オッケー
おはようございます。きょうも書いていきます。
むかし、会社の先輩で「オッケー理論」というのを提唱している人がいて、どうすれば女性が「オッケー」してくれるかを、常日頃から研究していた。いわく「終電を逃したら」に始まり、「めずらしいペットを飼っていたら」「所持品が混入していたら」など、とにかく相手の言い訳を用意するのが、重要であると力説していた。
そして、あらためて世の中を見回してみると、「言い訳」を制する者こそが世界を制する、といっても過言ではない。今日はそのことについて、すこし真面目に考えてみる。
たとえばマッチングアプリ。10年前までは「出会い系」と呼ばれ、敬遠されていたのに、いまや男女の出会いを支える、有効な手段となっている。これは「マッチング」というネーミングからアプリデザインまで、“ガワ”を徹底的に磨くことで、やってもいい「言い訳」を生み出している。
「言い訳」には2段階あると思う。1段階目は「カッコいい」や「オシャレ」といった、前衛的な「言い訳」だ。これまでは社会的に邪魔者扱いされて、避けられていたものを取り入れるのが、「カッコいい」のだと再定義する。本質的にそれが「カッコいい」かは、さほど問題ではない。(「LGBT」は如実にそうだったと思う。)
2段階目は「みんなやってる」や「あたりまえ」といった、「言い訳」だ。これは攻めというよりも、守りに近い。他の人でやっているんだし、という「言い訳」ではじめる。影響力としては、こっちのほうが圧倒的に大きい。ここまでくると「カッコいい」や「オシャレ」はどうでもよくなってくる。
つまり針の穴ほどの異端から入り、気づけばそれが常識になっているのが、「言い訳」の真髄だ。1段階目の「言い訳」は、異端を再定義すること自体が重要であるから、たとえば将来「お見合い」が「カッコいい」「オシャレ」になるのも、十分に考えられる。(親戚の叔母さん、復活である。)
そうやって行ったり来たり、いつもどこかに「言い訳」を探しているのだ。本当は何だってオッケー、ということは、言うまでもない。
きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。
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