすぐに交渉されていた婚姻だったが、ヨーク家にとってもマーガレットは非常に有効な駒であり、当時まだシャルルはブルゴーニュ公の御曹司という立場でしかなかったので、イングランドとしてもその時点では本腰を入れて交渉しようとは思っていなかった。少しでも良い条件での婿を探していたからだ。
 
 でもそれから2年後にはフィリップ善良公が亡くなり、シャルルは名実共にブルゴーニュ公爵となっていたのだ。一国の君主との婚姻は、イングランド王家にとっても願ったり叶ったりの縁談だった。
 
 なので、もしフィリップ善良公の死があと数年遅かったなら、多分その時既に20歳のマーガレットは他の王子や公爵と、違う縁組を結ばされていたことだろう。
 
 そうなればブルゴーニュ家にはマーガレットではない姫が嫁いで来ていただろうし、もちろんマーガレツトもブルゴーニュ家には縁のないままだったということになる。
 
 これが果たしてブルゴーニュ家にとって幸運なことだったのか、あるいは不運なことだったのか……。

 男子どころか子供を産むことのなかったマーガレットは、結局跡継ぎをブルゴーニュ家にもたらすことはなく、その点は非常に残念ではあるが、でもそれは彼女のせいばかりではないだろう。

 シャルル突進公はロタールの国の再建を夢見、ブルゴーニュ公国を王国にして、自分が公爵から王になることを当時最大の目標にしていたため、彼女の側に留まらずに、忙しく飛び回っていた。

 そして彼女の存在は、少なくともマリーにとっては最良のことだったのではないかと思われる……というのは困難の時に、いつもマリーを支え続けたのはマーガレットだったからだ。本当の母娘のように、あるいは姉妹のように仲が良かった2人だった。

 しかしマリーにとって、というよりは本当にはマクシミリアンにとって、そして実はハプスブルグ家にとって、確かにマーガレットがマリーの義母になったことは最良のこととなる。
 

 マーガレットの忠告なしに、マリーはマクシミリアンを婚約者と選択できたかどうか……神聖ローマ皇帝家の御曹司との縁組を、マリーに強く薦めたのはマーガレットのだったのだ。



※写真はブルージュ聖血礼拝堂のマーガレット・オブ・ヨークの金の像。
 
 
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主な参考文献。
 
「Maria von Burgund」 Carl Vossen 著    (ISBN 3-512-00636-1)
「Marie de Bourgogne」 Georges-Henri Dumont著   (ISBN 978-2-213-01197-4)

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