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本当にそうか

おはようございます。きょうも書いていきます。

「何かを判断しなければいけないとき、私はよく、自然はこの問題をどう思っているのだろうかと考える。」2019年12月12日の東京新聞で哲学者の内山節さんが書いた文の冒頭だ。

それは「日本の伝統的な考え方では、社会とは自然と人間によってつくられているものだ」からであり、「たえず自然という他者に思いを寄せていた」からである。この「他者」という響きが残る。「他者」とは八百万の神ともとれるし、隣人ともとれる。いずれにせよ、ご近所様であり、自分ではない誰か(もしくは何か)のことを指す。

その話を思い出す出来事が、最近あった。ある人と話をしていて、「本当にそうかなぁ?」という問いを、投げかけられた。そこそこ長い付き合いで、このような応酬は珍しくない。そして、彼以外の人から、同じような内容を投げかけられることは少ない。

「本当にそうかなぁ?」という問いは、一寸のあいだ、双方の肝を冷やす。僕はそれを言われて、恥ずかしかった。実際に正確か、否かは分からない。しかし、自らを疑うことを飛ばした自分に対して、判断が性急であったと、省みざるをえない。

自然というのは、こういう形で現れてくるのだと感じた。安易に言葉を紡ぐなら、それは客観ということになろうが、点というよりも範囲として広く、また長い時間にわたるものを、享受するかの様に思う。常に本当にそうか?と共生している感覚を持つのである。

社会の「他者」というものが、上代は自然であったのなら、いまは気のおけない誰かであろう。山の木々は喋らないが、誰かもまたすぐには喋ってくれない。こうしてたまに起きる出来事でもないかぎり、平然と進んでしまうのだ。平生、言葉を扱っている分だけ、分別はつきにくいかもしれない。

「本当にそうかなぁ?」に感謝を表しながら、次は自分で問いかけられるか試みたい。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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