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都合のいい文化

おはようございます。きょうも書いていきます。

文化という言葉は、都合のいい言葉だと思う。文化が合わない、文化が違うという会話を、した経験は無いだろうか。カルチャーマッチといえば、更に親しいかもしれない。いずれにせよ、文化というある基準に則したときに、それに合う合わない、といった判断する行為を指している。

これがいつからか傲慢な態度のように感じるようになった。なぜはじめから規定のものがあって、それに合っていないと、もしくは合わせないと、排除される嵌めになるのか。またその規定されているとする対象の、曖昧さにも不信を抱く。あるときは堅固でいて、あるときは都合よく柔軟なのである。その正体を知る者はいない。

先日『レトリック感覚』という本を読んでいて、ある一節に出会ったので、紹介したい。

「文化とは記号の体系であり、記号をささえるものは約束と信用である。(中略)行くたびに態度の豹変する床屋や、使うたびにすっかり意味の変わってしまうことばや、預けた金をおろさせてくれない銀行は、私たちの文化をおびやかすであろう」

どうだろうか。文化とは約束と信用で構築されている、と僕は読み解いた。つまり片一方による判断ではなく、双方の間にある、積み重ねが文化なのである。確かに我々は、文化というものを、まるで阿吽の呼吸の如く、相手に確認をせずともこうするであろう、という感覚で捉えていまいか。我が家の文化くらいの規模でイメージを持つとわかりやすい。

つまり文化とは入口にも出口にも立っていないのだ。文化が合っているか、文化が合わなかったというのは間違っている。文化を合わせようとしたか、なのであり、文化を構築しようとしたか、がより相応しいといえるだろう。

文化が人々の間にあり、それが積み重ねという形で変化を遂げるのならば、正体不明という性質にも合点がいく。そして、その性質を自らのもとにだけ寄せるのは不遜である。文化とは人「間」に似ている。単体には成立せず、組み合わせと時間のなかで蠢く。未熟から成熟に向かっているのである。

きょうも読んでくださってありがとうございました。よい一週間をおすごしください。




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