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フラットの相方

おはようございます。今週も書いていきます。

ある人と話していて、信念がないとフラットにならないんです。という言葉をもらった。瞬間、ハッとさせられたのだが、そのときは、すぐに言語化ができなかったので、この場を借りて考えてみたい。

フラットな考え方、ものの見方、というのは一見すると、フェアーであり、ニュートラルであるように感じる。「みんなちがって、みんないい。(金子みすゞ『わたしと小鳥とすずと』)」の引用が好まれるのは、誰しもが特別な考え方をもっており、特別な存在である、というのを強調したいからだ。

その背景には、アンフェアーやアンニュートラルはやめてほしい、価値観の押しつけはやめてほしい、という願いが含まれている。フラットに考えれば誰だって素晴らしいし、誰の考え方も否定できないよね、という沈黙の盾が存在する。

だがこのフラットというのは厄介だと、僕は考えていた。ともすれば、何も持たない方が、何かを持つよりも、はるかに楽そうだ。それは自らの信念をすすんで捨てることを、推奨しているのだろうか、という困惑すらあった。

しかし、冒頭の言葉を借りれば、「信念がないとフラットにならない」のである。ここでは主眼を「フラット」という状態に置くのではなく「信念」の「ない(もしくはある)」に置いている。つまり自らの重しを持たないと、何かと天秤にかけたときに、吊り合わせることが難しいということなのだ。

話をまとめると、「フラット」というのは、何でも受け容れたらよいという状態ではない。まず自らの「信念」があって、そのうえで相手の「信念」をどう測るのか。ときとして「信念」の一部をちぎってバランスを取ったり、別の天秤に交換して、測り直す必要もあるだろう。

この調整や交換のことを「フラット」と表すのが、相応しいのではないか。はじめからゼロというわけにはいかない。相方がいなければ、フラットにはならないのである。

今週も読んでくださって、ありがとうございました。よい一週間をおすごしください。

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