見出し画像

蜜月

おはようございます。きょうも書いていきます。

死が身近になったと思う。イランの司令官が暗殺され、旅客機は墜落して、新宿で首吊り自殺があった。2020年の幕開けは、死のオンパレードといったところだ。この数年、大学での死についての人気授業や、安楽死を肯定的に捉える風潮など、死が生を乗り越えてきている感じがある。では死とは一体なんだろうか。

僕は死はある種の「諦め」ではないかと考える。それは諦めたら試合終了、の諦めともいえるが、そうではなくて、「受容」に近いニュアンスである。僕らは、死を、受容しはじめているのではないだろうか。

その背景には、実存主義の薄れ、があると思う。自分とは何かという問いはこの百数十年、生きる僕らの大いなる暇つぶしになっていた。しかしながらそれがデータ主義によって希薄化され、「自分ごと」になりりにくくなっている。もう自分をあまり信じていないのだ。自らの感情や感性を探るより、サブスクリプションでおすすめをタップするほうが、楽ではないだろうか。

それが死の軽薄化につながっている。自分でなくてもいいという気持ちが、自らを生から切り離し、やがて受容へと変化している。もし、自らの生きたデータを集約して、永久に生きる仮想の自分をつくりだせるとすれば、そのサービスを人類は使うだろうか。十数年前なら、自信をもってNOと言えたろうが、いまそれはない。

死が身近になったということは、生が離れていったということなのかもしれない。自らの内にではなく、外部に生を求めている。求めれば求めるほど、死は近づいてくるのだ。

SNS、ヴァーチャルワールド、生を預託できる場所は今後もさらに増える。それと同時に、僕らは死と蜜月になっていくだろう。探ったり抗ったりすることが、生を繋ぎとめる手段なのだとしたら、今できることは何だろうか。それともはじめから、大いなる勘違いだったのだろうか。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

サポートありがとうございます。