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奪われる

おはようございます。きょうも書いていきます。

仕事をしていると「仕組み化」や「数値化」「可視化」といった言葉をよく聞く。これはある仕事を誰かにしかできない状態から、誰にでもできる状態を目指すために提唱されているのだと理解している。そしてお約束といっていいほどその動きに「人にしかできない仕事があるよ。」といった反対意見をぶつけてくる人がいる。

僕はこの「人にしかできない仕事がある」ことには賛成だ。将来的にどうなるかはわからないが、いまは確実にあると言えるだろう。しかし一方で、だからといって「数値化」や「可視化」を推進しない理由にはならないと思っている。「人にしかできない仕事」は、「仕組み化」を推し進めたうえで、最後の最後にやればいい。

この手の話になると、どうも「機械」VS「人間」のような構図で考えてしまいがちだ。外部に仮想敵をつくりだし、それを親の仇のように思えてしまうのは、生存の本能なのだろうか。しかしあまり賢明な選択とはいえなさそうである。

おそらく「人にしかできない仕事がある。」と意見を主張する人の心のなかには、何かを奪われてしまう恐れがあるのだと思う。それは感情とか感性とか感覚とか、目に見えないものとして、大事にされてきた対象だ。突き詰めればそれは他者への思いやりであり優しさであろう。それがテクニカルでロジカルになることによって失われるのではないか、という不安に駆られている。

だが冒頭で述べたように、「仕組み化」やその他の取組みは、誰にでもできる状態を目指すために行われている。これを他者への配慮と言わずして何というだろう。奪われるのは、自分が両腕に抱えこんでいる「自分にしかできない仕事」なのではないか。それを守ることに思いやりや優しさはあるだろうか。

誰かのためと謳うほど自分のためなのだ。真に望むなら謳わずに動く。それは一見機械のように冷静で、味気なくも見えるが、誰かのために動いている。汲み取れる心を持ちたい。

今日も読んでくださってありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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