クラウドファンディングみたいと僕は言って——彼女の反応は薄かった。きのうから、やがわんの企画がはじまっている。このGW中にnoteで100本の記事をあげるらしい、仲間と共に。——僕もそのうちの一人である。相談を受けたとき、まずはじめに連想したのが、先の表現だった。

この企画は、よくわからない。とにかく、つまりは、やがわんのこの企画にのってみたいか、のってみたくないかだけなのである。結果、どうなるかも不明だ。この期間、noteの地におそらく、#リブセンスnote100本チャレンジというタグが現れ、ごく僅かではあるが、その一部を埋めるだろう。だが、それが何だというのだ。

何のことだかわからない試みを、訳もわからず応援するのは今らしくない。しかし考えてみれば私たちがやってきたことの多くに、意義はあったのか。それらしい理由をくっつけて、謳ってはいたが、砂上の楼閣ほどの耐震性であった。ゆえに、考え直させられているではないか。

それならば、時間を戻してみてもいい。あの丘の向こうへ行こう——とか、そういうノリだ。ただ立ち止まって同じ景色を見ているよりは、よほど何かあるかもしれない。その先陣を切ってくれたのが彼女、ということになる。

無目的なことを無目的だと思ってやるのは、おもしろい。辛いのは無目的なことを目的あるものとして、自らを欺きながら、続けることだ。だからこそ立ち止まったいま、無目的を見つめるチャンスでもある。(見つめすぎてもよくなさそうだ)

クラウドファンディングみたい——と言った僕は、まだ熱に浮かされていたのかもしれない。しっかり目的があって、リターンがあるのだというように考えていたからだ。でも彼女からすればそれは、見当違いだったのだろう。「結果だけでなく、過程も楽しみたい」の言葉が表している。

どうやら考えすぎると身体に毒らしい。一歩踏み出す。行くあてもなく。いつもどおりの計画的な旅行がなくなった僕らにお似合いな企画として。

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