56話の考察

読み終えて、ラストが衝撃すぎてまだいろいろな感情を消化しきれていませんが、7巻以降見えなかった百目鬼の心の内がだいぶ明らかになってきたようなので、まとめてみました。忘れないうちに書いておきたいので、時間経過とともに加筆・修正するかもしれないのでご容赦ください。

百目鬼は矢代が「逃げた」と思っている

冒頭のモノローグで「逃げないように」という言葉が出てきた。これまでで百目鬼が矢代について「逃げる」と言及しているのは、8巻で綱川邸へ連れて行かれた矢代が「俺が逃げてくとでも思ってんのか」というセリフに対して「ええ思っています。何度か置いて行かれているので」と答えているものだが、実はもう一つあった。24話のラストで矢代の背後から覆い被さりつつ「逃げないでください、かしら・・・」と言っている。

百目鬼にとって矢代は「自分を捨てる」のではなくて、「自分から逃げる」存在なのだ。「捨てる」と「逃げる」ではその行動に対するモチベーションが全く違う。

56話の冒頭のセリフに戻ると、つまり百目鬼は矢代が自分から「逃げた」のだと思っていることになる。では百目鬼にとって「逃げた」とはどういうことなのか。

6巻のラスト、屋上での七原との会話で、百目鬼は矢代も自分に対して少なからず想いを抱いていることに気がついた。しかし過去のトラウマが原因で矢代はそれを受け入れられない。知らなかったとは言え、百目鬼は自身の想いを矢代のその傷口に無理にねじ込もうとしてしまった。だから矢代は「逃げた」のだ。

そのことに気がついたからこそ、百目鬼は矢代から離れることに納得した。逃げた理由で矢代を責めることはできず、むしろ自分がそう追い込んでしまった罪悪感と後悔から、自分はもう矢代の側にいる資格はないと思ったのだ。

百目鬼の心の動き

というところで百目鬼の4年後の視点に戻る。あの時逃げたはずの矢代が自分から戻ろうとしているように見える。一度諦めたはずの矢代の心を自分は掴めるのか。その葛藤が特に49話以降の百目鬼の心中なのだろう。

4年の間に変わってくれていたら。トラウマを克服してくれていたら。自分を受け入れられるようになってくれていたら。と思い続けた淡い期待は、いまだ井波と爛れた関係を続けているということを知って打ち砕かれる。

にもかかわらず、まだ百目鬼に想いが残っているようなそぶりを見せる。この人は一体自分をどうしたいのか。あの人が自分を欲している理由は、淫乱な関係の一人としてなのか。それとも自分が望むただ一人の存在としてなのか。どちらなのか。

読者にしてみればそんなもの一目瞭然だが、百目鬼にはわからない。だが、48話のエレベーターホールで「お前でいい」と百目鬼を引っ張った時点で、矢代の気持ちが自分に少なからず残っていることをようやくほぼ確信したのだだろう。

でも再び自分の思いを押し付けたら、今度も矢代は逃げてしまう。矢代自身が自分の百目鬼への想いを認めなければ、また逃げてしまう。逃したくない。慎重に、感情を抑えて追い込んで、自分から飛び込ませなければ。だから百目鬼は何度も問いかける。「俺が欲しいんですよね?」と。それは25話での「俺が欲しいと言ってください」の別バージョンだ。そして矢代が欲するのは、体だけではなくて俺の心ですよね、と。

でも矢代にそんな遠回しの言葉は伝わらない。「お前がいい、じゃない。お前でいい、だ。」とはぐらかす。当てつけのように城戸のところへ行く。

そんな矢代に百目鬼の心は苛立つ。矢代はいったい何がしたいのか。俺を振り回して何の意味があるのか。自分は全てを捨てる覚悟をして今ここにいる。でもこの人はそんな俺をいったいどうしたいのか。自分勝手すぎる、と。

55話で一旦部屋を出た百目鬼は、もうそんな煮え切らない矢代の態度を諦めようとしたのだろう。でもやはりできなかった。どうしても繋がりを保ちたかった。体が正直な理由を問うことで、矢代に自分への想いを認めさせたかった。

でも矢代から帰ってきた答えは、「(酷くされるのが)好きだよ」であり、つまり「お前も井波や酷く扱う他の奴らと変わらない」という返事だったのだ。でもそれはそういう風に扱われるのが本当は嫌いにもかかわらず、自己防衛のために好きだと言ってしまういつもの矢代の天邪鬼ということにも気がついた。つまり、この後に及んで矢代はまた逃げようとしているのだ。

でも百目鬼はもう逃したくない。なんとかして矢代を繋ぎ止めておきたい。自分が矢代にとってどんな存在でもいい。少なくとも体さえ繋ぎ止めていられたらあの人を逃さなくていい。

だが体だけの関係でいいと認め合うということは、お互いの心はもう必要ないと宣言するようなものだ。この先お互いの行動がどれだけ互いの心を傷つけようが、そのことに干渉することも責めることもできなくなる。この後、スナックのママと百目鬼の関係が明らかになるだろう。彼女はいわば桜一家公認の存在だ。そして三角は矢代と百目鬼が近づくことを許しはしないだろう。どれだけ体が密につながっても、体だけの関係である限り、分厚いガラスの壁が立ちはだかって、心が触れ合って繋がることはできないのだ。

「いいな、それ。」の矢代の言葉が、今後どういう意味を持つか、二人は解っているのだろうか。


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