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正しさを捨てる

おはようございます。きょうも書いていきます。

『話を聞かない男、地図が読めない女』という本が昔、流行った。内容は、たしか男女の脳の構造がみたいなことが、書かれていた気がする。だが本当に構造の問題なのか。男女や脳に限らず、話を聞かないとは、一体どういうことなのかを考えてみた。

先に結論を書いてしまうと、話を聞かないとは「正解から離れない」状態を指している。これはつまりその人は正解なる(正確には、そう信じている)ものを所有しており、そこからビタリと、一歩も動かないことを表している。

会話とは思考のキャッチボールだ。相手の思考を自分の思考にどう織り交ぜるかが、会話の本質である。しかしながら「話を聞かない」人というのは、思考を織り交ぜない。自分の考えが正解だといって、一切を聞かないのだ。

では何が正解なのか、という問いになる。これはたとえば仕事においては、正解が存在することもある。ただしそれは昭和の時代に多い。社会にルールが漫然と存在すれば、おのずと正解が生まれて、そこに固定されるだろう。

だが今はどうだろうか。「これが正解だ」と現代社会で力強く言える人はどのくらいいるだろう。僕は今「正解から離れない」人は、危険だと思っている。なぜなら今は正解がない、もしくは多くありすぎるからである。

社会に正解がある(とされている)ときのコミュニケーションと、そうではないときのコミュニケーションでは、大きく異なる。言わずもがな正解を一つとする人より、多いとする人の方が、合理的に考えても優位である。

正解がないからこそ、正解を集めなければならない。さらにはその過程で、「正しさ」という幻想すら、捨て去るべきだ。つまり「話を聞ける」というのは「正しさ」を捨てられていることなのである。

冒頭の本が流行ったのは、昭和の名残のある平成だった。時代が「正しさ」を求めているのが、「男女」や「脳」に帰着するあたりに反映されている。だがそれもさらに捨てるのはどうか。そうすればまた、話を聞けるはずだ。

きょうも読んでくださってありがとうございました。よい一日を、おすごしください。

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