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老いて、あとなんど住処を変えますか?(小原信治)

恋するヤドカリ

 隣りの家のベランダで飼われていた雛がある日突然グロテスクな生き物になっていた朝の光景が瞼の裏に焼き付いて離れない。動物図鑑でも見たことのないその生き物があの雛であり、数日後には雞という人間に命を差し出す宿命を背負った成鳥になると知って、大好きだったフライドチキンが食べられなくなった。

 それから10数年後。ぼくは大学のある多摩センターに行くためにラッシュアワーの電車に揺られていた。車内の湿度は高く不快な汗を掻いていた。窓に映る自分の姿が、あの雛でも雞でもないグロテスクな生き物に見えた。明日が19歳の誕生日で、フライドチキンはまだ嫌いだった。

 数年前、演技者を志す学生たちの為に戯曲を書き下ろしたとき、前書きとして綴った文章だ(と言ってもこれから執筆を始める自分の為に書いた序奏のようなもので他者に公開したのは初めてである)。題名は「恋するヤドカリ」。容姿に悩む主人公の女子高校生の前に現れた魔女が彼女の望む容れ物と彼女の容れ物を望む他者の中身を交換するところから物語が始まるのだが、それが単なる一対一の交換ではなかったことからややこしくなっていく。十数名の登場人物がそれぞれヤドカリのように他者の容れ物と入れ替わるうちに主人公は自分の容れ物がどこにいて誰の中身が入っているのかわからなくなってしまう。他者の容れ物を渡り歩きながら誰かに乗っ取られた自分の容れ物を探し求める主人公。役者は筋書きに沿って中身が入れ替わるたびに自分の容れ物を使って複数の人物を演じなければならない。舞台上のすべての役者に主人公のキャラクターを演じる機会が訪れる。容れ物しか見えない観客に「この役者の身体には今誰の中身が入っているのか」を芝居で伝えるという演技の命題をそのまま物語に落とし込んだ作品だった。

初演のYouTube版です。演出はサリng rockさん(劇団「突撃金魚」を主宰。映画「BAD LADS」では俳優としても注目)。脚本を書いた自分で言うのも野暮ですが、大学の演劇サークルなどでも再演された面白い作品(映像化の話が来ないのが不思議なくらい)です。よろしければ。

 Bunkamuraル・シネマほかで公開中の映画「パトリシア・ハイスミスに恋して」を取り上げた今回の放送でも話したようにぼくは常々「人は誰もが容れ物と中身でできている」と考えていた。誰もが少なからず中身と容れ物との相違やサイズの合わない服を着ているような居心地の悪さを感じているのではないか。そんな風に思っていた。

私の中のもうひとりの僕

 これまた放送でも話したように、ぼく自身が中身と容れ物の相違に悩んでいたからだ。物心ついたときから自分は大人だと思っていた。同級生がみんな自分より子供に見えていた。自分が同じような子供の容れ物をしていることに違和感があった。小学生の中にひとりだけ中学生、いや、高校生がいるような疎外感というか、侮蔑感というか。周りの子供たちにいつもやれやれと溜め息ばかりついてしていた。

 容れ物と中身の違和感から解放されたのは17歳のときだ。ファミレスのアルバイトで月に十万近く稼ぎ、親から経済的に自立できる状態になった(と思っていた)こと。自分で買った50ccのスクーターで自由を獲得したこと。そのふたつだけで大人である自分の中身に見合う容れ物を獲得した気になれていた。

 放課後、バイトのない日はいつもスクーターで藤沢街道を下り、江ノ島に海を見に行った。夕日に染まっていく水平線を見つめ、自分の中身がずっと前から17歳だったことを確認していた。しかしながら大人社会に首を突っ込んだことで同時に大人の汚さに触れる機会も多くなっていた。17歳の青臭い潔癖さはそれを許すことができなかった。

「17歳のこの中身のまま大人になっていく」
 1987年12月14日、冷たい雨が降っていた日曜の夜に誓った。
 そこからは中身だけは17歳に留まったまま、容れ物だけが年を重ねている(つもりだった)。

「私の中にもうひとりの僕」が息づいているのを自覚したのは37歳のときだ。始まりは胸の奥で鳴き始めた蛙だった。蛙が鳴くたびに胸が苦しくなった。最初は狭心症か何かだと思った。精密検査を受けたが何の異常も見つけられなかった。

「つまんない大人になったな」
 ある日の朝、誰かが言った。振り返ると姿見の中に見覚えのある黒い皮のジャンパーを着た少年が映っていた。絶句した。背後霊のように映っていたのは紛れもない、17才の僕自身だった。

「本当に20年後の俺かよ?」
 17才の自分に罵られた。逆らおうとすると、狭心症のような胸の痛みで襲い掛かった。胸の奥で泣いていた蛙の正体だった。

 自分の中にもうひとりの自分がいる。驚くより仕方なかった。二つの人格がひとつの体を共有してはいるが、昔映画で見た「ジキルとハイド」のような二重人格とは違う。同じ教室を昼夜交代で共有する、普通科と夜間科みたいなものというか。漫画なんかで自分の中の天使と悪魔がああでもない、こうでもないと言い合うシーンがあるが、あれをイメージするのが近いかもしれない。17才の僕は完全に37才の私とは独立した別の人格だった。

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