見出し画像

優しさ

岩波書店刊行の雑誌『世界』の2020年3月号で、2018年のノーベル文学章を受賞した、オルガ・トカルチュクがこう述べている。——優しさとは、人格を与える技術、共感する技術、つまりは絶えず似ているところを見つける技術だからです。(中略)優しさは、関係するすべてに人格を与えます。——

最近は優しさに関して、問われることの多かった僕は、これを読んで、胸を撫で下ろした。

一般的に「優しさ」というものは、以下のように捉えられていはいまいか。相手に寄り添う、思いやる、手を差し伸べる。そのどれもが、相手(大抵は身内)を対象に何か行う。慈しむ言葉や、顕著な行動が尊ばれ、望ましいとされる。

それが、どことなく押しつけな感じがして、いやだった。優しさは、もっと独立した存在ではないだろうか。何かに反応してや、義務的に発生するものではないはずだ。相手に向かおうとする優しさには、浅ましさすら覚える。

冒頭の記述中の「技術」という言い回しに納得した。能動的であることが、示されている。反応的ではない。加えて「似ているところを見つける」や、「関係するすべてに」という表現にも心を重ねた。

つまり「関係を限らずに、対象と自らが似る場所を見つけ出す技術」それが優しさということになる。限定的な身内の言動に、むやみやたらに反応することではない。また相手と似るところを見つけるには、自らを知らなければならず、さらには頷きや受け容ればかりが、共感というわけでもないのだ。

優しさは痛々しい。深掘りを要するからである。絶えず自分を疑い、対象を凝視して、見えるものだ。それは癒しや温かさというイメージとは離れる。相手に共感するとき、自らも傷つくだろう。その再生こそ、優しさなのだ。

押し売りや、反応的になっていないか。見るべき場所から、目を逸らしてはいないだろうか。胸が痛んだとき、優しさの片鱗に触れる。着せるのでも、包むのでもない。見つけるのである。その技術を、優しさと言うのである。

サポートありがとうございます。